イチロー 単語

2984件

イチロー

3.2万文字の記事
  • twitter
  • facebook
  • はてな
  • LINE

「気持ち良かったですねえ。ほぼイキかけましたえぇ、サーセン 日本のすべての方に感謝したい。」

キラッ☆

イチロー(本名:鈴木一朗(すずきいちろう、1973年10月22日-)は、日本愛知県出身の元プロ野球選手メジャーリーガー外野手)である。現在シアトル・マリナーズ会長付特別補佐兼インストクターを務める。
日本人アジア人として初のアメリカ野球殿堂入りプレイヤー

それは野球の神にされた男、
プロ野球界の至宝、そして日本人の誇りである。

概要

走攻守の三拍子が高いレベルっているプレイヤーで、特に守備における強肩には日本プレイしていた頃から定評があった。

ニコニコ動画で見られるレーザービームMADの元になったプレイはその最たるもので、MLB1年の「新人」イチローが見せた強肩ぶりは、彼がMLBでもオールスターの常連になるほどの人気を得るきっかけになったと言える。

以下はWikipediaからの引用である。

レーザービーム』は2001年4月13日オークランド・アスレチックス戦で、ライトヒットで三進を試みた一塁走者のテレンスロングを、正確且つ力強い送球で三塁補殺した際、実況アナウンサーであったリックリズが「イチローからのレーザービーム攻撃だ!」と叫んだことに所以する。
Wikipedia イチローexitより)

2009年に行われた第2回WBC決勝戦で決勝点となる2点タイムリーヒットを放ち、韓国からのサイバー攻撃ですら落ちる事が2ちゃんねるサーバーが5つ落ちた。

この事により同年の4月5日ひろゆき達がイチローの実家に生取材し、ヒット1本でサーバーを5つ落とした事を表する様子(ついでにハハローのカレーも食べる予定)をニコニコ生放送で配信するはずだったが、WBC後のオープン戦でイチローは体調不良を訴えていたため精密検を行った結果、出血性潰瘍であることが判明。初の故障者リスト入りし、メジャー開幕戦出場が絶望的になってしまったため、ご家族の心配を運営が考慮した結果、生放送は中止となり表状を渡すのみとなった。

しかしその後、その様子を配信する事を予告し、4月22日に実際に配信された。表状はイチロー記念館にキチンと飾られているようである。


2012年7月23日、D.J.ミッチェル投手ダニー・ファーカー投手との2対1交換トレードで、ニューヨーク・ヤンキースへ移籍が突如発表された。入団時から背負ってきた、代名詞ともいえる背番号「51」は「31」へと変更された。


2014年オフFAとなり、2015年以降はマイアミ・マーリンズ契約を結んでいる。背番号2012年以来の「51」。


2017年オフマーリンズFAとなり、イチロー本人く「ペットショップで売れ残った大きなみたい」のままオープン戦が始まった。


2018年3月に入り、古巣マリナーズから突如オファーがあり緊急渡オファーからわずか1週間もせずに正式にメジャー契約、入団が決まった。背番号2012年7月にイチローが抜けてからきになっていた「51」。実に6年ぶりの復帰となった。
入団会見では、前途の話題に絡めて、「ケージの中で一番大きく育ってしまったを優しく迎えてくれた。それに対して、全てをささげたい、忠心が生まれるというのは当然のことです」と述べた。

なおこのような表現になった背景として、後述の通りイチローは好きであり、「一」くんと、その息子の5兄弟のなかの長男である「宗朗」くんの二頭を飼っていることも関係していると思われる。


2018年5月4日マリナーズの特別アドバイザーに就任されたことが発表され、同時に残りの試合は選手出場はないことも発表された。ただし、チームには帯同して練習は続けていき、翌年の選手復帰をした。


2019年3月20日、約10か半ぶりに選手復帰を果たすものの2019年3月21日、試合終了後の会見で現役引退を表明。

引退後

マリナーズ会長付き特別補佐兼インストクターに就任し、ホームゲーム時にはマリナーズの選手を、チームが遠征時にはマリナーズAAAチームタコマ・レイニアーズの選手を導することになった。2019年9月14日にはシアトルで球団で大きな功績を残した選手に送られる「フランチャイズアチーブメント賞」の授与式を受けた。

2025年には日本米国野球殿堂にて有資格初年度で殿堂入り。特に米国ではデレク・ジーターに並ぶ野手最多得票率99.7%叩き出し、マリアノ・リベラ以来史上2人の満票殿堂入りまであと1票に迫る数字を出した。

人物像

バッティング

ICHIRO
バットを掲げるイチロー。イチロー独特の行為の1つ。

とにかくヒットを打つ事にこだわりがあり、加算される安打数に対して、数値が上下に変動する打率には特に拘ってはいない。これは若い頃に上下変動する打率を気にするあまりプレッシャーを感じたため、それ以降このスタイルを貫くようになった。

四球審判の判定に左右される(≒自分自身でコントロールできない)」という考えを持っているため、四球は少ない。四球の数は出塁率の上昇に繋がるため、このスタンスは普段1番という打順上、「自分勝手なプレーだ」という批判も多少あるようだ。ただイチローの実際の出塁率はむしろ高い方である。また、人種差別が根強いアメリカではイチローも例外ではなく、プレーでも渡して間もない頃は際どいボール球をストライク判定されることもしくなかったため、やむを得ず四球を選ぶスタイルをできなかったとも語っている。

また打ちで尚且つバットコントロールも上手い為に三振も少ない(三振の少なさは高校時代から知られており、高校3年の時の三振僅か3つである。また、216打席連続三振日本記録も持っている)。

また、高校時代からその打撃センスは現われており、三年時の県大会打率7割えている。高校通算で570打数279安打打率.489を記録している。

NPBの生涯通算打率公式記録となる4000打数には到達していないため参考記録となっているものの、NPB通算打率は.353記録しており、これは公式NPB生涯通算打率である青木宣親の.329を大きく上回っている。また、2000年にはシーズン打率.387を記録しており、これはランディ・バース記録したシーズン打率.389に次いでNPB歴代2位パ・リーグ記録となっている。MLB通算打率でも.311という高い数値を記録した。

レギュラーに定着した94年から2010年に至るまで17年間打率3割以上をマークしていた。特にNPBに在籍していた2000年までは94年から毎年シーズン打率.340以上を記録して首位打者タイトルを獲得していた。MLBでも2度の首位打者いており、シーズン打率.350以上を4度記録している。

1994年にはNPB初となるシーズン200本安打を達成。最終的にNPBシーズン安打数の記録210本までに伸ばした。後にマット・マートンによってこの210本という記録は破られるものの、現在でもNPB歴代3位、パ・リーグ歴代2位である(1位西武秋山翔吾2015年記録した216本)。

MLBでは2001年~10年にかけて10年連続200本安打を達成しており、これはMLB記録となっている。単年の記録でも10回のシーズン200本安打達成はピート・ローズに並んでMLBタイ記録である。2004年にはジョージ・シスラーシーズン257本安打という記録を84年ぶりに更新するシーズン262安打記録した。

※前述の安打数の記録に関して、マートン144試合制の144試合出場で214安打秋山143試合制の143試合出場で216安打、イチローは130試合制の130試合出場で210安打という記録である。またジョージ・シスラーは154試合制の154試合出場で257安打、イチローは162試合制の161試合出場で262安打という記録である。それぞれの記録には多少疑問が残るかもしれないが、それぞれ条件が異なるため一概に較することは意味であることを付け加えておく。

オリックス時代のイチロー。左は仰木彬監督(当時)

オリックス時代には一軍定着後、毎年2桁本塁打シーズン最高は25本塁打)を記録しており、パンチ力も兼ね備えている。だが試合では長打を狙わず単打や内野安打狙いのバッティングをしている。実際に試合前の練習などではホームラン性の打球をかっ飛ばしている。

