- プロ野球選手一覧 > 成本年秀
成本年秀(なりもと としひで、1968年9月11日-)とは、兵庫県出身の元プロ野球選手(投手)である。
概要
OB | |
---|---|
成本年秀 | |
基本情報 | |
国籍 | 日本 |
出身地 | 兵庫県西宮市 |
生年月日 | 1968年9月11日 |
身長 体重 |
180cm 88kg |
選手情報 | |
投球・打撃 | 右投右打 |
守備位置 | 投手 |
プロ入り | 1992年ドラフト2位 |
引退 | 2005年 |
経歴 | |
選手歴
|
|
プロ野球選手テンプレート |
西宮東高等学校に進学。部員数が少なかったこともあり、投手に転向。3年夏には140km/h近い速球を投げられるようになり、県大会ベスト16まで勝ち進んだ。
卒業後、京都産業大学に進学。故障に悩まされる時期も長かったが、4年時には春のリーグ戦最優秀投手に選出。秋のリーグ戦では胴上げ投手になったものの再度故障してしまい、ドラフト指名されなかった。
大学卒業後、大阪ガスに入社。1992年、都市対抗野球大会の予選から本大会にかけて4試合で完投勝利を挙げて、プロからも高い評価を得た。
1992年ドラフト会議にて、千葉ロッテマリーンズからドラフト2位指名を受け入団て入団した。
ロッテ時代
初年度の1993年、開幕一軍入りを果たすと、主に中継ぎ投手として起用され、37試合の登板で、1勝4敗、防御率3.23という成績を残した。
1994年、不調に陥っていた河本育之に代わり抑え投手を任され、47試合に登板し、3勝6敗19セーブ、防御率2.73と好成績を残し存在感を示した。
1995年、河本とともにダブルストッパーとして起用され、オールスターゲームにも初出場を果たした。44試合に登板して、9勝3敗21セーブ、防御率2.00と抜群の安定感を発揮し、鉄壁のリリーフ陣を形成。河本とともにパ・リーグを代表するリリーフ投手として評価されるようになった。
1996年、2年連続でオールスターゲームに出場。防御率は3.32と前年より悪化したが、7勝6敗23セーブという成績を残し、最優秀救援投手のタイトルを獲得した。
ここまで順調なキャリアを歩んでいたが、1997年の春季キャンプ中に右肘を故障。騙し騙しでプレーを続けたが、肘の状態は悪化を続け、9月にトミージョン手術を受けた。1998年シーズンはリハビリに専念したため登板無し。
1999年シーズン最終盤に一軍復帰を果たし、先発登板して2年ぶりの勝利を挙げた。
2000年、わずか1試合の登板に終わり、シーズン終了後、戦力外通告を受けた。
阪神時代
2000年オフに入団テストを経て、阪神タイガースに入団した。
2001年、オープン戦で結果を残し、抑えを任されると、45試合に登板し、3勝1敗20セーブ、防御率2.34と復活を果たし、オールスターゲームにも5年ぶりに出場。カムバック賞にも選ばれた。
2002年はチームの若返り方針もあり一軍登板なしに終わると、シーズン終了後に戦力外通告を受けた。
ヤクルト時代
2004年は7試合の登板に終わり、シーズン終了後に自由契約となる。その後、12球団合同トライアウトに参加した。
ヤクルト退団後
台湾プロ野球の統一ライオンズに入団。1シーズンプレーした後、現役を引退。
引退後
ヤクルト、ロッテ、大阪ガス、滋賀ユナイテッドベースボールクラブなどでコーチを務め、滋賀では監督も務めた。
人物・エピソード
出どころ見ずらい投球フォームから、キレのある直球とスライダーやフォークを武器に活躍したリリーフ右腕。
少年時代は阪神甲子園球場近くで暮らし、阪神ファンとして育った。毎年10試合以上現地観戦し、掛布雅之のファンだったという。
成績
通算投手成績
通算:10年 | 登板 | 先発 | 完投 | 完封 | 勝利 | 敗戦 | セーブ | ホールド | 勝率 | 投球回 | 与四球 | 奪三振 | 失点 | 自責点 | 防御率 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
NPB | 271 | 5 | 0 | 0 | 26 | 20 | 83 | --- | .500 | 402.1 | 136 | 359 | 159 | 149 | 3.33 |
タイトル・表彰・その他
タイトル | ||
---|---|---|
最優秀救援投手 | 1回 | 1996年 |
表彰 | ||
カムバック賞 | 1回 | 2001年 |
その他 | ||
オールスターゲーム出場 | 3回 | 1995年、1996年、2001年 |
関連動画
関連項目
親記事
子記事
- なし
兄弟記事
- 0
- 0pt