山汐丸とは、大東亜戦争中に大日本帝國陸軍が建造したタンカー改造護衛空母である。
概要
背景
大東亜戦争も佳境に入った1944年。勢いづいたアメリカ海軍は広い太平洋に大量の潜水艦を忍ばせ、大規模な通商破壊を開始。輸送船を片端から沈めていった。時には巡洋艦や護衛空母までもが犠牲になり、その被害は決して無視できないものだった。帝國海軍は海上護衛隊を結成し、駆逐艦を輸送船団の護衛に充てていたが、もともと対潜能力に乏しい旧式艦が多数を占めていたため犠牲の拡大は止められなかった。
海軍が対応に忙殺されている頃、陸軍でも米潜水艦の跳梁に頭を悩ませていた。陸軍の船も次々に沈められ、乗っている兵隊が戦う前に死んでしまう恐ろしい状況を何とかしようと、必死に知恵を絞った。その結果、量産されているTL型タンカーに着目。このTL型タンカーは巨体を持っており、正規空母には及ばないが艦載機の発着艦が可能だった。これを改造して護衛空母にすれば対潜哨戒機が飛ばせるようになる。奇しくも海軍も同様の発想に至っており、艦隊随伴型の特TL1型を海軍が、やや低速にして量産性を重視した特TL2型を陸軍が建造する事になった。
戦歴
1944年9月11日、ベースとなるTL型タンカーが三菱重工横浜船渠で起工。12月2日に進水し、1945年1月27日に竣工した。艦載機は三式指揮連絡機を採用し、6~8機が搭載可能であった。速力は重視していなかったので15ノットと低速。一応飛行甲板は有していたが、あまりにも短かったので三式指揮連絡機以外の運用はほぼ不可能だったと言われている。武装は両舷に25mm連装機銃を4基ずつ、対潜用の二式12cm迫撃砲を艦首に2門装備、さらに爆雷120発を搭載していた。
1945年1月27日に竣工した山汐丸であったが、既に彼が活躍する場は残されていなかった。深刻な重油不足に加え、南方航路の閉鎖により外洋に出る事すら困難になっていたのだ。やむなく横浜港内で係留される事になるのだが…。
2月16日、第58任務部隊による横浜空襲に遭遇。2日続いたこの空襲で飛行甲板が大破し、至近弾で浸水。そのまま着底してしまった。山汐丸の工事は中断し、このまま港内で放置される事になる。資料では2月17日を喪失日としている事が多い。その後、標的艦大指が触雷して漂流。不運にも山汐丸の残骸と衝突し、大指が沈没する事故が起きている。7月に入ってようやく解体作業が始まったが、作業中に艦首を切断。そのまま沈没してしまった。引き揚げようにも、それだけの資金も国力も無かったため放置された。
終戦後、山汐丸の船体を砂で固定して横浜船渠の岸壁として再利用。1956年に船渠拡張工事が始まるまで現世に姿を留めていた。1983年に横浜船渠は移転し、その跡地にみなとみらいセンタービルが建造される事になった。2008年、建造工事中に埋もれていた山汐丸の錨が発掘され、一時話題となった。この錨は現在も展示されている。
関連項目
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