本人も「(率が).220でいいなら(ホームランは)40本と言っておきましょう」と語っており、元同僚の佐々木主浩も「試合前の練習ではめっちゃホームランを打ってるけど、イチホームランよりも滞時間が長くて綺麗打率を気にしなければ40本は絶対打てる」と言うほどである。

スタメンで出ていた頃は打順で1番が定位置となっていたがチャンスに滅法強く、打順に対して割と多い打点記録している。オリックス時代の1996年には3番を打ち、オリックス最終年の2000年には4番を打っていた。1995年には1番を打ちながら80打点打点王を獲得(初芝清田中幸雄と同時受賞)、1997年にはシーズン17本塁打ながら自己最高の91打点記録している。

これだけの打率の高さ、特に得点圏の強さが敬遠に繋がる事が多い。日通算で279敬遠日本通算でも歴代13位となる98敬遠記録している。MLB通算181敬遠も歴代28位であり、長打が少ない選手としては異質と言える多さがどれほど相手に脅威だったかが伺える。その数は稀代のアベレージヒッターであるトニーグウィン首位打者8回、通算203敬遠)やウェイド・ボッグス(首位打者5回、通算180敬遠)と遜色ない。

日本で活躍していた頃は右足大きく上げる特徴があるバッティグフォームであった。メジャーに渡った頃から足を大きく上げるフォームはやめたものの、スイング中に体の回転軸が投手側に大きく移動する「振り子打法」は変わっていない。一般的にスイング中に頭の位置が動くと線がブレて、ボールを打ちづらいとされるためスイング中の頭の位置は動かないことが基本とされる。しかしイチローの場合「自分は動いていた方がボールを見やすい」と語っており、イレギュラー打法ヒットを積み重ねている。イチローの活躍によって同様の打法を用いる選手が出てくるようになったが、打撃のセオリーから逸脱している特殊な打法であるため活躍する選手は少なく、導者によっては邪とされる場合もある。

打ってからのスタートがとても速い独特のバッティグフォームであり、メジャーの後退気味の内野守備位置によってMLBに移籍してからは内野安打の数が非常に多い(概ね、毎年シーズン安打の20~25%)。また、イチローの場合「芯を捉えて打球を飛ばすバッティング」と「狙って芯を外して打球をヒットゾーンへ運ぶバッティング」を使い分けており、このわざと詰まらせるバッティングによって、ボテボテの内野安打内野手外野手の間に落ちるポテンヒットを生み出している。この「わざと詰まらせる」技術を会得している選手は非常に少なく、内川聖一銀次などのごく一部の巧打者のみができる究極のバッティング技術である。

打席では相手のウイニングショットを狙う事を信条としている。これは自身が元々投手であった経験上、失投を打ち返されるよりも完璧に投げ切ったボールヒットにされる方が精神的なダメージが大きい事ことから、あえて難しい球を打つようにしている。好調時にはストライクゾーンから外れたボール球ですらヒットにすることもしくなく、NPB時代の2000年にはロッテ後藤利幸が投じたワンバウンドしたボール球をヒットにしたこともあった。落合博満はイチローのバッティングを「相手が自分の打てるポイントに投げてこないなら、自分の打てるポイントを相手に合わせるこれまでにい打撃」と評している。

NPB後期には甘い球を打ち損じる傾向が強いという弱点があった。普段厳しいコースばかり攻め続けられるため突然甘い球が来ると対応ができない、という理屈である。ダイエー時代にイチローからプロ安打を打たれた木村恵二は後に西武に移籍した時にこの弱点を見つけ、見事に抑えられたという。

先は打撃の調子が悪く、5月になると一気に調子が上がる傾向がある。

2011年シーズンは開幕こそ好調だったものの、本来調子が上がる5月6月半ばにかけて不調に陥った結果、規定打席に始めて到達した94年以降では始めてシーズン打率が3割を割り込み、シーズン200本安打記録も10年連続で途切れた。以降も移籍による起用法の変化によってレギュラーが確約されなくなり、2010年を最後にシーズン200本安打シーズン打率3割を記録することはなかった。それでもMLB通算16年でのMLB通算3000安打達成はピート・ローズに並ぶ最速記録だった。

なお、イチローが2004年記録したシーズン262安打MLB記録であるが、2001年記録したシーズン242安打は歴代10位、新人記録では1位である。MLBシーズン安打記録の2~9位はいずれも1931年以前の記録であり、21世紀以降においてイチロー以外で1シーズンで最もヒットを打ったのは2014年ホセアルテューベが記録した225安打である。なお、イチローは2007年に238安打2009年に225安打記録しているため、21世紀以降でのシーズン安打記録では1~4位タイはイチローであり、アルテューベが4位タイ、6位には2006年に224安打記録したイチローとなる。

(いずれの記述もイチロー引退時点での記録)

守備

スーパーキャッチ
フェンス際のボールをキャッチするイチロー。


若い頃はに外野の右翼を守ることが多かった。2006年2007年中堅メインに、ヤンキース移籍後からは外野3ポジション全ての守備に就くことが多くなった。ちなみにオリックス時代には1度だけ公式戦でサードの守備に就いた事がある。

守備も打撃に劣らず定評があり、俊足かつ打球の落下点へ最短距離で移動できるため守備範囲が広い。肩も強いので(遠投は130m前後)毎年多くの補殺記録する。MLB初年度にみせたレーザービームは非常に有名である。クイックスローも上手く、前述のレーザービーム衝撃も相まって塁上のランナーが進塁をうことも少なくなく、フェンス直撃の打球を直前まで取れるようなそぶりをして、塁上のランナースタートを遅らせて進塁や得点を防ぐプレーもよく見られるなど、数字に出ない部分でも貢献度が高かった。

MLB移籍後はスタンドインギリギリのホームランボールをキャッチした事が何回かある。

ゴールデングラブ賞オリックスの一軍に定着した1994年からMLBに移籍する直前の2000年まで7年連続受賞、MLBでもゴールドグラブ賞を初年度の2001年から2010年まで10年連続で受賞した。

ゴールドラブ連続受賞が途切れた後も40歳ごろまで守備標では並の選手以上の守備力を誇っているとされていた。

オリックス時代は田口壮本西厚博(後に谷佳知)と共に外野を守り、球界一の守備力とまで言われ黄金期オリックス・ブルーウェーブを支えた。

イチローの特技として、背面キャッチがある。その名の通り、飛んできたフライを自分の背後でキャッチするものなのだが、見たと違って相当難しい技である。一見、これはパフォーマンスの様であるが、飛んできた打球から線を外して捕球するというイチロー独特の守備練習の1つでもあるという。

オリックス時代には自身がフライアウトで3アウトを取った時、よくボールスタンドに投げ込んでいた。パワプロではイチローのみに、これが再現されていた。

走塁

三塁に滑り込むイチロー。
(第2回WBC強化試合日本vsオーストラリア戦にて)

走攻守の内、イチローが最も難しいというのが走塁である理由は「バッティングの成功率は良くて3割強だけど、走塁の成功率は10割じゃなきゃならないから」。その日のグラウンドコンディションを考慮し、走塁をするということは判断力が必要とされ非常に難しいのだという。

通算700盗塁MLB通算500盗塁記録しており、MLB移籍後は10回のシーズン30盗塁以上を記録している。また、シアトル・マリナーズの通算盗塁数の球団記録保持者でもある。

盗塁技術は高く、盗塁成功率は日本通算で85.8%MLB通算で81.3記録していた。2006年から2007年にかけて45連続盗塁成功という記録を打ち立てている。渡前あたりでは打線の中軸を任される機会が多かったため盗塁企画数は減少傾向にあったものの、MLBではクイックの甘い投手が多いため30歳後半を迎えても安定した盗塁数を決めている。だが盗塁の多さにもこだわりを持っていないため盗塁王は日共に1回のみである。

