大内輝弘(おおうち・てるひろ 1520~1569)とは、戦国武将である。
概要
西国の名門・大内氏の一族。父が家督争いに敗れた為、豊後の大友家にて生まれ育った。
毛利元就によって大内氏が滅亡した後、大友氏と毛利氏の北九州の勢力を争う戦いの中で、半ば捨て駒のような形で大内家復興を掲げて挙兵するも敗れ、儚く戦場の露と散った。
生涯
大内高弘の子。高弘は大内義興の異母弟で、当初出家して大護院尊光と称していたが、1499年に大内家重臣・杉武明が大友家と手を組んで、義興を追放し尊光を立てるクーデターを計画した。だが義興は先手を打って杉を誅殺したため、尊光はなんとか豊後の大友家へと亡命。そこで還俗し、将軍・足利義高(のちの足利義澄)から高の一字を拝領して大内高弘と名乗った。
輝弘はその亡命先で生まれた子供であり、若い頃についてはほとんど伝わっていないが、客将の立場で貧しい暮らしをしていたらしい。やがて大友義鎮(宗麟)の助けを借り、将軍・足利義輝から一字拝領し輝弘と名を改めた(系図によればその前は隆弘と名乗っていたとも言われるが詳細は不明)。
大友氏のもとにいた宣教師は輝弘のことを「山口の正当な領主」と表現している(最後の当主の大内義長が大友氏からの養子だったことを考えると、輝弘はまぎれもない大内の血脈と言えるだろう)。この後の高嶺城攻略の際に大内ゆかりの寺院が多数焼け落ちており、宗麟の影響で輝弘もキリシタンになっていたのではとの説もある。
北九州情勢
1555年に大内氏は滅亡し、中国地方の領土である周防・長門は毛利氏が手に入れた。多くの旧大内家臣はそのまま毛利家臣となったが、中には反毛利の立場を取る者もおり、1557年には問田亀鶴丸を旗頭に据えてやや大きな規模の叛乱が起こっている。毛利氏はこうした動きを素早く鎮圧し、高嶺城に吉川一族の市川経好を配置。山口奉行に任命して、以降は経好がよく統治して安定へと向かっていった。
一方の大内輝弘は、1565年に毛利氏が尼子氏を滅亡させるべく出雲へ遠征すると、その隙に大内旧臣を集めようと画策したが、この時は失敗して旧臣たちは毛利軍に壊滅させられている。
宿敵尼子氏を1566年に滅ぼした毛利元就は、大友氏が治めていた北九州の旧大内領を奪取すべく九州侵攻を開始した。毛利氏はまず調略をかけ、大友氏の重臣として北九州を治めていた高橋鑑種を水面下で寝返らせることに成功。鑑種が更に龍造寺隆信を筆頭に宗像氏・秋月氏・筑紫氏・原田氏といった北九州諸勢力を味方に引きずり込み、1567年以降彼らが立て続けに大友家に反旗を翻したことで北九州は混沌と化した。特に1568年に要所・立花山城を守る立花鑑載までもが毛利方に寝返ったのは手痛い一撃となった。
以降、立花山城を巡って毛利氏と大友氏は争っていた。立花山城は1568年に大友氏が一旦取り戻したが、龍造寺隆信と手を結んだ毛利氏が翌1569年4月に再奪取する。以降、多々良川付近で両軍の睨みあいが続き、たびたび小競り合いが起こっていた(多々良浜の戦い/多々良川の戦い)。
毛利も大友もこれと言った手を打てず、膠着状態が続いていたが、そこで大友家宿老の吉岡長増が大内輝弘の存在に目をつける。
大内輝弘の乱
1569年10月、大友宗麟は大内輝弘に兵2000を与えると、若林鎮興率いる水軍衆を動かして密かに周防・秋穂浦へと上陸させた。この時、毛利家と疎遠になっていた村上武吉ら村上水軍は、輝弘たちが伊予灘を通るのを黙認している。「輝」の一字を与えられ、将軍から認められた大内氏の後継者を名乗った輝弘のもとには反毛利の大内旧臣たちが集まり、その数は6000にもなったとされる。勢いに乗る大内軍は10月12日、山口へと攻め寄せた。毛利家の兵力は大半が北九州に投入されていたため背後はほぼ無防備であり、しかも市川経好は九州戦線に参加していた為、高嶺城は留守であった。輝弘率いる大内軍は大内氏のかつての居館だった築山館跡を奪取して拠点とし、築山館の詰城である高嶺城へと攻め込んだ。
高嶺城の兵力はわずか300だったとされる。だが経好の妻・市川局は自ら甲冑を身にまとい薙刀を持つと、兵を鼓舞しながら指揮を取った。留守を守る毛利家臣の内藤就藤・山県元重らも大内軍相手に奮戦した。翌13日に下関の毛利元就の下に反乱の報が届くと、元就は九州からの撤退を決断。10月21日、吉川元春らが親大内の勢力を蹴散らしながら兵10000をもって山口へと進軍した。
市川局らの10日にも及ぶ籠城戦と、毛利軍が引き返してきたという話から、大内軍は次々と脱落者が出始める。10月25日には大内軍はわずか600となり、高嶺城攻略を一旦諦めて上陸地点へと引き返した。だが大友水軍は既に撤退しており、船はなかった(毛利軍に焼き払われたとも言われる)。輝弘はひたすら東へ、東へと逃げながら船を探すが脱落者は止まらず、遂に兵は100人を割った。
既に前方にも毛利軍が陣取っており、背後からは吉川元春が迫る中、挟み撃ちの状況に陥った輝弘は茶臼山城にて最後の戦いに挑むが敗戦、自害した。享年50歳。輝弘の子・大内武弘も共に自害したため、西国の雄・大内氏はここに完全に滅亡した。
その後
この年の6月には山中鹿之介率いる尼子再興軍が毛利領に侵入していたため、大内輝弘を討った毛利軍は尼子軍との戦いに転じる事となり、毛利は九州から撤退した。結果、門司城のみの僅かな領地が毛利家の下に残り、北九州は大友家の物となった。大内輝弘はほとんど捨て駒のような扱いを受けたが、大友家からすれば尼子再興軍と並んで対毛利の勝利の立役者と言えるだろう。
1571年に毛利元就が死去すると、跡を継いだ毛利輝元は東進を始め、九州に関与することはほとんどなくなった。1577年、輝元は市川局にこの時の籠城戦に対する感状を送っている。彼女は1585年死去した。
補足
信長の野望シリーズにはこれまで登場していなかったが、信長の野望・新生で初登場を果たした。
関連項目
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