「大内義長」(おおうち・よしなが ? ~ 1557)とは、戦国時代に西国にて一大勢力を誇った大友氏・大内氏に跨るリア充な御曹司に見えて、実際は運命の歯車にもて遊ばれ、もがき苦しみ、翻弄されながら、人生の坂道を音速で転がり落ちる生涯を送った悲運の武将であり、数々の不幸伝説に彩られた人物である。
名は、大友晴英とも。
「信長の野望」シリーズでは近年の低能力なイケメンぶりで「顔だけまともな人」と言われる残念さに定評がある。
北九州の一大勢力・大友義鑑の子に生まれる。兄は大友宗麟。母は大内義隆の姉。
はじめは、室町幕府12代将軍・足利義晴から一字をもらい「大友晴英」と名のる。
その後、周防国・長門国に一大勢力を築いた大内氏の当主・大内義隆の養子に向かい入れられたものの、大内義隆に実子が生まれると養子縁組を解消され、その後大内家の重臣・陶晴賢の要望と本人の強い意志から再度大内家に入ったものの、陶晴賢の謀反により大内義隆が討ち取られて傀儡当主に祭り上げられ、厳島合戦で陶晴賢が毛利元就に敗れた後は、大内家の衰退をとめることが出来ずに自刃して果てた。
西国二大勢力にまたがる人物として何不自由ない人生を送れたかもしれない大内義長にとって、戦国時代の波は玄界灘の荒波以上に荒かった・・・
中国地方の最大勢力であった大内義隆には、土佐のヒーロー・一条兼定を生み出した一条家から嗣子に迎えた大内義持がいたが、尼子氏との戦いで溺死してしまい、名門に跡継ぎがいないのは困るということで、姉の子である大友晴英を養子にもらうことにした。
すでにこの段階で大友晴英・後の大内義長の不幸が始まっていた・・・
大内義持が嗣子つまり大内義隆に男子が出来ても後継者の地位が保障されていたのに対して、大内義長は養子つまり大内義隆に男子が出来たらその男子よりも継承権が下になって「いらない子」扱いされる条件だった為、実際に大内義隆に実子・大内義尊が生まれると、早速、実家の大友家に送り返されている。
大内義長哀れ・・・
大内義長は、大内家に養子に入った際に大友家の後継者から外されてしまったらしく、大友家に送りかえされた後でも、父・大友義鑑は、大内義長の存在を無視して、弟に跡を継がせようとした。
しかし、大友家の後継者争いは「二階崩れの変」となり、父と弟が死んで兄・大友宗麟が大友家を継ぐことになった。
まぁ順番的には長男が継いだことにはなったが、候補からはずされた大内義長哀れ・・・
その後、尼子氏との戦いに敗れてから当主としての求心力を急激になくしていった大内義隆に対して、謀反を考えた陶晴賢により、大友晴英(大内義長)をダメ人間化した大内義隆に代わる新たな大内家当主とする事を名目に、再度大内家に入る要望が大友宗麟の元に届く。陶晴賢の勢力が磐石になれば不要な存在として処断される可能性も考えた大友宗麟だったが、
この要請を断り中傷を受ける事の方が悔しいので、命は惜しくない
との大友晴英(大内義長)の空気の読めない主張を受け入れて、陶晴賢により大内義隆が殺されると、大友家から大内家へと入り、名も大友晴英から大内義長に改めた。
しかし、所詮は陶晴賢の操り人形。勘合貿易の再開の為に当時の中国「明」へと使者を派遣するも、「明」からは正統な後継者と認められなかった。
外国にまで「いらない子」扱い・・・大内義長哀れ・・・
そして運命はさらに急転する。
陶晴賢が、厳島の戦いで毛利元就に敗死すると、先の陶晴賢の謀反時に忠義に篤い家臣が大内義隆と運命を共にしていた事や、厳島の戦い以前から行われてきた毛利元就の調略によって家中がずたぼろになっていた事、そして、所詮、大内義長は養子であり、皆が認める陶晴賢の傀儡という認識であった為か、家中は崩壊し、大内家は急速に勢力を衰退させていき、毛利元就の侵攻によって次々と城を放棄していった。