盗塁成功率は非常に高いが、リード(離塁)は大きくとらないスタイルである。これはリードを大きく取りすぎると投手の牽制を気にするあまり、帰塁への意識が大きくなってしまって盗塁スタートが切りづらいためである。また、盗塁時に塁間を最短距離で走るために、塁間を最短距離で繋いだ線よりやや後ろに下がってリードを取っている。
リード時には体勢を高すぎず、低すぎない辺りに持っていくことで、スタートから一気にトップスピードへ乗せる事ができるようにしている。

クロスプレーになる状況において、野手を避けてセーフを狙う場合もよく見られる。
2012年のALDSのオリオールズ戦、一塁ランナーのイチローが打者の二塁打一気にホームを狙った際に、捕手タッチをかいくぐって得点をもたらした。
2015年にも三塁ランナーがイチローの場面で、打者が内野ゴロを打つ間にホームへ突入、タッチをかいくぐって生還した(この時は当初の判定はアウト。しかしチャレンジ制度によって判定が覆りセーフに)。
前述の連続盗塁成功記録が途絶えた時にも野手のタッチをかわそうとしたが、アウト判定で失敗に終わっている(このプレースロー映像で見るとタッチをかわしているようにも見えるが、チャレンジ制度導入前だったため判定は覆らなかった)。

リスクを最小限に抑えるため、ヘッドスライディングはほとんどやらない。

とびっきりの走力があるというわけではなく、走力なら田口壮の方が上だという。このため理な走塁ができなかったと引退時に語っており、前述のようなクイックの甘い投手に対して多くの盗塁を仕掛けたのもそのためである。
晩年は盗塁数は減ってしまったものの2015年の一塁到達タイムメジャー5傑に選ばれている。このときイチローは41歳。当たり前だがイチロー以外の5傑のメンバー全員20代である。

投手として

高校時代のイチロー
愛工大名電時代のイチロー。

高校時代は投手外野手エースで4番だった。しかし投手としての評価は低く、更に高校在学中に怪をした事が原因で投手を断念せざるを得ず、ドラフト名された際には外野手での名だった。

1995年パ・リーグ東西対抗戦でプロ入り後初登板をし、広瀬哲朗ピッチャーゴロに打ち取った。本来この時は清原和博打順だったが清原が「打席に入って三振でもしたらどうするんだ。広瀬さん、行ってくれ」と言い、代わりに広瀬打席に立った。

1996年オールスターでは9回2死から登板した。この時対戦する打者は松井秀喜だったが、代打高津臣吾が送られてしまい、結局イチローは高津と勝負、高津ショートゴロに打ち取った。ちなみにこの時に野球中継のゲスト解説をしていたのは前述の広瀬だった。

2009年の自練習ではWBCタイブレーク制に備えてプルペンに入り、投球練習をした事もあったexit

2015年10月4日フィラデルフィア・フィリーズ戦において4点ビハインドの8回裏にメジャー登板を果たし、1回を投げ2安打1失点の成績をおさめた。前述のオールスター登板から実に中7015日ぶりの登板で、最速は88マイル(約141km/h)だった。

投手としては最高球速140km/h後半、決め球は本人によるとフォークとの事。

投手を辞めた理由が理由なだけあって、現在投手への未練は本人く相当あるという。

引退時の会見では投手イチロー、打者大谷翔平で勝負をしたかったと語っていた。

道具

バットやグラブ具じゃない。体の一部」と言しており、野球具をとても大切にしている。

使用しているバット篠塚和典モデルバットベースヘッドを軽くしたものであり、普通バットよりもかなり細く、芯の場所が極端に狭い。そんなバットを使用してる理由は、プロ1年オフバット工場へ行った時に「このバットだけ遠くから見てもチカチカっていた。実際に持ってみたら自分にしっくりきた」と言い、それ以降現在に至るまでそのバットを使っている。

打った後一塁へ向かう際、バットを放り投げることはほとんどしない。これは若い頃、試合中にカッとなっとしまってついバット叩きつけてしまい、少し時間が経った後にこの行為をすごく後悔したからだという。また、MLBの試合中には投球を打って一塁に向かう際、打席付近にバットを置いてしまったことで球審がイチローのバットを蹴ってどかした事があり、この行為に高したイチローが球審に詰め寄るという出来事があった。

バットは湿度から守るため、特注のバットケースに入れて持ち運びしている。この事はマリナーズ時代に球団CMネタとして紹介された事もある。マリナーズ時代には当時若手のマイケル・モースに、マーリンズ時代にはディー・ゴードンにこのバットケースプレゼントした事がある。

ラブは紐を解いて使用している。理由は紐を結んだままだとグラブが固い状態になり、ボールを捕球したときの感覚が手に伝わりにくくなるからだという。

スパイクは20年ほどアシックス製を使用していたが、2015年からはビモロスパイクに変更。このスパイクに変更してから「5年前とべても速くなってると思う」とイチロー本人が体感しており、40歳をえても一塁への到達タイムが4を切るスピードを支えるものとなっている。

マリナーズチームメイトだったジョージ・マッケンジーく、「イチローさんは絶対他人の野球具は触ろうとしない。それは他人の野球具を触ると、その感覚が手に残るのが嫌だから」。

故障離脱の少なさについて

NPBで9年、MLBで19年プレーしながら長期に渡る故障離脱が非常に少ない。NPB時代には99年に当時日ハム下柳剛から手首に死球を受けて残りシーズンを全休、00年には打席でのスイングでを痛めて残り試合をシーズン終戦以外欠場をしたものの、94年開幕戦から上記の99年の故障離脱まで763試合連続出場という記録を残している。
MLB時代には19年のキャリアがありながら故障者リスト入りした経験は前述の09年シーズン開幕直前の1度のみであり、これ以外にも同年の8月末に左ふくらはぎを痛めた(故障の原因はの中に出てきたウサイン・ボルトに走り方を教えてもらい、その走り方をしたため)ときに数試合を欠場した以外に長期離脱することはなかった。レギュラーっていた01年~12年までの12年間は年均159試合(MLBシーズン162試合制)に出場するほどのタフネスさであった。レギュラーを確約されなくなった13年以降でも17年までいずれも100試合以上に出場していた。日通算で3604試合に出場しており、これはピート・ローズが持つMLB最多出場試合数をえている。

これほどの故障離脱の少なさは、自身の体のケアが行き渡っていたことに他ならない。特に、入念なストレッチや特殊な器具を用いた初動負荷トレーニングによって柔軟な筋肉を作り出し、故障を未然に防いでいた。
若手時代にはシーズンオフウェイトトレーニングを行って筋力強化をしていた時期もあったが、シーズンが始まると満足する成績が残せず、イチロー本人も原因がわからずにいた。しかしシーズンが進み、ごろになるとオフに強化した筋力が落ちるにつれて成績が向上。この時、強化した筋肉スイングの邪魔になっていたことを自覚し、それ以降ウェイトトレーニングをすることは止めたという。
また「筋肉は鍛えられてもそれを支える関節、腱を鍛えることができない」という持論から、ウェイトトレーニングで体格に見合わない筋肉を付けることは逆に故障の原因になると警鐘を鳴らしている。

背番号

セーフティバントを決めるイチロー。
(第2回WBC東京ラウンド2回戦、日本vs韓国戦にて)

背番号オリックスマリナーズWBC日本代表マーリンズで一貫して51をつけている。イチローのトレードマークとも言える。

イチローに憧れる野球選手はこの51に因んだ背番号を付ける事があり、川崎宗則は「イチローのひとつ後」という理由で一貫して背番号52を付けていた。

これは内選手だけに留まらず、他の選手にも見られる。韓国の奉重根やキューバヨエニス・セスペデスはイチローへの憧れから背番号51を背負っている(セスデスは後にキューバから亡命し、アスレチックス入りした時点で背番号51が他の選手が付けていたため現在背番号52を背負っている)。イチローの力が伺える。

