ケイエスミラクル(1988 - 1991)とは、日本の競走馬である。
儚い奇跡の結晶としか言いようのない、そんな馬。
この記事では実在の競走馬について記述しています。 この馬を元にした『ウマ娘 プリティーダービー』に登場するキャラクターについては 「ケイエスミラクル(ウマ娘)」を参照してください。 |
概要
※当記事では競走馬の馬齢を当時の表記(現表記+1歳)で記載します※
出生
ケイエスミラクル K.S.Miracle |
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生年月日 | 1988年3月16日 |
没年月日 | 1991年12月15日 |
馬種 | サラブレッド |
性・毛色 | 牡・鹿毛 |
生産国 | アメリカ |
調教国 | 日本 |
生産者 | Tsukao Farm |
馬主 | 高田喜嘉 |
調教師 | 高橋成忠(栗東) |
初出走 | 1991年4月20日 |
戦績 | 10戦5勝[5-2-1-2] |
獲得賞金 | 1億3422万6000円 |
競走馬テンプレート |
父Stutz Blackhawk、母Lady Bend Fager、母父Never Bend。米国生産馬の「○外」である。
父*スタッツブラックホークはミスタープロスペクター産駒だが、現役成績は40戦3勝(GⅢ・2着が1回)で、産駒はケイエスミラクルの他には重賞で活躍した馬が後にも先にも1頭もいない。種牡馬としては父とは違い、ド三流と言わざるを得ない馬だった。後に日本に輸入された母*レディベンドフェイジャーも、従弟にCrafty Prospectorがいるくらいという地味過ぎる血統である。
のちの快速を血統的に見ると、母の父Never Bend、母の母の父Dr. Fagerという快速種牡馬の血が入ったことが良かったのかもしれない。
日本ではミスタープロスペクター系が「アメリカのダートの短距離専門だろ?」くらいの認識の時期に輸入された馬だが、その価格はなんと3万ドルの安値であったという(※後述)。日本にわざわざ輸入する理由がないレベル……は言いすぎかもしれないが、異系種牡馬としての期待を込めて輸入するったって限度があるぞっていう感じであった。
血統面の評価は以上の通りけちょんけちょんの壊滅状態であるが、この「レディベンドフェイジャーの88」のアレさは血統のみにあらず。生まれつき日本脳炎を患い(※後述)デビュー出来るかおぼつかないという状態だったというのだ。「馬主さん騙されたんじゃこれ…」と疑いたくなるレベルであったが、なんとかこれは完治。
いやぁ3万ドルが無駄にならずよかったよかった……と思ったのもつかの間、デビュー前に深刻な脚部不安を発症した(※後述)。もうだめだぁ、おしまいだぁ……と思われたがこれも奇跡的に快方に向かった。
二度の死の危機から立ち直る奇跡を起こした若馬は、冠名の「ケイエス」に「ミラクル=奇跡」の名を与えられることとなったのであった。
※詳述※
さて、上述した「お値打ち3万ドル」「生まれつきの日本脳炎」「デビュー前の脚部不安」というそこそこ知られている逸話だが、実は確かな出典が見当たらない状態である。競走馬紹介ブログの元ネタと思われるWikipediaでの本馬の記事でも、記事初版(2005)からこれらの逸話が掲載されているものの、ソースが記載されていない。
日本脳炎は東・東南アジアが中心の病気であり、当時の米国で罹患した可能性は(ゼロではないが)低い。更に日本中央畜産会の資料では、日本馬では1985年以降、2003年の1頭しか発症記録がないのだ。そもそも罹患中の馬を無事輸入できるのか、治療や育成はどこでやっていたのか……と、いろいろ突っ込みどころが出てきてしまう。もしかすると、患っていたのは日本脳炎とは別の病気で、それがいつの間にか日本脳炎と誤解されて定着してしまったのかもしれない。
取引情報やデビュー前の調教についても取材記録などが見つかっていない状態である。
ただ、これらのエピソードの事実はともかくとしても、ケイエスミラクルのデビューは相当遅かった。何かしらのイレギュラーが発生し、順風満帆な育成・調教は行えていなかったであろうことは、想像に難くない。
91年・春:奇跡を待ち望む日々