功臣の多くが謀反や讒言、家中の騒動によって死んでいく中で残った忠臣・内藤隆世の尽力もあって、毛利の猛攻に対抗し続けていた大内義長だったが、居城を包囲されるに至り、毛利側の大内義長助命の条件をのんだ内藤隆世が自刃して果てた後に開城、大内義長は長福院に移った。
この時、毛利元就は、大内義長の兄・大友宗麟に対して、大内義長の助命を提案したものの、大友宗麟は毛利元就が先に手に入れていた大内氏の家宝「大内筒(大内瓢箪茶入)」を所望した為、兄からも「いらない子」扱いされた大内義長は、自分の命の為に腹を切った内藤隆世の後を追うように、毛利家からの自刃の要求に応えて潔く切腹して果て、栄華を誇った大内家は滅亡した。
茶入より軽い命だったとは・・・大内義長哀れ・・・
※当時、大友宗麟の身近には、大内義隆と対立して大友家に身を寄せていた大内輝弘という大内義長の代わりとなる手駒がいたことも、茶入以下の命とさせてしまった要因と思われる。
誘ふとて 何か恨みん 時きては 嵐のほかに 花もこそ散れ
自分の人生がこうして終わるといっても何を恨むものだろうか。
嵐が来なかったとしても、時がくればいずれ花は散るものなのだ。
大内義長の墓のある長福院はその後「功山寺」に名を改めた。
そして幕末・・・
長州藩の危機に立ち上がった高杉晋作が決起した場所こそ、大内義長の眠る功山寺であった。
※その他「大内義長」の詳細についてはWikipediaの該当項目参照の事。
▼「信長の野望 革新PK 地方別武将ランキング」中国編にて赤松晴政を抜きさってワースト1位に輝いた(泣)
※でも、肝付兼亮や一条兼定の倍の能力なんだよ(泣)
「信長の野望」(PC)シリーズにおける大内義長(大友晴英)の能力一覧。
シリーズが進むにつれて能力の劣化が顕著に。
家宝システム登場以降は、「大内筒」のオプションと化し、首を切られる事も多くなった。
※大内筒(オオウチヅツ):「青磁筒花生 銘 大内筒」
南宋の官窯でつくられたと言われる青磁の花生けで、足利義政が所有した「東山御物」の一つが大内家に伝わったもの。現在は重要文化財として根津美術館に所蔵されている。
| 軍事能力 | 内政能力 | |||||||||||||
| 戦国群雄伝(S1) | 戦闘 | - | 政治 | - | 魅力 | - | 野望 | - | ||||||
| 武将風雲録(S1) | 戦闘 | 36 | 政治 | 43 | 魅力 | 68 | 野望 | 42 | 教養 | 79 | ||||
| 覇王伝 | 采配 | 63 | 戦闘 | 22 | 智謀 | 9 | 政治 | 43 | 野望 | 42 | ||||
| 天翔記 | 戦才 | 60(C) | 智才 | 46(C) | 政才 | 106(B) | 魅力 | 74 | 野望 | 43 | ||||
| 将星録 | 戦闘 | 35 | 智謀 | 24 | 政治 | 49 | ||||||||
| 烈風伝 | 采配 | 43 | 戦闘 | 30 | 智謀 | 16 | 政治 | 49 | ||||||
| 嵐世記 | 采配 | 21 | 智謀 | 8 | 政治 | 35 | 野望 | 29 | ||||||
| 蒼天録 | 統率 | 18 | 知略 | 11 | 政治 | 35 | ||||||||
| 天下創世 | 統率 | 18 | 知略 | 10 | 政治 | 32 | 教養 | 63 | ||||||
| 革新 | 統率 | 22 | 武勇 | 20 | 知略 | 12 | 政治 | 36 | ||||||
急上昇ワード改
最終更新:2025/12/11(木) 13:00
最終更新:2025/12/11(木) 13:00
ウォッチリストに追加しました!
すでにウォッチリストに
入っています。
追加に失敗しました。
ほめた!
ほめるを取消しました。
ほめるに失敗しました。
ほめるの取消しに失敗しました。