逆にイチローと較される事を嫌い、小関竜也は入団当初51だった背番号を変えている。

背番号51に拘る理由は、

などの説が広まっていた。
実際は高卒ドラフト4位という評価でオリックスに入団したイチローにはそもそも背番号を選べるほどの権利はく、入団当時に球団から用意された背番号が51であった(ちなみに同年に入団した他の高卒選手も全員50番台背番号である)。そのため元々51という番号には拘りかった。
当時の年間最多安打記録記録した1994年オフには球団から51より小さい背番号への変更の打診があったものの、既に背番号51で選手としての認知度が高まったという理由で打診を断った。以降、下記の理由で31を背負ったヤンキース所属時以外は背番号51をあえて選ぶようにしているという旨を豊田男との対談で明かしている。

イチローのオリックス退団後、球団が合併してオリックス・バファローズになった後も51番はも付けていない準永久欠番扱いである。2005年オリックス・バファローズ監督に就任した仰木彬にイチローが51番を勧めたというが、仰木は「そんな番号は恐れ多くて絶対つけられん」と固辞したエピソードがある(ちなみに仰木は近鉄コーチ時代に背番号が51だったシーズンがある)。

また、マリナーズ移籍後は51の前任者が当時通算179勝、かのビッグユニット異名を持つランディ・ジョンソンマリナーズ在籍時に通算130勝、4年連続最多奪三振最優秀防御率1回、後に通算300勝を達成する大投手)ということもあって、イチローが51番を背負う事にかなりの反発があったというが、イチローが後に多大な成績を挙げたことでその反発を黙らせた。

しかし、2012年7月ニューヨーク・ヤンキースへの移籍が決定し、 入団時から20年間背負っていた背番号が「31」に変更された。ヤンキースでは背番号51というとバーニー・ウィリアムス2006年引退)が背負っていた番号であり、現在永久欠番になっているほど偉大な番号であるためか、「ヤンキースではとてもつけることはできない」と発言している(前述のランディ・ジョンソンヤンキース入りした際、ウィリアムスが51を背負っていたため「41」を背負う事となった)。

そして2025年米国野球殿堂入りの際に、マリナーズ背番号51が永久欠番になる事が発表。ランディ・ジョンソンも背負った「51」は同球団の徴として同年8月9日の式典でセーフコ・フィールドに掲げられる。マリナーズ永久欠番ケン・グリフィーJr.の「24」、エドガーマルティネスの「11」、全球団共通であるジャッキー・ロビンソンの「42」に続いて史上4人

国際大会

五輪に対しては「オリンピックアマチュアの大会」という理由で消極的であり、オリンピック出場を要請されたときは渋った結果、チームメイト田口壮が代理でオリンピック出場したほどである。

それに対してWBCに対してはテンションが上がるほど積極的である。2006年WBCの時には選手では一番に監督王貞治に参加の趣旨を伝えたという。

その積極性は「対戦した相手が向こう30年手を出せないな、という勝ち方をしたい」という発言や「(同じ対戦相手に2度負けた事は)野球人生で最も屈辱的な日」という発言から見てとれる。

また、「WBC世界最高の大会に育てていきたい」という意図もあるようである。 

性格

マスコミメディアに対して冷たい当たり方をする事が多いため、一般的にとてもクールイメージが強いイチローだが、第1回WBCチームメイトになった上原浩治に「あの人は普通の“隣のあんちゃん”」と言われる程、普段はとってもひょうきんな性格である。

物の言い方がとても独特で、例えば自身の知名度を言い表す時には「(アメリカの)レストラン食事してたら10人中11人に話しかけられますねと言った。プレーだけでなくジョークも一流である。

マーリンズ時代からはスプリングトレーニング期間中、練習場へ向かう時に変なTシャツを着ていくことが話題となった。引退時の会見でその件の意味を触れられた際には「野暮ったくなるから言わないほうがいい。見る側の解釈でいいんじゃないですか」と意図を明言することはなかった。

マスコミメディアに冷たい当たり方をするようになった背景に、過去事実根の事を書かれた事があるからである。それ以前はよくTV出演とかしていた。

近年になって拒絶の傾向は弱くなっており、記者会見などではたまにユーラスな答えが返ってくる事も増えてきた。しかしやはりマスコミメディアとは一定の間隔を置いており、時には話に沿わない、意図がわからない質問をしてくる記者に対して厳しい態度を見せることもある。

2014年には関西ローカルTV番組「ごぶごぶ」に特別出演した。ほっともっとフィールド神戸で自トレーニング中にごぶごぶのロケが訪れたことでの出演となった。しかしイチローは演者をあまり絡むことはく、あくまで自トレーニング中にたまたま通りかかった感じを貫いて出演者の浜田雅功東野幸治、撮スタッフの笑いを誘い、終いには浜田東野ユンケルファンティーを差し入れした。
(番組では元々イチローに出演のオファーを出していなかった。なので、あまり番組の影に関わり過ぎるとイチローの所属事務所や所属球団から出演料を求される、またはそれぞれの所属との契約で中身のある話ができないという能性があるため、たまたま通りかかった感じで出演せざるを得なかった線が強い)

メジャーで10年以上プレーしているため、英語に加えてスペイン語も喋る事ができるがMLB公式会見では必ず通訳を通してコメントをするようにしている。言葉の意味を誤解されないように、正確に伝えるためというのが理由である。

当のイチローは「ユニフォームを着ているときだけ『鈴木一朗』ではなく『野球選手のイチロー』になれる」という趣旨の発言をしている。

意外な事に本人く、とってもプレッシャーに弱いとの事。近年ではシーズン200本安打が近くなるとプレッシャーのあまり、体調を崩してしまう事がよくあるとか。

実際、2009年にはWBC中の不振によるストレスWBC後に体調が悪化。出血性潰瘍と診断され初の故障者リスト入りしたと同時に開幕戦出場も理となってしまった。

ゲーム漫画も少々嗜んでいるようで、第2回WBC日本代表メンバー片岡易之の足の速さファミスタの『ぴの』っぽい」と例えたり、2009年3月7日第2回WBC東京ラウンド日本vs韓国戦後インタビューではチームの雰囲気と打線爆発について「(ゲームソフトの)『ドラゴンクエスト』はテンションが上がって強くなるでしょう。ああいう感じでしょうね」と答えたり、王貞治第1回WBC日本代表監督カリン様(ドラゴンボール)に例えたりしている。特にドラゴンクエストシリーズ一通りをクリアしている程で、イチロー記念館にはイチローが少年時代に遊んだというドラクエソフトが飾られている。

プレーだけでなく、社会活動にも積極的で、1992年フレッシュオールスターに出場し、MVP100万円を手に入れたが全額施設に寄付した。他にもオリックス・ブルーウェーブが消滅するまで神戸総合運動公園野球場(現:スカイマークスタジアム)にイチローシートを設置し、2011年東北地方太平洋沖地震の際には個人で1億円を寄付する等、熱心さが伺える。

自身く、組織の中で自分を殺していけないタイプの性格という。チチローことである宣之は「物事に囚われない、破りな事をしなさい(もちろん人のを外さない程度で)」という教育方針でイチローを育てたという。また、非常に慢が苦手だと自認しており、特に体を動かすことを制限されることが一番苦手だと語っている。

かなりの偏食である。幼少期、食卓に並んでいた料理は自分だけ異なっていたと述懐している。
引退後にも「食については気を遣っていなかった」とアスリートらしからぬ言をしており、現役時代は痩せやすい体質から一例として食でハンバーガーを4個食べていたほどだったという。