ケイエスミラクルは栗東の高橋成忠調教師に預けられた。余談だが、高橋師は「メイショウ」の冠号で知られる松本好雄と昵懇で、かなり先の未来になるが二冠馬メイショウサムソンを引き継いだことでも知られる。更に余談であるが、高田オーナーはケイエスミラクル以降、持ち馬を複数の厩舎に預ける方針を転換し、高橋厩舎を重用するようになる。
デビューは1991年4月20日、新潟競馬場の4歳未出走戦(1600m)。同い年のトウカイテイオーが中山競馬場で父と同じ道を歩みだした一週間後のことであるが、当時の○外の最大目標であった6月のニュージーランドトロフィー4歳ステークスには、まともなら間に合わない時期になってしまっていた。鞍上には佐伯清久を迎え、一番人気で出走したミラクルだったが、2着に敗れる。
2週間後、距離を短縮して仕切り直した5月4日の未出走戦(1400m)で初勝利を挙げる。更に5月11日、わらび賞(500万下・1600m)を連闘するが2着と勝ちきれず。
デビューから20日で3戦と、かなり詰まったローテーションだが、恐らくはNZT4歳S出場をかけての強行軍だったのだろう。陣営はこれ以上の使い詰めを避けることにしたようだ。
札幌開催:奇跡の片鱗
ローカル開催である北海道シリーズを狙ってのんびり行く方針へシフトしたのか、次戦は一か月後、6月8日の札幌競馬場・石狩特別(500万下・1200m)になった。鞍上は「剛腕」南井克巳に交代。ケイエスミラクルはこの1200m戦を4馬身差でレコード勝ちし、一躍話題の的となった。
続く6月22日の藻岩山特別(900万下・1200m)では、条件戦なのに単枠指定される圧倒的な支持に応え、なんと9馬身もぶっちぎる鮮烈な勝利を飾る。
ちなみに1200mでこれだけちぎるということは、展開のアヤも何もなく、ただ単に「他馬とスピードが違いすぎる」ということである。ここまでの5戦でも、わらび賞以外の4戦で上がり最速を記録している。
とはいえ未だ一介の条件馬。この勢いのまま夏競馬で使い詰める選択肢もあったのだが、陣営は夏の終わりまでミラクルを休ませることにした。
91年・秋:奇跡儚く
9月8日、ケイエスミラクルはセントウルステークス(当時GⅢ・阪神改修のため中京開催)に格上挑戦。3番人気だったが、2番人気のセンリョウヤクシャともどもぶっ飛んで……なんとブービー負けを喫する。左回りが死ぬほどダメだったのかもしれない。
重賞の壁に見事に押し戻されてしまったミラクルだったが、一か月後の10月5日、仕切り直したオパールステークス(OP・1200m)では見事レコード勝ち。前走で敗れた馬達にもきっちり熨斗をつけて借りを返し、晴れてオープン馬に昇格した。
スワンステークス:奇跡の結実
中2週の10月26日、ケイエスミラクルはスワンステークス(GⅡ)に向かった。
このスワンSはこれまでのミラクルの勝ち鞍が集中していた1200mではなく、1400mとなる。加えて出走メンバーも豪華であった。ダイイチルビー(1番人気、2.5倍)、ダイタクヘリオス(4番人気、6.8倍)の当時短距離路線の金看板2騎、古豪バンブーメモリー(3番人気、6.2倍)、今から見るとリアルシャダイ産駒の異端児、春の阪急杯を制していたジョーロアリング(2番人気、5.1倍)、後少しの後有馬記念でとんでもないことをやるダイユウサク(6番人気、13.9倍)などなど。
ミラクルは12.5倍の5番人気と、流石にあまり人気はしなかった。だが、レースでは前を行ったダイイチルビーをクビ差捉えて勝利。当時の日本レコードを樹立するのである。
短距離の新星誕生! と言うことで、11月17日のマイルチャンピオンシップ(GⅠ)では、圧倒的人気のダイイチルビー(1.8倍)に次ぐ4.3倍の2番人気となった。3番人気のバンブーメモリーが10倍を超えていたのでちょっと離されはしたが2強ムードである。
しかし「京都の1600mなら本気出す」と言ったかどうかはともかく、人気がない方がイキイキする男・ダイタクヘリオス(今日は4番人気)の京都の坂下りで一気に先頭に立つ強引な走りが炸裂する。そのまま押し切られ、ライバルと見て後ろに張り付いていたダイイチルビーの豪脚を抑えることも能わず、3着に終わった。
スプリンターズステークス:奇跡とは……
マイルCS後は休養予定であったとされるが、結局、次走は12月15日のスプリンターズステークスに決まった。当時スプリンターズSは12月開催であり、そして唯一の短距離GⅠだった。
