メジロアルダンとは、1985年生まれの日本生産の元競走馬・種牡馬である。
平成三強、その一角崩しを可能と思わせる才能と、あまりにも脆く弱い脚を備えてしまった馬。人呼んで「ガラスの重戦車」。
この記事では実在の競走馬について記述しています。 この馬を元にした『ウマ娘 プリティーダービー』に登場するキャラクターについては 「メジロアルダン(ウマ娘)」を参照してください。 |
概要
血統
父アスワン、母メジロヒリュウ、母父*ネヴァービートという血統である。父は*ノーザンテーストの直子で、京成杯・NHK杯(現NHKマイルカップ)を勝つなど活躍したが早期引退を余儀なくされた素質馬。母は31戦5勝で菊花賞・有馬記念3着のメジロイーグル(メジロパーマーの父)の半姉。母父はイギリス産の輸入種牡馬で、名障害馬グランドマーチスなど多くの活躍馬を輩出し日本における*ネヴァーセイダイ系ブームに火をつけた立役者。本馬の2歳上の半姉には三冠牝馬メジロラモーヌがおり、血統的には抜群のバックボーンを持っていると言える。
馬体も姉ほどの美しさではないが500kg前後の均整の取れた体つき、漆黒の黒鹿毛で見栄えのするタイプであった。
実は競走馬として大成しないと言われ、現在では受精卵の時点で片方が潰される双子として生を受けたのだが、片割れは死産であった。そのためか、アイネスフウジンの弟たちであるリアルポルクス・リアルカストール兄弟のように未勝利で終わることはなかった。
なお、馬名の由来は冠名の「メジロ」と1944年に凱旋門賞、仏ダービーなどを制した名馬Ardan。本馬と血統的なつながりはないが、この年のメジロ軍団は海外の活躍馬の馬名を拝借しており同期にメジロアリダーやメジロゲームリーなどもいた。
戦績
ダービーまで ガラスの脚を抱えて
姉メジロラモーヌを育てた縁で美浦の奥平真治厩舎に入厩。デビューに向け、姉のようにクラシックロードを驀進すべくトレーニングを開始した。
が、姉も幼い頃は脚がいい形ではなかったし、彼の場合父アスワンも内向した両前脚のせいで故障しがちだったことなどもあったのか思うようには捗らず、3歳の北海道デビューの予定が右トモ飛節を痛めたことで流れて以降再調整に時間がかかり、デビューにこぎつけたのは4歳を迎えた1988年3月27日、メインレースはモガミナインが勝ったスプリングステークスという日の朝に行われた2Rに行われた未出走戦であった。
もうこの時期の未出走戦なのでダート1200mという血統的に全く向いていない舞台でのデビューを強いられたが、脚抜きのいい不良馬場に救われたか、先行策から逃げ馬を捉え、後続の追撃を半馬身しのいでデビュー勝ちを決める。陣営はどうにかしてダービーに間に合わせるべく、脚部不安は覚悟の上で権利取りを目指すことを決意する。
続くレースはモガミナインが1番人気を背負って6着に飛び、後の宿敵となる9番人気ヤエノムテキが勝利した皐月賞と同日の8R、400万下条件の山藤賞。このレースを逃げてクビ差残し勝利。
デビューこそ遅れたが、この連勝でダービートライアルの挑戦権を獲得。父が勝ったNHK杯(当時はGII、芝2000m)へ駒を進める。
しかしここには関西の最終兵器・金髪が美しいディクタスアイのあんちきしょう・爆発的末脚が武器の西の3歳王者サッカーボーイがいた。当然彼が1番人気であった。尤も脚力に蹄がついていかないという弱点故に裂蹄を起こしやすく、その治療のために皐月賞を回避したくらいで調子は全く上がってなかったのだが。当のアルダンは6番人気、まあ2勝したくらいの馬ならこんなもんだろうという評価であった。
レースは外枠から前々に付けて抜け出したアルダンがきっちり勝ち切るかと思われたが、10番人気マイネルグラウベンが猛烈な勢いで突っ込んでアタマ差抜け出したのがゴール板であった。サッカーボーイは4着。
差されはしたが2着で賞金も積んだし、当時NHK杯に付与されていたダービーの優先出走権もギリギリながら手にした。陣営が組んだ決死のローテは一応の成功を見たのである。
ダービー 重戦車VS大横綱
デビュー戦から2ヶ月ちょっとしかなかった日本ダービー、普通の馬ならまず到達不可能な舞台に見事たどり着いたアルダン。6番人気であったが人気が割れたこともあり10.9倍と有力馬の一角には数えられていた。