好物はカレーライスで、MLB移籍後から2010年辺りまではほぼ毎日朝食食のカレーライスを食べていたことが知られていた。
しかし、ビーフカレーに入っている牛肉は食べない。理由は「ダシガラだから」。また他の具材についても「毎回同じものを食べたい」という理由から溶けきるほど煮込まれてるものが好ましいという。

焼き飯に入っているグリーンピースも苦手。一粒残らず皿の端に避けるほど。

焼肉も好物で、独身だったオリックス時代にはよく行き着けの焼肉屋に通っていた。焼肉にはこだわりがあり、焼肉には必ずは欠かせず、焼いたタレを付けて、それを刷毛のようにしてタレを付けた部分が大好物。2006年WBCで共に食事に行った川崎宗則のよると、その場には川崎以外に松坂大輔もいたが、絶対に焼肉後輩には焼かせなかったという。「何が一番(にとって)供養になるかと考えたら、一番おいしい状態で食べる」という考えから、を焼くときは網に1枚ずつ、焦がさないで食べる。石井一久MLB時代に一緒に食事に行った際には前述の焼肉の焼き方を紹介しつつ、「網に緊感があった」と語っている。
神戸の行きつけの店では牛タンが特にお気に入りで、現在でも神戸にいる間は週6で通うほどだという。(毎日通わない理由はその店が月曜日定休のため)

に関して語らせたら「(テレビの)収録1日で終わらない」との事。に関してはオタク級を自認する。人生最後の食事には?という質問には必ず炊き立てのご飯と答えるという。また、マリナーズ在籍時にはホームでの試合の時に自宅で妻、子におにぎりを握ってもらって球場へ持っていって食べていたという。

30歳前後からお酒も嗜むようになり、過去にはキリンビール現在ではザ・プレミアム・モルツのCMに出演している。引退してからは毎日する習慣が付いたと語っている。

MLB時代には決まったピザ屋のピザを食べる習慣があり、その話を聞いたジョーイ・ボットにそのピザ屋のピザを51枚送りつけられたことがある。

偏食スタイルについては食事ストレスを溜めないためであり、いくら体に良いものであっても嫌いなものを食べてストレスが溜まって体に負担になってしまっては意味がいという持論がある。

それ以外にはカレーライスとんがりコーンCMに出演していたこともあった。

ユンケル 

ユンケルパワード・バイ・ユンケル
my condition my YUNKER

佐藤ユンケルのCMに出演している、プロ入り前からユンケルを飲していたのを知った社員オファー。同社によると、イチローが試合前に飲むのはシリーズ33種類のうち2番に高価な「ファンティ」(税込み3150円)。

ユンケルは遠征に持って行く事もあってか、オーダーメイド製のユンルケースを持っている。

ユンケルは基本的に試合の1時間前に飲む(川崎宗則談)。

しかしそれだけユンケルを飲んでいるにも関わらずTV番組の企画で「利きユンケル」たるものではユンケルの品種を当てられなかった。

師・仰木彬との出会い

オリックスのイチロー」が「世界のイチロー」となるまで順調なを歩んで来たのかというと、実はそうではない。むしろ困難を歩み、多くの事を経験してきたからこそ、今のイチローがある。

イチローは1991年ドラフト4位でオリックスに入団。入団当時は特に注を浴びている選手ではなかった。

1992年から1993年まではほぼ2軍暮らしで、一軍で試合をする機会はほとんどなかった。2軍時代も首位打者に近い打率を打ちながらも、昇格することはなかった。これは当時のオリックス監督であった土井正三と打撃コーチ山内一弘に「振り子打法」などの導面で衝突があったからとされている。

イチローが世間に注を浴びるようになったのは1994年プロ野球生活3年からである。

イチローはこの年、その後一の師と慕うようになる仰木彬との出会いにより、才を世に知らしめる。仰木はイチローの振り子打法を否定せず、イチローの野球センスそのものを評価した。そしてイチローも自分をらせてくれた仰木の思いに応え、その年に210本ものシーズン最多安打を打ちMVPを獲得した。その後も1995年リーグ優勝1996年日本一などを、仰木と共に迎えている。

ポスティング制度を利用してのメジャー挑戦も、仰木の「もう一年やろう」の言葉により、挑戦を一年遅らせるなど、仰木がイチローに対して大きな力を持っていたのは間違いない。
なお仰木はイチローのポスティング移籍に関してはずっと反対していたが、イチローが美味い料理お酒武器に口説いたところそれまでがのように移籍を快諾してくれたと語っている。

仰木は、「鈴木一朗」ではすぎて埋もれてしまうとの理由により、登録名を「イチロー」に変更した。この登録名は仰木が付けたと思われがちだが、実際は当時のオリックス打撃コーチ新井宏昌アイデアでつけられた(同年にはイチローのみが立つことがないように、という仰木の考えから佐藤和弘も「パンチ佐藤」に登録名を変更している)。

イチローは、仰木が当時監督をしていたオリックスキャンプ場を訪れたり、仰木が野球殿堂入りした時はアメリカから駆けつけ授賞式に参加している。また晩年仰木が体調を悪くして入院した時は、理を言って面会をさせてもらった。その仰木が2005年に逝去した時には、言葉を失い、しばらくの間気持ちの整理が付かず、部屋にこもっていたそうである。

イチローというスターが誕生したのは、イチローが良き師、良き理解者である仰木彬と巡り会えたからである。

ただし、1994年の躍進までには少しばかり裏話があったりする

  • イチロー自身、プロ入りから2年間は二軍で自分の打撃のをしっかり作り、3年に活躍しようというビジョンを描いていた。これはイチローがプロ入りした時、4年後に同い年の大卒選手がプロ世界に入った時に自分がその選手たちより上の地位にいたいという思いから、確実に自分が活躍するための計画であった。その為、練習二軍べて制限され、試合に出られるかわからない状態が続く一軍は眼中になく、1年に初めて一軍昇格を知らされた時には相当渋り、昇格を断ったという(もちろん聞き入れられず)。
  • 上記の通り、2年まで自分の打撃のを作り上げようとしていたイチローだが、2年にイチロー自身印深い出来事があった。それは山内打撃コーチに「お前の言う事を聞くのか?聞かないのか?」と迫られたことだった。
    もちろん一軍コーチの言う事を聞かない事は二軍落ちを意味するが、導法も合わなかった事もあってイチローは前述の理由で「聞きません」と回答した(もちろんその後直ぐに二軍落ち)。イチローはこの判断を間違ってはいなかったという。
  • 実は当時のオリックス監督土井はイチローの力を高く買っていた。現に1993年には開幕戦でスタメン起用し、その後も積極的に起用し続けたが、結果打率1割台とまだ一軍で通用する力はく、1992年1993年オリックス外野は層が厚かったためイチローはレギュラーから弾き出される形となってしまった。そのためただ一軍のベンチに置いておくよりも二軍の試合でより多くの打席に立たせて経験を積ませた方が良いという計らいもあって二軍落ちをさせた。これは前述のイチローの思想と偶然にも一致する。また、当時のイチローはわがままで、チームスポーツである野球において協調性の大切さを学ばせるというもう1つの理由が二軍落ちにはあったという。土井1993年オフファンの反発もあって監督を辞任。更に1994年は前述のイチローが活躍を計画していた3年で、この年はオリックス力外野の退団や出遅れが相次いだ事で仰木監督のイチロー抜に繋がり、極めつけがイチローのNPB初のシーズン200本安打達成という事が重なり、土井導者としての資質、評価は以前から不評があったものの更に落とす結果となった。
    このような経緯から、土井はイチローを見出せなかった導者であるため不仲であるようなイメージがあるが、イチローが日通算3000安打を達成した際に2009年当時で闘病していた土井を気遣うコメントをしており、闘病がわず土井が死去した際は報道から自身を見出せなかったという趣旨の質問に対して「そんなつもりじゃなかったのにね…」と、過去土井の行いには理解を示しており、不仲ということは一切ないとイチローは言している。
  • 尚、土井は振り子打法に関してはイチローの飛躍後も否定をし続けた。イチローの振り子打法を否定した理由を要約すると、「あれはイチローの野球センスが高いからできる打法であって、本来は実践的な打法ではないから」と話している。更に土井アメリカシアトル記者に対し、「当時の打撃コーチが彼のフォームを好きじゃなかったから」と答え、振り子打法の否定は土井よりも当時打撃コーチだった山内が大きいことがわかる。もちろん、山内土井と同様に批判が起きた。