札幌からずっとケイエスミラクルの主戦を務めていた南井騎手は、裏開催の阪神牝馬特別でフェイムオブラスに騎乗するため、代打として関東の名手・岡部幸雄が招聘された。恐らく南井騎手にはフェイムオブラス騎乗の先約があったものと思われるが、競馬ファンの間では「南井はミラクルがスプリンターズSに出走しないと判断して裏開催の依頼を受けた」→「ミラクルのスプリンターズS出走は馬主の意向による急なものでは?」という推測が流れた。ミラクル出走の経緯も、南井騎手の事情も、やはり詳細は不明である。
1400mでダイイチルビー他を一蹴し、マイルCSでも3着の好走を見せた、3度のレコード更新を成し遂げたケイエスミラクルが、得意の1200m戦に戻ってくる。しかも鞍上は当時神聖不可侵の岡部。これはいかにテン乗りとはいえ「GⅠただ貰い」のようなものでは、と2.2倍の1番人気に推された。ダイイチルビーは3.0倍の2番人気であった。
レース本番、ミラクルは素晴らしいスピードを見せ、4コーナーで早くも先頭に並びかける勢いで進出。直線を向いたときの手応えは抜群であった。後ろから猛烈な脚で上がってきたダイイチルビーとの激戦になると思われたが……。
荒れた中山の馬場に脚を取られたか、体が8か月で10戦のローテに耐えられなかったのか。直線に入ってすぐのあたりでミラクルの脚は砕けた。トップスピードを出すルビーと入れ替わるような形で後退していくミラクル。そのまま勝利したルビーの後方で、競走中止となった。
せめて、生きて種牡馬入り出来れば……。当時はミスタープロスペクター直系はレアだし、スピードはこれでもかと示した。成功できる可能性は十分にあった。しかし、三度目の奇跡が起こることはなく、予後不良の診断が下され、薬殺処置が行われた。
その死について
特に使い詰めが目立っていた競走馬が予後不良となったとき、真っ先に叩かれるのは馬主である。当然ながらケイエスミラクルのケースでも、当時の競馬ファンは馬主の陰口をさんざん叩いたものである。もっと大事に使っていれば、もっと勝てていたかもしれないではないか……。所詮たらればの話であるが、馬主はミラクルのスワンSを最後に重賞勝利から見放され、あたかも「ケイエスミラクルの呪い」とでも評せる状態となり、余計にたらればの話が続くようになった感もある。
実際のところ「ケイエスミラクルは使い潰された」という評には疑問符が付く。高橋厩舎はスペインランド(103戦5勝)、サンコメーテス(同左)、メイショウバトラー(61戦14勝)など「長く多く使う」馬が多く、その姿勢には賛否ある厩舎であったが、彼らは怪我を押して出走させられ最悪のケースに至ったわけではない。厩舎サイドはおそらくミラクルの体調や脚に相当心を砕いていただろうし、馬主もGⅠであるスプリンターズSがかかっていない場合は厩舎の意向通りにしていたように見える。
8ヶ月で10戦という出走ローテーションは、成長しきっていない4歳馬には確かにきついとはいえ、当時の競走馬事情からすると決して突出した数ではない。一例をあげると89年のダイユウサクは(当時5歳だが)10か月で16戦している。
春シーズンは確かに詰まったローテだったが、9馬身差で勝った藻岩山特別の後には夏休みを作っていたし、連闘したのも未勝利脱出後のみだった。この連闘も先述した通り、○外ダービーことニュージーランドトロフィーに間に合わせるためのものと思われ、長い目で見ればこの馬のため、種牡馬になるための実績作りになることでもあった。
スプリンターズS出走については、こちらも先述の通り「馬主がGⅠ制覇をかけて急遽出走させた」という真偽不明の理由が語られることが多い。ただ、仮にそれが事実であったとしても、実際勝負になる実力はあったし、勝てれば未来を大きく拓くことにもなるはずだった。当時は種牡馬になれなければ、現代よりかなり多い生産頭数の都合上、乗馬に回るにも相当な競争率と予想され、脚部不安のあるケイエスミラクルのようなタイプは乗馬需要すらなかった可能性は否定し難くもある。
「スワンS→マイルCS→スプリンターズS」という重賞ローテもダイイチルビーと同じである。ダイタクヘリオスはスワンS→マイルCS→有馬記念とかやってるし。莫大なトレードマネーの回収を企図した馬主の意向が反映されたようにしか見えないオグリキャップの89年秋のローテに比べれば、至って常識的な歩み方であったと言える。ましてや、厩舎と騎手の大反対を押し切って有馬記念に出走し散ったサンエイサンキューのケースとも全く別の話である。
