長門(戦艦)とは、旧日本海軍が保有していた戦艦(長門型戦艦)である。
名前は旧国名の長門国に由来している。元は八八艦隊を形成するトップナンバーとして建造された。
量で仮想敵国アメリカに対抗できない日本海軍が質で対抗すべく世界最強を目指して設計されている。
ユトランド沖海戦での戦訓を生かし、当時の戦艦としてはトップクラスの速力(26.5kt)を誇る一方、41cmの主砲を持つ。日本の同型艦「陸奥」と、長門型とほぼ同じ主砲を持つアメリカ戦艦「コロラド」「メリーランド」「ウェストヴァージニア」、イギリス戦艦「ネルソン」「ロドニー」はビッグ・セブンと呼ばれた。
第1次大戦以来の建艦競争は長門をはじめとしたビッグ・セブンが登場するころになると限界に達し、財政圧迫を嫌った当時の大国はこれをきっかけに軍縮を行い建艦競争はしばし休止となった。これがいわゆる俗にいう「海軍休日」である。
その後、1930年代も半ばになると国際情勢はきな臭くなり、日米は対立を徐々に深めていく。
ワシントン海軍軍縮条約を破棄すると再び建艦競争が始まる。
そしてついに1941年12月8日、日本の空母機動部隊が真珠湾を強襲、太平洋戦争(大東亜戦争)が勃発。
この真珠湾攻撃により海上艦艇の航空機に対する脆弱性が明らかになり、大艦巨砲主義の申し子である戦艦にも暗雲が立ち込める・・・。
日本海軍は古参の戦艦たちは危険な最前線で戦わせる一方、大和型と長門型の4隻は温存した。
「長門」はミッドウェイ海戦にも参加するものの、最前線から離れた位置で何の活躍もしないまま撤退する。
というのも、長門型は戦艦「大和」が終戦まで一般国民に秘匿されていたために日本海軍の象徴的存在だったからである(現代人からすれば日本海軍の象徴といえば「大和」なので意外に思ったかもしれない)。
その後各地で転戦するがまともに主砲を撃ったのはレイテ沖海戦を待たなければならない。
なお、この海戦でも大きな戦果は得られなかったようである。
レイテ沖海戦の後、まともな海軍力を失ったため、横須賀港で停泊していたが、この時既にまともな戦艦は「長門」と「大和」だけとなってしまっている。沖縄救出のため無謀としかいえない菊水作戦で「大和」を失うと日本における唯一の戦艦となり、そのまま終戦を迎える。
終戦に伴い、「長門」はアメリカに接収される。1946年にはアメリカによる原爆実験「クロスロード作戦」の標的艦として供せられた。
7月1日、大小70の老朽艦と共に最初の空中実験が行われる。爆心地から1.5kmほどに位置にいた「長門」は他の大型艦同様沈没せず、表面が若干溶解する程度の損傷であった。
7月25日には今度は水中での実験が行われる。「長門」は爆心地からほど近い距離であった。爆心地のすぐそばにあった旧式戦艦「アーカンソー」は瞬時に轟沈、長門とほぼ同じ距離の正規空母「サラトガ」は七時間後に沈没。その中で「長門」はわずかに傾斜するも海上に浮上していた。
これを見たアメリカの調査隊は次のように呟いたという。
Old navy never die.(海の古強者は死せず)
4日後の朝、調査隊は「長門」の姿がどこにも無いことに気づく。深夜の内にひっそりと沈んだのだ。一説には、乗員が乗り組んでいてダメージコントロールを行っていれば健在のままだったとも(ただし中の人が放射線にやられていなかった場合)。
自らが沈む姿を見られることを拒むように、「長門」は26年の生涯を終える。
※なお、クロスロード作戦において沈んだ艦の中で、長門は最大の艦である。これは核爆発の破壊力は水上艦に対しては距離に反比例して急速に減衰することを意味しており、長門の防御力の絶対値的な高さを証明するものではない。(サラトガ<長門であったとは言えるが、空母と戦艦では比較にならない……)
時が流れて21世紀初頭―戦艦「長門」はいつしか「俺の嫁」などと呼ばれるようになる。
船が女性名詞であること、戦時中「長門」が国民や乗組員、海軍によってあたかも愛する女性のように大事に扱われていたことなどから当然の帰結であるといえよう。
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最終更新:2025/12/13(土) 05:00
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