智辯和歌山高校との関わり

現役最晩年の頃、智辯和歌山高校ブラスバンド部がイチローへの応援演奏動画をイチロー本人へ送ったところ、それを視聴したイチローが非常に感し同校へ訪問して以降、智辯和歌山高校との関わりが非常に強くなった。

イチローは2019年明け、現役最後となる自練習をしていたほっともっとフィールド神戸智辯和歌山高校ブラスバンド部を招待し、同球場にてブラスバンド部の生演奏が行われる中で練習を行った。同部員に対して挨拶ひとりひとりへ握手を交わすなど上記の応援動画のお礼を行っている。

現役引退をした2019年暮れにはほっともっとフィールド神戸にて智辯和歌山高校の教職員で構成された草野球チームと対戦。イチローも自身の友人等で構成されたチームで対戦することとなったが、そのチーム名が「神戸智弁」と智辯和歌山高校に肖った名前となっている。

2020年12月には同校の野球部を訪れ、3日間導を行なった。イチローにとっては導者デビューであり、アマチュア選手への導も初となった。
(イチローは引退後もシアトル・マリナーズに所属した状態であり、通常プロ球団に所属した状態での現役、引退選手は高、大学生へ指導は禁止されているが、イチローは特例によってプロ球団に所属しながら学生野球資格回復制度の認定を受け指導が能となっている)
イチローの導が功を奏したのか、智辯和歌山高校2021年夏の甲子園大会優勝。イチローも同校の優勝に関して賛辞を送っている。
なお智辯和歌山甲子園優勝という結果を受けて「ウチにも導に来て欲しい」という他校からのお誘いのも聞こえるようだ。

その他

福島弓子一弓
子夫人(左)と一(右)

妻は元TBSアナウンサー福島子。イチローより8つ年上の姉さん女房であり、引退時には一番頑って支えてくれたと感謝の意を述べている。

柴犬を飼っており、名前はイチローと子夫人の名前から一文字ずつ取った「一」。2001年に生まれ、2002年からイチロー宅へ迎え入れられた。イチロー引退時には17歳える高齢で毎日ふらふらの状態でも毎日を懸命に生きる姿がイチローにとって励みになっていたが、イチローの引退を見届けた2019年に召されてしまった。
その後、一の縁戚に当たる姉弟で雌の「(ききゅう)」と雄の「朗(てんろ)」の2匹がイチロー宅に迎え入れられている模様。

ドラマ古畑任三郎」に本人役で出演した事がある。その時のイチローは殺人を犯し、古逮捕された。ちなみに元々出演の予定はなかったのだが、イチロー本人の希望で出演することになり、撮ではほとんどNGを出さなかったんだとか。共演した田村正和く、「役者の鑑」。野球選手だけでなく役者としても一流である。

愛知出身という事もあって中日ドラゴンズファン小学校卒業文集では中日の他西武ライオンズ入りを希望していた記述がある。憧れた選手は田尾安志高校時代には中日入りを望んでいたというが、当時オリックススカウトだった三輪勝利に説得されてオリックスに入団した。

寝る時はが2ついと寝られない。理由は1つは頭の下に、もう1つは股の間に挟んで横を向いた状態という独特のスタンスでないと寝られないからなんだとか。その為遠征では自前のを1個持って行く。

本名は「一」であり、「一」ではない。長男ではなく、歴とした次男である。名前の由来はイチローにとっては祖にあたる人物の名前が「一」であり、イチローが生まれる以前はチチローが会社経営をしていて非常に大変だったところを一に手伝ってもらい、尊敬の意味を込めて「一」の字を貰ったという。更にチチロー兄弟名前で順番を決めることを嫌ったこと(例:長男なら一郎、次男なら二郎といった具合)、なんでも一番になってほしいという願いも「一」に込められている。それに「朗らかであってほしい」という意味を込めた「朗」が合わさって「一朗」となった。イチローの名前は、「一泰」でイチロー同様に「一」という漢字が入っている。

かねてから「50歳までプレーする」と言していたが、45歳引退することとなってしまい「有言不実行の男になってしまった」と回顧している。しかしこ標を持っていたからこそ45歳までプレーできたとも語っている。なお、イチローの校である愛工大名電出身の選手には工藤公康(プロ通算29年)、山崎武司(プロ通算27年)、そしてイチロー(プロ通算28年)とプロ野球で25年以上プレーした選手が3人もいる。

運営の話によるとニコ動を見ているらしい。exit

東京事変の楽曲「スーパースター」は、イチローをイメージして作られた楽曲。作詞した椎名林檎との対談によれば、最初はあまり良い印を持たなかったが、「私のスーパースター」と歌っている事に感銘を受け、印が変わったと言う。

少年時代には練習バッティングセンターに通っていたが、そのバッティングセンターには同郷で1学年上の稲葉篤紀も通っていた。当時、稲葉少年にとってとても速い球を打ち返すイチローの姿を見てすごいと思ったという。長いときを経て、2009年WBC日本代表で両者は初めてチームメイトとなる。その後、稲葉が現役を引退してスポーツキャスターに転進し、取材のためイチローの元を訪ねると快く迎えてもらえるように、両者の関係は良好なようである。

現在日本プロ野球審判員として活躍している深谷篤(袖番号23)は高校時代の同級生野球部のチームメイトでもあった。深谷二塁手キャプテン、イチローは副キャプテンの間柄だった。深谷プロ野球審判員として一軍の試合にデビューしたのはイチローがMLBに移籍した後の2002年であるため、残念ながらプロ舞台でイチローと同じ試合に出場した経験はい。

MLBシーズン安打記録の前保持者であるジョージ・シスラー1973年に亡くなっているが、シスラーの死去から約半年後にイチローが生誕したため「ジョージ・シスラーの生まれ変わり」と言われることもある。

MLB通算3000安打2016年当時コロラド・ロッキーズに所属していたクリスルーシンから放ったが、奇遇にもルーシン誕生日はイチローと同じ日(10月22日)である。

イチローと同学年にあたる選手には野手では小笠原道大中村紀洋松中信彦清水隆行小坂誠坪井智哉礒部公一投手では石井一久三浦大輔黒木知宏薮田安彦門倉健など力級で活躍した選手が多くいる。特にイチロー、小笠原中村は通算2000本安打以上、中は平成一の三冠王という打者豊作の学年であった。91年ドラフト同期入団には中村石井三浦の他に金本知憲田口壮片岡篤史落合英二斎藤隆がおり、この年のドラフト名された選手では5人もメジャーリーガーが誕生している。また、イチロー、中村金本はいずれも4位という下位名ながら後に名球会入りしている。

NPB初のシーズン200本安打~MLB通算3000本安打の軌跡~引退

弱冠二十歳にして前述のとおりNPB初のシーズン200本安打かつ当時のパ・リーグ記録である打率.385をマークして世に名を知らしめるようになったイチロー。その後は2000年までいずれも打率.340以上の高打率で7年連続首位打者2000年には自身の記録更新する打率.387という規格外の成績を残し、もはや「パ・リーグ首位打者予想はイチロー以外ありえない」という敵なし状態だった。

