荒木大輔とは、元プロ野球選手・現東京ヤクルトスワローズ一軍投手コーチである。
高校時代に5季連続で甲子園出場を果たす活躍を見せ、イケメン好青年という属性も相まって「大ちゃんフィーバー」と呼ばれる社会現象を巻き起こした伝説の高校球児。プロ入り後も変わらぬ人気を集めたが、プロの壁と度重なる故障に苦しめられ、プロ野球選手としては中堅レベルの域を脱せないまま終わった。
引退後は解説者を経て投手コーチとして現場に復帰。現在は古巣であるスワローズの一軍投手コーチを務めている。生え抜きの人気選手ということもあり、スワローズ次期監督の最有力候補と目されている。
1964年5月6日、東京都調布市にて生まれる。リトルリーグ時代から投手として活躍しており、6年生の時には世界大会でノーヒットノーランを達成するなど既に頭角を現していた。1980年4月、高校野球の名門・早稲田実業に進学する。
入学当初は控え野手扱いだったが、同年夏の地方大会・準々決勝を前にエースが故障するというアクシデントが発生。急遽マウンドを引き継いだ荒木は残り3試合を4失点に抑える好投を見せ、チームを甲子園に導いた。
そして迎えた甲子園本大会、荒木は全国の高校野球ファンの度肝を抜く活躍を見せる。
| 勝敗 | 対戦校 | 投球回 | 被安打 | 与四球 | 奪三振 | 失点 | 備考 | |
| 1回戦 | ○ | 北陽(大阪府) | 9 | 1 | 4 | 4 | 0 | 完封勝利 |
| 2回戦 | ○ | 東宇治(京都府) | 8.1 | 3 | 1 | 4 | 0 | 大量リードで控えに出番を譲る |
| 3回戦 | ○ | 札幌商(南北海道) | 9 | 4 | 1 | 10 | 0 | 完封勝利 |
| 準々決勝 | ○ | 興南(沖縄県) | 9 | 3 | 1 | 9 | 0 | 完封勝利 |
| 準決勝 | ○ | 瀬田工(滋賀県) | 9 | 7 | 2 | 6 | 0 | 完封勝利 |
| 決勝 | ● | 横浜(神奈川県) | 3 | 7 | 3 | 1 | 3 |
1回戦から準決勝までの5試合を4完封・44.1回連続無失点と、全国の猛者を寄せ付けない完璧なピッチングであった。決勝戦では愛甲猛を擁する優勝候補・横浜高校に初回から打ち込まれて敗戦、大会記録である45回連続無失点にもわずか1/3イニング届かずに終わったものの、1年生とは思えないその活躍ぶりによって一躍高校野球界の期待の星と目されるようになったのである。
しかも荒木は超高校級球児というだけではなく、イケメン好青年でもあった。もはや野球漫画の主人公並みである…。かくしてその人気は高校野球界を超え社会現象の域に突入していくことになる。後に早実の後輩に当たる斎藤佑樹が「ハンカチ王子」と呼ばれ人気を博したが、荒木の人気はこれに勝るとも劣らないものだった。
このような状態が高校在学中ずっと続き、荒木の心労は大変なものになった。あまりの注目のされ方にチームメイト達も嫉妬や羨望の念はあまり感じず、むしろ可哀想に思うくらいだったという。
その後荒木は早実不動のエースとして2年春・2年夏・3年春・3年夏と連続で甲子園に出場、高校在学中に出場できる全ての甲子園大会でマウンドを踏むという偉業を達成する。早実は毎回優勝候補の一角と目され、試合の度に早実側スタンドは女性ファンの大群に埋め尽くされた。
しかし荒木が優勝旗を手にすることは遂になく、それどころか準優勝した1年夏が高校時代のキャリアハイという結果になってしまった。格下相手には圧倒的な成績を残したものの、クジ運が悪く、早い段階で優勝校に当てられたこともあり(2年夏は3回戦で報徳学園に、3年夏は準々決勝で池田に敗れた)、ベスト8から先に進めなかったのである。
荒木が甲子園で残した成績は、17試合(141回)12勝5敗・防御率1.72。優勝旗には手が届かなかったが、超高校級の名に恥じない立派な成績ではあった。
当初は早稲田大学への進学を希望しプロ拒否を表明していたが、その年のドラフトでスワローズとジャイアンツがともに1位で強行指名。抽選で交渉権を獲得したスワローズは粘り強く説得し、最終的に荒木もスワローズ入団を決意する。
