『涌井秀章』とは、埼玉西武ライオンズに所属するプロ野球選手(投手)である。
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2004年ドラフトで一巡目指名を受けて埼玉西武に入団。高校時代は横浜高校の小倉部長をして「松坂(大輔)より我慢し辛い練習に耐えて乗り越えた」との評価を受けている。入団当時の背番号は16。
ルーキーイヤーの2005年、完成度の高さから高卒新人ながら13試合に先発するも1勝6敗防御率7.32とプロの洗礼を浴びる。
2006年は3月26日にルーキー炭谷銀仁朗(現・銀仁朗)とバッテリーを組み勝利、10代バッテリーの勝利は17年ぶり。結果、12勝8敗防御率3.24と戦力にならなかった前年からローテーション投手になる大成長を遂げる。
2007年、シーズンオフにシュートを習得し17勝10敗防御率2.79で最多勝に輝き松坂に変る若きエースへと変貌を遂げた。特に両リーグ最多の213投球回を投げ11完投をマークする高校時代から定評があったスタミナの評判をさらに上げた。シーズン終了後、北京オリンピックのアジア予選では初戦フィリピン戦に先発し6回無失点の好投で国際試合を経験。
2008年は試練のシーズンで開幕投手を務め140球を投げ8回2失点ながら敗戦投手に。四死球が増加してしまい、10勝11敗防御率3.90と2桁勝利するもシーズン負け越し(北京オリンピックの影響も少なからずあったが)。
それでもクライマックスシリーズでは2勝しMVP、日本シリーズは1勝1敗防御率3.31で西武を日本一に導き、アジアシリーズも冷や冷やながら台湾の統一ライオンズを破り日本勢のアジア王者陥落を阻止した。
※この年のアジアシリーズは偶然にも韓国のSKワイバーンズ以外の日中台がチーム名ライオンズであった
この2008年シーズンオフの契約更改では、前年より球団から打診されていた背番号の変更を悩んだ末に了承、新たに背番号18となった。
2009年はWBC日本代表に選出され、中継ぎとして二連覇に貢献。シーズンでは2年連続で開幕投手を務める。抑えの切り札だったアレックス・グラマンが故障離脱し、先発した試合では完投を余儀なくされ、年間で3,555球も投げた。最終的に16勝6敗防御率2.30で沢村賞を受賞した。
2010年も3年連続で開幕投手となり、先輩の成瀬善久と投げ合った。4月は不調だったが、交流戦で持ち直し、和田毅に次ぐ交流戦通算17勝を挙げる。また交流戦としてはパ・リーグの投手で初となる猛打賞を達成した。しかし夏以降は失速し、14勝8敗に終わった。
2011年も開幕投手を務める。好敵手・ダルビッシュ有を相手に勝ち星を挙げる上々の滑り出しだったが、その後は昨年後半からの不調を引きずり勝ち星から見放され、5月には一時二軍降格も経験する。このとき右肘の遊離軟骨が発見されるもそのまま復帰。この影響もあってかレギュラーシーズン中は期待を裏切ることが多く、5年続いていた2ケタ勝利も途絶えた(9勝12敗)。CSでの福岡ソフトバンクホークス戦では杉内俊哉を相手に9・2/3回を1失点の熱投で意地を見せるもチームは敗退した。
2012年も開幕投手を務めたが、不調から抜け出せず、3連敗した後、二軍に降格。一軍に復帰後は抑え投手を務めている。
球種はスライダー・カーブ・シュート・カットボール・フォーク・チェンジアップ・パームなど多彩。
マウンド上でも(プライベートでも)感情をほとんど表に出さないポーカーフェイスで知られる。
ニコニコ動画では時折、涌井が出ている場面で涌井弾幕なる荒らしコメントがあるので不快なら非表示推奨
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最終更新:2025/12/09(火) 01:00
最終更新:2025/12/09(火) 00:00
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