そんなイチローは2000年オフポスティングシステムを利用してメジャーリーグへ移籍。日本人初の野手でのメジャーリーガーとなる。

イチロー自身、毎年首位打者になっていたものの日本球界にマンネリを感じており、それを解消するためにメジャー移籍に到ったという。

投手でのメジャーリーガーといえば1964年村上雅則に始まり、2000年当時は野茂英雄の活躍によって後を追うようにNPBからメジャーに挑戦する投手が続々出始めてきた頃である。しかし野手での挑戦者はそれまで一人としていなかったため、イチローがメジャーでいかなる成績を残すかというのはにも見当がつかなかった。

2000年頃のメジャーリーグというとステロイドなどのドーピングが容認されていた時代であり、筋々の打者がホームランポンポン飛ばすビッグボール時代であった。それに対峙する投手レベル日本べて高く、特にボール速さに対応できるかどうかが未知数であった。

実際に日本で7年連続首位打者いたにもかかわらず、イチローへの期待度は高いものではなかった。当時のマリナーズ監督ルーピネラは「打率.280くらいならまぁまぁ」といったコメントをしているあたりからそれを読み取れる。

イチローとしても日本人野手初のメジャーリーガーという肩書きが重く、自身のメジャー挑戦の成功、失敗が今後の日本人野手のメジャー挑戦の運命を左右すると思っており、並々ならぬ想いでメジャー1年シーズンを迎えることとなる。

しかし2001年シーズンが始まるとイチローは当初の期待度をかに上回る働きをし、打率.350で新人記録の242安打を打ち、盗塁成功率80%の56盗塁、更に守備ではかのレーザービーム送球を見せ、走攻守にわたって大活躍。終わってみれば首位打者盗塁王、新人王、ゴールドグラブ賞シルバースラッガー賞アメリカンリーグMVPタイトルを総ナメ。日本人野手がメジャーリーグでも通用するという事をこれ以上ない程に実してみせた。

これを足がかりに松井秀喜松井稼頭央などの日本球界での一流どころの野手が続々とメジャーリーグへ挑戦していく事になる。

ところが、イチローが日本人野手のハードルを上げ過ぎてしまったようで、イチロー以降の日本人野手のメジャーリーガーでは松井秀喜以外MLB通算1000安打すら達成してる者はおらず、おおよそ5年くらいしか活躍できていないのが現実であり、日本人野手の評価はあまり芳しくない。

そんな中イチローは毎年結果を残し続け、10年連続200本安打というメジャー記録を打ち立て、先駆者でありながらMLB通算1000本、1500本、2000本、2500本安打ヒットを積み重ねていった。

そしてメジャー16年2016年8月7日(現地時間)、100年をえるメジャーリーグ歴史で30人しか達成できていないMLB通算3000安打を達成。アメリカ出身以外の選手では4人の達成者であり、アジア人、かつ日本人として初の達成者である

2017年7月6日(現地時間)、ロッド・カルーの通算3053安打を抜いた事によりアメリカ外の出身者として歴代最多の安打を放った選手となった。(2018年ドミニカ共和国出身のエイドリアン・ベルトレにこの記録は塗り替えられた)

2019年3月21日引退を表明。MLB通算19年で3089安打というとてつもない安打数を積み上げた。引退時にはNPBMLBプレーヤー、関係者、イチローが過去に所属した球団はもとより、所属経験がない球団からも引退を惜しむコメント公式から発表された他、野球以外の各界からもコメントが出されたが、サッカークラブチームバイエルン・ミュンヘンからも引退に関するコメントが発表される異例の事態ともなり、記録にも記憶にも残る活躍を見せた。

イチロー伝説

テンションが上がると分身したり、何度も人類を滅亡させるほどの力を秘めているイチローだが、その才日米野球界で明されている。

レーザービーム

レーザービーム
外野から送球するイチロー(第2回WBC宮崎合宿にて)

日本が誇る技、SUMOUと並んで日本が核を持たない理由がこれである。

に敵チームの攻撃時、ランナーの三進の時やホーム突入の時によく見られる。

このレーザービームが放たれると、大抵ランナーアウトになるが同時に着弾点を中心として地殻津波が発生。この時点で地球の人類の半分が滅亡するがこれだけにとどまらず、舞い上がった地殻がファールボールとなって地球に着弾するというセカンドインパクトが発生する。

これだけの大被害にも関わらず、年に何回も発生することなので各界の著名人はこのレーザービームが発生する度に「またイチローか」コメントすることが自然となりつつある。また、人類滅亡が発生すると同時に踊りだす黄色い人たちがいるとかいないとか。

イチローの調子が良い時は宇宙滅亡、調子が悪い時は山の地滑りが起こる程度である。また、レーザービーム亜種としてレートビームたるものも観測されている。

人類滅亡後の地球マツケンが元に戻しているらしい。

レーザービームを放った試合は不思議マリナーズは試合に負ける事が多い。
この逆の事例として、マーティー・レオ・ブラウン広島東洋カープ監督時代・元東北楽天ゴールデンイーグルス監督)のベース投げがある。

ちなみに2009年のイチローによる人類滅亡は予想されていた。
Ω Ω Ω <な、なんだってー!!
詳しくは↓の画像をクリック

全盛期のイチロー伝説 

全盛期のイチロー伝説ネタが使われている記事の一覧も参照。

テンション上がってきた
テンションが上がって
しまい、分身した。
ほぼイキかけました
ほぼイキかけそうに
なり、スタンドが少し
出かけた事も。

成績

年度別打撃成績




Year



Team



G



PA



AB



R



H



2B



3B



HR



RBI



SB



SH



SF



BB



HB



SO



GDP



AVG



OBP
1992年 オリックス 40 99 95 9 24 5 0 0 5 3 1 0 3 0 11 0 .253 .276
1993年 43 67 64 4 12 2 0 1 3 0 1 0 2 0 7 2 .188 .212
1994年 130 616 546 111 210 41 5 13 54 29 7 2 51 10 53 3 .385 .445
1995年 130 613 524 104 179 23 4 25 80 49 0 3 68 18 52 7 .342 .432
1996年 130 611 542 104 193 24 4 16 84 35 0 4 56 9 57 8 .356 .422
1997年 135 607 536 94 185 31 4 17 91 39 0 5 62 4 36 10 .345 .414
1998年 135 558 506 79 181 36 3 13 71 11 0 2 43 7 35 21 .358 .414
1999年 103 468 411 80 141 27 2 21 68 12 0 5 45 7 46 5 .343 .412
2000年 105 459 395 73 153 22 1 12 73 21 0 6 54 4 36 3 .387 .460
NPB:9年 951 4098 3619 658 1278 211 23 118 529 199 9 27 384 59 333 59 .353 .421
2001年 SEA 157 738 692 127 242 34 8 8 69 56 4 4 30 8 53 3 .350 .381
2002年 157 728 647 111 208 27 8 8 51 31 3 5 68 5 62 8 .321 .388
2003年 159 725 679 111 212 29 8 13 62 34 3 1 36 6 69 3 .312 .352
2004年 161 762 704 101 262 24 5 8 60 36 2 3 49 4 63 6 .372 .414
2005年 162 739 679 111 206 21 12 15 68 33 2 6 48 4 66 5 .303 .350
2006年 161 752 695 110 224 20 9 9 49 45 1 2 49 5 71 2 .322 .370
2007年 161 736 678 111 238 22 7 6 68 37 4 2 49 3 77 7 .351 .396
2008年 162 749 686 103 213 20 7 6 42 43 3 4 51 5 65 8 .310 .361
2009年 146 678 639 88 225 31 4 11 46 26 2 1 32 4 71 1 .352 .386
2010年 162 732 680 74 214 30 3 6 43 42 3 1 45 3 86 3 .312 .359
2011年 161 721 677 80 184 22 3 5 47 40 1 4 39 0 69 11 .272 .310
2012年 95 423 402 49 105 15 5 4 28 15 0 4 17 0 40 10 .261 .288
NYY 67 240 227 28 73 13 1 5 27 14 5 1 5 2 21 2 .322 .340
12年計 162 663 629 77 178 28 6 9 55 29 5 5 22 2 61 12 .283 .307
2013年 150 555 520 57 136 15 3 7 35 20 6 2 26 1 63 6 .262 .297
2014年 143 385 359 42 102 13 2 1 22 15 9 27 21 1 68 3 .284 .325
2015年 MIA 153 483 398 45 91 5 6 1 21 11 5 4 31 0 51 5 .229 .282
2016年 143 365 327 48 95 15 5 1 22 10 3 2 30 3 42 4 .291 .354
2017年 136 215 196 19 50 6 0 3 20 1 1 0 17 1 35 2 .255 .318
2018年 SEA 15 47 44 5 9 0 0 0 0 0 0 0 3 0 7 0 .205 .255
2019年 2 6 5 0 0 0 0 0 0 0 0 0 1 0 1 0 .000 .167
MLB:19年 2653 10734 9934 1420 3089 362 96 117 780 509 57 73 647 55 1080 92 .311 .355