ちなみに荒木を外したジャイアンツは、外れ1位として甲子園出場経験のない無名公立校の投手を指名し入団させた。後に通算180勝を記録し「平成の大エース」と称えられた名選手・斎藤雅樹である。
荒木はスター候補としての期待を一身に受けた。殺到するファンから身を守るためクラブハウスと球場を結ぶ地下道が建設され、親会社であるヤクルトがCMに起用し、5回無失点に抑えた初先発時は残る4イニングをエースの尾花髙夫がリリーフして初勝利をプレゼントするなど、球団の待遇は一流選手並みだった。
その期待に応えて戦力となったのは3年目の1985年からである。この年の後半戦に6勝を挙げ先発ローテーション入りを果たすと、1986年・1987年の2シーズンは規定投球回をクリアし、1987年には初の10勝をマークした。
だがいずれのシーズンも防御率は4点台後半から5点台というもので、エースと呼ぶにはかなり物足りない数字だった。実戦的な投球術と制球力はプロでも通用するレベルにあったが、球威や球のキレではいささか見劣りする感が否めず、本拠地の狭さもあって手痛い一発を浴びることが多かった。荒木の被本塁打率(9イニングあたりの平均被本塁打数)は通算で1.55とかなり高く、いわゆる花火師であったことが伺える。
ともあれプロとして着実に実績を積んでいた荒木だったが、小学生時代から酷使を続けたヒジがついに悲鳴を上げた。1988年シーズン中にヒジ痛で投げられなくなり、3度の手術を余儀なくされる。長いリハビリを経て、1991年シーズンにて復活…するはずが、今度は高校時代から爆弾を抱えていた腰が悲鳴を上げた。椎間板ヘルニアでまたも手術となり、結局このシーズンも棒に振ってしまったのである。
3シーズン登板なしで迎えた1992年、6月のイースタン戦で久々にマウンドを踏んだ荒木は、同年9月24日のカープ戦で1541日ぶりの一軍登板を果たす。この時スワローズは残り13試合で首位と2ゲーム差の位置につけていたが、荒木は復活試合も含めて4試合に登板、13イニングを1失点に抑える好投で2勝を挙げ、チームの逆転優勝に大きく貢献した。さらに翌年もローテーションの一角を守り、規定投球回未満ながら実質初めて防御率3点台をキープして8勝をマーク。日本シリーズでも勝利投手となり、リーグ2連覇と日本一に貢献することができた。
だがこれが荒木にとって最後の輝きとなった。1994年は1勝6敗と散々な成績で先発ローテーションを外されてしまい、翌年に至ってはまたも一軍登板なし。遂に無償トレードでベイスターズに放出されてしまう。移籍先でも結果を残せず、1996年シーズン限りで現役引退。32歳という若さでユニフォームを脱ぐことになった。
プロでの通算成績は、実働10年・180試合(755.1回)39勝49敗2S・終身防御率4.80。斎藤雅樹・西崎幸広・石井丈裕・阿波野秀幸など甲子園での実績がない同級生たち(石井に至っては早実で3年間荒木の控えだった)が、プロ入り後に所属球団のエースとして活躍したこともあり、「物足りない成績だった」「早熟型だった」などと言われることも多い。
現役引退後はしばらく野球解説者として活動していたが、2004年からライオンズの一軍投手コーチに就任。2007年まで同チームのコーチを務めた。俺達を量産した責任者と言われることも…。
2008年からは古巣スワローズで一軍投手コーチを務めている。2010年シーズン中に辞任した高田繁監督の後任候補と目されており、いくつかのスポーツ紙では既に次期監督扱いを受けている。しかし現在監督代行を務めている小川淳司前ヘッドコーチが非常に優秀な成績を残しているため、来季の監督就任が見送られる可能性も出てきている。
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最終更新:2025/12/11(木) 14:00
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