ちなみに1番人気はサッカーボーイだが単勝オッズはなんと5.8倍。阪神3歳Sまでの衝撃が忘れられない馬券師に押し出された形の人気だったが、関東来てから全くらしさがないのにんな無茶な…と鞍上の河内洋も思うくらい状態は悪かった。2番人気のヤエノムテキ(単勝6.4倍)も皐月賞が人気薄での勝利だったためか、あるいは毎日杯でクラシック登録がなく出られないオグリキャップにびっくりするほどにこっぴどく負かされた印象のためか1番人気を奪うには至らず。3番人気で東の3歳王者サクラチヨノオーはサッカーボーイより地味だし、皐月賞でヤエノムテキに完敗したしで9.4倍と微妙な人気。それ以下もオッズは団子状態で、単勝20倍未満の圏内に12頭がひしめく大混戦であった。
レースはサッカーボーイがあまりに調子が悪く後ろにつけて回ってくるだけになる一方、アルダンは2番手集団でサクラチヨノオーあたりを見ながらタイミングを伺う。
そして4角を回ってサクラチヨノオーが先頭に出たところを見計らい仕掛けると、残り200付近で完全に抜け出す。鞍上岡部幸雄の得意とする勝ちパターンで、まず間違いなく勝った!誰もがそう思う完璧な競馬をした。戦前ならまだしも戦後のローテではデビューから2ヶ月でダービー制覇はなかなかすごいことであり、メジロ牧場にとってもダービーは初制覇。金字塔が打ち立てられアルダンは伝説になる……はずであった。
ところが、仕留めたはずの東の3歳王者サクラチヨノオーがなんと差し返しに来たのである。競馬を知っている人間でもまず信じられない、奇跡のような二の脚を繰り出しアルダンに迫る。
その気迫と執念の前にまだデビュー間もない経験の無さ故かアルダンは怯んでしまったかのように伸びが止まってしまい、クビ差の2着に敗れてしまった。
とはいえデビュー2ヶ月でダービー、それも2着までたどり着いた素質馬である。秋以降も期待される存在になったのだが、ダービー出走のために厳しいローテを走り抜いた代償か、骨折で戦線離脱となってしまう。奇跡のような差し返しでアルダンを沈めたチヨノオーも重い屈腱炎で離脱、復帰には1年を要した。昭和のダービー、その苛烈さが伺える。
5歳~ 撃ち抜けない壁
復帰したのはチヨノオーと同時期で5歳の春、ダービーから一年が経過した頃に行われたオープンのメイステークス。春天目標で予定は組んでいたらしいが膝の不調で間に合わず、結局ここまでずれ込んだのであった。
ダービー3着のコクサイトリプルも出走したこのレースを貫禄勝ちすると当時の夏の名物・中距離GII高松宮杯に向かい、何故か宝塚記念も使ってここへ出てきた安田記念馬バンブーメモリーの末脚を封じて完勝。重賞初勝利を収める。
その後夏を休養し、向かったのはGII毎日王冠。ここには前走故障明けのオールカマーを完勝してきたオグリキャップ、春のGIを2勝したイナリワンが出走しており、天皇賞(秋)に向けて試金石となるレースになった。断然人気のオグリ(1.4倍)に次ぐ2番人気(2.9倍)であった。なお、イナリワンは単勝9.4倍の3番人気。春のグランプリホースなのに。イナリの単勝人気の無さは異常。
レースはオグリとイナリの一騎討ちばかりが注目されたとおり、アルダンは最後で離されてオマケくらいにしかなれなかった。それでも3着。一応の格好は付けた。ブービー人気ウインドミルにクビ差まで詰められてたけど。
こうして迎えた天皇賞(秋)では同期ながら初対戦のスーパークリーク同様に先行策を取り、4角を回る際に空いた最内を突いて一気に抜け出そうとするが、外からやってきたスーパークリークとさらに外から末脚全開一気にきたオグリにかわされ3着に敗れる。
しかし1着スーパークリークからクビ+クビ差と引けを取るところは見せなかった。ヤエノムテキとイナリワンには先着したし。
これからがやはり期待されたのだが、脚の爆弾が再度爆発、屈腱炎を発症しまたも長期休養入り。その後の調整にも手間取り、結局復帰は11ヶ月後、翌1990年のオールカマーにずれこんだ。比較的メンバーが小粒だったためか1番人気に推されたが、久々と屈腱炎が能力に障ったのか4着に敗れる。それでも陣営は秋天に向かうのだがここで一つ問題が発生した。ダービーや前年の秋天など大レースで主戦格として手綱を取っていた岡部幸雄が、春に任されたヤエノムテキに乗るということでアルダンを降りてしまったのだ。
元々岡部は競馬界でいち早く所属厩舎を持たないフリーの騎手になったり、騎乗依頼を仲介するエージェントを導入したりと、騎乗馬の選択について非常に合理的な考え方を持っており、2度の長期休養明けで調子の上がらないアルダンと5歳春以降勝ちきれないながらも堅実に走ってきたヤエノムテキであれば後者を選ぶのも無理からぬことではあった。しかしダービーから主戦と頼んでいたメジロ陣営は岡部に激怒し、しばらく決裂することになったのだがそれは別のお話。秋天にはメジロの後輩で同厩舎のりゃいあんメジロライアンの主戦であった横山典弘を迎えて臨む。
