陳羣(?~236)とは、三国志に登場する人物である。
陳群という表記もあるが、正しくは陳羣である。
字は長文。豫州頴川郡許(現在の河南省)の出身。徳行で知られた陳寔の孫、陳紀の子にあたる。
幼い頃から祖父陳寔にその才を期待されており、孔融らと親交を結んだ。劉備が豫州にいた頃に別駕として召しだされる。
徐州牧の陶謙が病死し、劉備が後任の徐州牧になろうとした時「袁術や呂布が徐州を狙っているので危険です」と反対したが、果たして劉備は呂布に追われ、陳羣は父と共に徐州に避難した。
呂布が曹操に滅ぼされると、曹操の招聘を受けて仕える。以降は様々な役職を歴任し、道義をもって人材を推薦したり政治に取り組んだり他人と接した。郭嘉に対してはいつもその不品行を弾劾していたが、曹操は郭嘉を罰せず、一方で陳羣も重用した。
西暦220年、曹操没後、曹丕が魏王となった直後に人材登用制度である「九品官人法」の制定に携わった。この制度は後漢時代に行われていた豪族主体の人材登用制度である郷挙里選制から政府寄りに人事権を移行させ、やがて来る新政権への準備として曹氏に忠誠を尽くす人材を見極め、人物を能力本位で登用しようとする狙いがあった。隋王朝によって科挙が導入されるまで、九品官人法は魏晋南北朝の人材登用制度の主幹となったのである。
曹丕が後漢からの禅譲を受けて魏の皇帝となると、尚書令や鎮軍大将軍、司空などの役職に就き、内政だけでなく孫権との戦いで水軍を指揮したりしている。曹丕の死の際には、曹一族の曹真と曹休、太子時代から「四友」として曹丕と親しんできた司馬懿と一緒に後事を託された。
曹叡時代には、司空として宮殿造営癖のある曹叡をたびたび諌め、宮殿建築の計画を縮小させたこともあった。曹叡の本格的な暴走が始まるのは陳羣が没した236年以降で、立場的には孫権と張昭の関係に非常に近いものがあると言えよう。ただし陳羣は己の功は主君に譲り、数多い上奏も草稿は全て破棄していた。そのため正史年間に群臣の上奏がまとめられた「名臣奏議」が成立するまで、陳羣の献策はあまり知られていなかったという。この点、死を前に全ての献策を焼き捨てた舅の荀彧と似たところがある。
死後は靖侯と諡された。
シリーズを経るたびに政治力と引き換えに知力の数値が低下していっている。
知力が賈詡よりも高かった初代三國志の頃が懐かしい。
いわゆる汚い陳羣と綺麗な陳羣がいる。言うまでもなく、軍師のUC/GC陳羣が綺麗なほう。
掲示板
31 ななしのよっしん
2022/01/27(木) 20:55:17 ID: YRU2VS/1D5
琱玉集によれば馬が体重に耐えられないほどの肥満体で常に馬車で移動していたとか
32 ななしのよっしん
2022/08/28(日) 13:27:03 ID: a3AKx9YWEc
元々九品官人法なんて理念倒れで終わってるし
あの理念を陳羣が本気で主張していたなら「現実の見えぬ理想家」、本気でなければ「格差を固定しようとする既得権益者」、どちらにしてもろくなもんじゃない
33 ななしのよっしん
2024/02/22(木) 21:03:44 ID: 9roKapkO8g
むしろ九品中正法は身分に捉われず在野の壮士を登用するという建前で所謂名士や勢族の救済目的に作られた説もあるくらいだしな
曹操が生前実力主義方面に登用基準を傾けててたのを儒教重視方面に揺り戻す感じ
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最終更新:2024/05/02(木) 12:00
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