朱全忠は唐末から五代十国時代にかけて活躍した人物で、唐から禅譲を受けて後梁を建国した。最初は朱温という名だったが、唐に帰順した際に全忠の名を与えられ、皇帝即位後には朱晃を名のるようになった。
貧しい儒家の家に生まれた朱温は父が早くに亡くなったため、兄弟とともに親戚の下で育った。他の家族が農家の手伝いをしていたの対し、朱温はろくに仕事もせずに武術などに熱中したため、周囲の人々からはニート扱い嫌われていた。
閉塞した生活から脱却するため黄巣の乱に参加した朱温は短期間で頭角をあらわし、一軍を率いるまでになった。しかし黄巣が長安を拠点に斉国皇帝を名のるようになると黄巣軍はそれまでの流動性を失って各地で破れるようになり、朱温も唐との戦いで劣勢になった。ここに至って黄巣の未来に見切りをつけた朱温は唐に帰順し、黄巣軍鎮圧のため活動するようになる。黄巣衰退のきっかけを作った朱温は李克用と並ぶ功績者とされ、「全忠」の名と宣武節度使の地位を受けて一挙に唐の有力軍閥に成り上がった。
さらなる権力獲得を目指す朱全忠は末期の唐の朝廷の主導権を巡って李克用と激しい抗争を始めた。武勇においては李克用に及ばなかったものの、政略・謀略の才において勝る朱全忠は唐の朝廷を掌握して李克用を孤立させ、両者の対立は朱全忠が優勢となった。907年、満を持して哀帝から禅譲を受けた朱全忠は皇帝に即位し、大梁国(後梁)を建国した。朱全忠の皇帝即位に対し李克用はもちろんのこと、藩鎮として半独立国となっていた南の諸勢力もこれを認めなかったため、ここに五代十国時代が始まることとなる。
後梁の建国から一年足らずして李克用が病死したとの報が届くと、梁の太祖となった朱全忠はこれを沙陀軍閥制圧の絶好の機会ととらえて兵を発した。宿敵の死・そして華北統一の夢に浮かれていたのか太祖は李克用の後継者李存勗をなめきっていたが、これが彼にとって最大の誤算となる。後梁軍と対峙していた沙陀軍の武将周徳威が撤退を始めると太祖は李存勗が抵抗を諦めたものと考え、ろくに斥候も出さないまま前線を配下の武将に任せて太祖は洛陽に帰還した。しかし李存勗は梁軍に悟られぬまま前線にたどり着いており、敵が無防備なのを見ると奇襲をかけ、これを壊滅させた。
この報を聞いた太祖は、
子を生むならば、このようであるべきだ。李氏は亡びない。吾が家の諸子は、豚・犬ばかりだ。
と嘆いたという。
これ以降梁と沙陀軍閥の軍事バランスは崩れ、後梁は李存勗によって圧倒されてゆくこととなる。また、賢婦人と称えられた張婦人が亡くなったことをきっかけに生来の好色さが悪化し、配下の武将の人妻にも手を出すようになって後梁内部からも太祖への不満がたまるようになった。失意のためか姦淫な生活のためか病に伏せるようになった太祖は最も愛情をそそいでいた朱友文を皇太子としようとする。しかしかねてから太祖より冷遇されていた朱友珪はこれに反発、太祖に対しクーデターを起こし自ら皇位に就いた。
押し寄せる兵に対し太祖は最初事態をつかめなかったが、朱友珪を見ると
早く貴様を殺しておくべきだった。残念だ
と諦め、朱友珪に殺された。李克用・李存勗の脳筋父子に悩まされた一生であったといえる。太祖の死後も李存勗との戦力差は覆しがたく、後梁は十六年という短命王朝に終わった。
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最終更新:2025/12/13(土) 05:00
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