藤原俊成 単語

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藤原俊成(ふじわらの しゅんぜい / としなり、11141204)とは、平安時代後期~鎌倉時代前期の貴族歌人である。

概要

百人一首83番の作者藤原定家

藤原道長の玄孫で、祐子紀伊と歌合わせで対決した藤原俊忠。俊成が10歳の時に・俊忠が病して、一度他に養子へ入るなど、若い頃は不遇だった。藤原基俊に和歌を師事し、次第に歌人として頭を現し、後白河法皇の命を受けて勅撰和歌集「千載和歌集」を編纂した。また、和歌の導者としても活躍し、子の定、甥の寂をはじめ、平忠度式子内親王藤原九条良経ら多くの子を育てた。

百人一首には千載和歌集から「世の中よ こそなけれ 思ひ入る 山のにも 鹿ぞ鳴くなる」の一首が入選している。俊成がこの和歌を詠んだのは彼がまだ27歳の時、この年にして無常観を悟って出願望を持った背景には、自身の不幸遇や、京都飢饉などの災害が多発した政情の不安、そして歌人としても将来を高く期待されていた佐藤義清(後の西行)が突如出した事件などが挙げられる。しかし、俊成は出を諦め、世知辛い俗世を生きるを選び、実際に出したのは歌人として大成した後の63歳の時だった。出後も、歌壇の発展にを尽くした俊成は、91歳で寿を全うした。生年が正確に判明している百人一首歌人の中では最も長寿である(一番長生きしたのは、因法師と考えられる)。

俊成と忠度

俊成の子の一人・平忠度は、平清盛の末武士ながら高い教養の持ちで、優れた和歌を残した。彼が歌人として後世に名を留めたのも、師・俊成のおかげである。大柱である清盛を失った平家は、木曾義仲に大敗してを追われることとなる。忠度は一旦引き返し、俊成に自分が読んだ歌集を載せた巻物を託して再びを去った。果たして翌年、忠度は一ノ谷の戦いで戦死した。数年後、俊成は「千載和歌集」の中に、忠度の和歌を一首載せた。しかし平家朝廷(ひいては後白河法皇)に向かった逆賊となってしまい、名前を出すのは憚れた。そこで俊成は詠み人知らず、いわゆる匿名で忠度の和歌をさりげなく入選したのである。この話は、平家物語の落ち行く平氏の悲話として、現在までり継がれている。実は忠度の他にも、平経盛平敦盛で、清盛・忠度の)も同様に、読み人知らずとして一首歌を載せているが、こちらはほとんど知られていない。

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