ケイエスミラクルに関する文献や取材記録は乏しく、新たな調査も今となっては望むべくもない。確かなのは、8ヶ月の間にレコードを3回作った、当時としては奇跡のような快速馬が呆気無く消えていったという、悲しい事実のみである。
余談
- もしケイエスミラクルが92年以降も走ることができたなら、どのような歴史が刻まれたのだろうか。91年当時には誰も知る由がないことではあるが、なにしろ92年以降の日本短距離界はなかなかの魔境と化していったのである。
ミラクルと同い年のヤマニンゼファーが本格化し、1歳下の天才少女・ニシノフラワーと最強スプリンター・サクラバクシンオーが台頭。更に翌年には藤澤厩舎最初の大物マイラー・シンコウラブリイの短距離路線進出が始まる。1991年は未だ革命前夜、この年のスプリンターズSを逃せばどっちにせよGⅠ獲得チャンスはなかったかもしれない。こういうこともあるので「タイトルは狙えるときに狙う」方針は絶対的に悪とも言い難いのである。 - 高橋成忠調教師は後にメイショウサムソンで初めての海外遠征を果たしている。競馬雑誌「優駿 2007年9月号」にて、凱旋門挑戦を表明したサムソンの元へ髙橋調教師のインタビューが記載されており、そこで海外遠征を真剣に意識した馬がケイエスミラクルだったと語っている。
レコードを3回更新したスピードに夢を膨らませ、スプリンターズSへの出走を目前としていた時に「ここで勝てたら来年はブリーダーズCへ出しましょうか」とオーナーに話し合っていたという。前述のように日本短距離界が混沌とする中で、後に日本馬として初めてブリーダーズCに出走したタイキブリザードより4年早く画期的なチャレンジを見せていたかもしれない。 - 『馬なり1ハロン劇場』でネタにされた「ヘリオス・ルビーの恋物語」は、おそらく競馬ファンの間でも特に有名な競走馬擬人化ものだろうが、この物語にケイエスミラクルを合わせた想像をするファンもいた。
ダイイチルビーは91年スプリンターズS後にフケのため不振に陥り引退するが、本当のところは、ルビーはミラクルに恋をしており、そのミラクルが目前で散ったことが不振の原因ではないか、というものである(そして一頭残されたダイタクヘリオスが盟友メジロパーマーと出会う)。 - 時は流れ2022年8月。一介の重賞一勝馬に過ぎないケイエスミラクルの名を記憶する競馬ファンも少なくなったころ、数々の名馬が美少女化したゲーム『ウマ娘プリティーダービー』において、まさかのミラクルのウマ娘化が決定した。ウマ娘からの競馬ファンは初めて聞く馬の戦績を調べてその最期に顔を曇らせる一方、ミラクルを思い出した古参の競馬ファンは「権利者はよく使用許可を出したな…」と呻き、Twitterのトレンドに「ケイエスミラクル」が急浮上する事態となった。
次世代の競馬ファンからの注目を機に、90年代短距離路線の再注目と、悲運の快速馬の名が改めて競馬ファンの脳裏に刻まれることを願いたいものである。もっともこの再注目のおかげで「あれ? 二度の奇跡とかレース強行とかのソースどこよ?」となった感もあるけど……
血統表
Stutz Blackhawk 1977 鹿毛 |
Mr. Prospector 1970 鹿毛 |
Raise a Native | Native Dancer |
Raise You | |||
Gold Digger | Nashua | ||
Sequence | |||
Sunny Morning | Amber Morn | Ambiorix | |
Break o' Morn | |||
Lighter | Coastal Traffic | ||
Blue Denim | |||
*レディベンドフェイジャー Lady Bend Fager FNo.1-l |
Never Bend | Nasrullah | Nearco |
Mumtaz Begum | |||
Lalun | Djeddah | ||
Be Faithful | |||
Princess Fager | Dr. Fager | Rough'n Tumble | |
Aspidistra | |||
Princess Roycraft | Royal Note | ||
Crafty Princess | |||
競走馬の4代血統表 |
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