本番は5番人気。前年のアルダンのように最内に潜り込み一気に抜け出したヤエノムテキに対し、アルダンは3角で仕掛け始めた各馬に遅れ、いつもの勝ちパターンである先行抜け出しと言うには後ろすぎるポジションになっていた。
しかし、ヤエノムテキにだけは負けてたまるか!とばかり大迫力の末脚を発揮し、馬群の真ん中を突き抜け一気に追い詰める。…しかしコース取りの差か捕まえるには至らず、アタマ差2着に敗れ去るのであった。あと一歩が足りない……。
この後、秋天の末脚ですべてを使い果たしたのか有馬記念ではオグリのラストランを後方で眺めるだけ、日経新春杯でも4着に敗れた後に屈腱炎が再発。10ヶ月後に復帰したがもう全盛期の面影はなく、2戦2敗して引退となった。
旧7歳まで現役を続けたが14戦4勝と、全く不完全燃焼で終わってしまった。デビューからラストランまでの3年8ヶ月のうち実に3年近くをケガと休養に費やしており、脚が強ければ平成四強としてオグリ、イナリ、クリークと並び立つ可能性もなくはなかったかもしれないだけに残念なことである。
まあ、とにかくあと一歩のキレや粘りが足りないタイプではあったので、そのあと一歩が体質起因でなければ脚が強かろうがイマイチくんだった気はしないでもないが。
引退後
引退後は種牡馬として活動したが、メジロスティードやガルフィンドリームといったOPまでの馬がせいぜいで成功したとは言えないまま経過。
2001年からはホッカイルソーなどで有名な北海牧場が中国進出を志し北京近郊に龍頭牧場を設立する際にスリルショーと連れて行くことになり、中国で新生活をスタートすることになった。
……が、2002年に種付け中に心臓麻痺を起こし急逝。新天地でもわずか2世代しか残せずというなんとも残念な結果になった。
なお、北海牧場はこの北京龍頭牧場に社運を託したものの敢えなく失敗し倒産。今は本場がダーレージャパンビーチヤード、分場がダーレースタリオンコンプレックスとなっている。
アルダンの故郷メジロ牧場も今はレイクヴィラファームとなっているなど、昭和は遠くになりにけりである。
こうして異国の地で急逝したアルダンであったが、近年になって突然あることで話題になった。
わずか2世代しか残せなかった産駒の中から无敌(WuDi)という馬が現役時代に圧倒的成績を記録して種牡馬入り。中国本土で2015年にリーディングに輝くなど結構な活躍をし、ノーザンテーストの血をつなぐ存在になっているということがわかったのだ。
とはいえ中国本土の競馬は香港のそれと違い、基盤が不安定でレベルもまだそこまで高くはない。だからこそノーザンテースト直系という古びた血統が生き延びる余地があったとも言える。
それでも、いつかどこかで「メジロアルダン」の名が血統表に刻まれた謎の血統の馬が世界を舞台に暴れる日が来ることを願いたいものである。
血統表
アスワン 1979 鹿毛 |
*ノーザンテースト 1971 栗毛 |
Northern Dancer | Nearctic |
Natalma | |||
Lady Victoria | Victoria Park | ||
Lady Angela | |||
*リリーオブザナイル 1966 黒鹿毛 |
Never Bend | Nasrullah | |
Lalun | |||
Nile Lily | Roman | ||
Azalea | |||
メジロヒリュウ 1972 鹿毛 FNo.9-f |
*ネヴァービート 1960 栃栗毛 |
Never Say Die | Nasrullah |
Singing Grass | |||
Bride Elect | Big Game | ||
Netherton Maid | |||
*アマゾンウォリアー 1960 鹿毛 |
Khaled | Hyperion | |
Eclair | |||
War Betsy | War Relic | ||
Betsy Ross | |||
競走馬の4代血統表 |
クロス:Nearco 5×5×5×5(12.5%)、Nasrullah 4×4(12.5%)、Hyperion 5×4(9.38%)、Lady Angela 5×4(9.38%)
関連動画
(勝ったレースが)ないんだな、これが
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関連項目
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