矢野燿大(やの あきひろ、1968年12月6日-)とは、大阪府出身の元プロ野球選手(捕手)である。
本名「矢野輝弘」。ポジションは捕手。中日ドラゴンズ時代は外野手を守ることもあった。
| OB | |
|---|---|
| 矢野燿大 | |
| 基本情報 | |
| 出身地 | 大阪府大阪市平野区 |
| 生年月日 | 1968年12月6日 |
| 身長 体重 |
181cm 80kg |
| 選手情報 | |
| 投球・打撃 | 右左投右左両打 |
| 守備位置 | 捕手 |
| プロ入り | 19990年ドラフト2位 |
| 引退 | 2010年 |
| 経歴 | |
選手歴
|
|
| プロ野球選手テンプレート | |
中学時代は野球部がなかったため、バスケットボール部に所属していた。
桜宮高等学校、東北福祉大学を経て1990年ドラフト2位で中日ドラゴンズに入団。
1997年のオフ、捕手の強化を考えていた阪神の吉田義男監督と、阪神の久慈照嘉を欲した星野仙一監督の交渉により、矢野は同僚の大豊泰昭と共に関川浩一・久慈照嘉との交換トレードで阪神タイガースに入団、98年はほぼレギュラーとして試合に出場し、5月26日は川尻哲郎のノーヒットノーランをアシスト、7月7日にはこの年MVPを獲得した「大魔神」こと佐々木主浩からサヨナラヒットを放ち、佐々木にこの年唯一の敗戦記録を付けた。
1999年から指揮を執った野村克也にもリード面を評価され、完全に正捕手の座を獲得。
2002年は新たに就任した星野監督の元、阪神の快進撃に貢献していたが、自身の故障と共にチームも失速した。
2003年藤本敦士と共に恐怖の下位打線を形成し、阪神の18年振りの優勝に貢献した。その年ベストナインとゴールデングラブ賞を受賞した。ゴールデングラブ賞は捕手として史上最年長での初受賞であった。
2005年はバッティングフォームを変え、自己最多の19本塁打を記録。阪神に移籍して2度目の優勝に貢献し、日本シリーズの敢闘選手賞も受賞した。その年のオフFA権を取得し、FA宣言して残留した。
2007年、2008年は故障や年齢の影響もあり全試合先発出場することはなく、野口寿浩と併用されるような形の出場となった。また、2008年は星野監督に誘われ北京五輪に選出された。
2009年は手術した右肘の回復が遅れ2軍スタート、30試合に留まったものの勝負強さは健在であった。オフに登録名を「矢野燿大」に変更した。しかし2009年に狩野恵輔が台頭し、FAで城島健司が移籍してきたため、2010年は厳しい戦いを強いられることが予想された。
2010年は城島の控え捕手としてチームを支えていたが右肘の状態が悪く6月に2軍落ち、復活の目処が立たず20年間にわたる現役生活に別れを告げ引退。なお同年9月30日甲子園でのシーズンラストゲーム後引退セレモニーが行われた。
2011年からは野球評論家、野球解説者、スポーツキャスターとして活動している。
| 球団 | レス | No | プレイヤー |
|---|---|---|---|
| 阪神 | 応援歌のピコカキコ一覧#695 | 10764 |
| 通算:20年 | 試合 | 打席 | 打数 | 得点 | 安打 | 本塁打 | 打点 | 盗塁 | 犠打 | 犠飛 | 四球 | 死球 | 三振 | 併殺打 | 打率 | 出塁率 |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| NPB | 1669 | 5517 | 4921 | 503 | 1347 | 112 | 570 | 16 | 103 | 29 | 406 | 58 | 1089 | 138 | .274 | .335 |
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最終更新:2025/12/12(金) 10:00
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