国際大会での打撃成績




Year



rep



Convention



G



PA



AB



R



H



2B



3B



HR



RBI



SB



SH



SF



BB



HB



SO



GDP



AVG



OBP
2006年 日本 WBC 8 40 33 7 12 1 0 1 5 4 2 0 4 1 1 0 .364 .447
2009年 9 44 44 7 12 2 1 0 5 1 0 0 0 0 2 0 .273 .273

年度別投手成績




Year



Team



G



GS



CG



SHO



W



L

|

SV

|


HLD



W-L%



IP



H




HR



BB



HBP



SO



WP



R



ER



ERA
2015年 MIA 1 0 0 0 0 0 0 0 .--- 1.0 2 0 0 0 0 0 1 1 9.00
MLB:1年 1 0 0 0 0 0 0 0 .--- 1.0 2 0 0 0 0 0 1 1 9.00

年度別守備成績

NPB





外野手












1992年 オリックス 34 50 0 0 0 1.000
1993年 32 34 1 0 0 1.000
1994年 130 261 10 5 3 .982
1995年 130 262 14 2 5 .983
1996年 130 277 8 2 3 .993
1997年 135 269 7 2 2 .993
1998年 135 245 12 3 4 .988
1999年 103 196 9 0 1 1.000
2000年 105 218 5 4 1 .982
通算 934 1812 66 18 19 .991

MLB




Year



Team
中堅手CF 左翼手LF 右翼手RF



G



PO



A



E



DP



Fld%



G



PO



A



E



DP



Fld%



G



PO



A



E



DP



Fld%
2001年 SEA - - 152 335 8 1 2 .997
2002年 3 8 0 0 0 1.000 - 150 325 8 3 0 .991
2003年 - - 159 337 12 2 4 .994
2004年 - - 158 372 12 3 2 .992
2005年 - - 158 381 10 2 2 .995
2006年 39 114 1 1 0 .991 - 121 250 8 2 3 .992
2007年 155 424 8 1 3 .998 - -
2008年 69 195 4 1 1 .995 - 91 175 7 4 1 .978
2009年 - - 145 317 5 4 2 .988
2010年 - - 160 354 7 4 1 .989
2011年 - - 151 263 7 4 5 .985
2012年 - - 93 198 3 1 0 .995
NYY 7 10 1 0 0 1.000 35 50 0 0 0 1.000 39 41 1 0 0 1.000
12年計 7 10 1 0 0 1.000 35 50 0 0 0 1.000 132 239 4 1 0 .986
2013年 13 22 0 0 0 1.000 9 15 0 0 0 1.000 128 217 5 3 0 .987
2014年 5 7 0 0 0 1.000 9 9 0 0 0 1.000 119 173 4 1 0 .994
2015年 MIA 7 13 0 0 0 1.000 30 52 2 0 0 1.000 73 152 3 0 0 1.000
2016年 14 24 2 0 0 1.000 14 20 4 0 1 1.000 54 81 0 1 0 .988
2017年 10 16 0 0 0 1.000 9 19 1 0 1 1.000 16 29 0 0 0 1.000
2018年 SEA - 11 19 0 0 0 1.000 1 2 0 0 0 1.000
2019年 - - 2 3 0 0 0 1.000
通算 322 833 16 3 4 .996 106 165 7 0 2 1.000 1969 4003 100 35 22 .992

タイトル・表彰・その他

タイトル
NPB 首位打者 7回 1994年-2000年
最多安打 5回 1994年-1998年
最高出塁率 5回 1994年-1996年1999年2000年
最多打点 1回 1995年
最多盗塁 1回 1995年
MLB 首位打者 2回 2001年2004年
最多盗塁 1回 2001年
NPB MVP 3回 1994年-1996年
ベストナイン 7回 1994年-2000年
ゴールデングラブ賞 7回 1994年-2000年
MLB 新人王 - 2001年
MVP 1回 2001年
シルバースラッガー賞 3回 2001年2007年2009年
ゴールドグラブ賞 10回 2001年-2010年
WBC ベストナイン 1回
その他
NPB オールスターゲーム出場 7回 1994年-2000年
MLB オールスターゲーム出場 10回 2001年-2010年

関連動画

商品検索

関連項目

ニコニコ動画関連

この記事を編集する
関連記事

親記事

子記事

兄弟記事

掲示板

  • 2071 ななしのよっしん

    2025/03/05(水) 14:55:24 ID: faiFEaEETt

    意識の差別も何も…
    「頑ればでも出来る」が仮に綺麗事の建前だとしても、その建前を否定するような言動するメリット何もないんだからそりゃそう言うだろうよ
    それともアレか?イチローさんに「どんなに頑ってもあんたらにゃ無理っすwwwだって天才だもんwwwが違いすぎるwww」とか言って欲しいんか?

  • 👍
    0
    👎
    0
  • 2072 ななしのよっしん

    2025/03/05(水) 21:13:47 ID: g7xXA4kGxC

    >>2071
    意味不明。なんで逆の選択肢しかないの?
    意識の差別って別にが提唱しているわけじゃなくてサンデルとかの本でも言われてるやつだよ
    まあ気に入らなかったってのはよく伝わったけど

  • 👍
    0
    👎
    4
  • 2073 ななしのよっしん

    2025/03/05(水) 23:22:15 ID: faiFEaEETt

    そうだね、出来る出来ないは程度の問題だね。
    んで重ねて聞くけど、だったら君はイチローにどうして欲しいんだよ?
    なんかイチローの言動に問題があるみたいな言い方してるけどさ。

    言っとくけど、もがイチローになれるわけでもイチローほど努力できるわけでもないなんてのは、本人含めてみんな分かってるぞ。
    そんなことは当たり前過ぎてわざわざ言う必要性を感じてないからも言わないだけだ。
    ただそれは少なくとも、努力を全くしない言い訳にはならんってだけの話だ。

  • 👍
    2
    👎
    0

おすすめトレンド

ニコニ広告で宣伝された記事

記事と一緒に動画もおすすめ!
踊ってみた[単語]

提供: ゲスト

もっと見る

急上昇ワード改

最終更新:2025/03/23(日) 21:00

ほめられた記事

最終更新:2025/03/23(日) 20:00

ウォッチリストに追加しました!

すでにウォッチリストに
入っています。

OK

追加に失敗しました。

OK

追加にはログインが必要です。

           

ほめた!

すでにほめています。

すでにほめています。

ほめるを取消しました。

OK

ほめるに失敗しました。

OK

ほめるの取消しに失敗しました。

OK

ほめるにはログインが必要です。

タグ編集にはログインが必要です。

タグ編集には利用規約の同意が必要です。