基本データ | |
---|---|
正式名称 | ベルギー王国 Koninkrijk België(蘭) Royaume de Belgique(仏) Königreich Belgien(独) |
国旗 | ![]() |
国歌 | ブラバントの歌![]() |
公用語 | オランダ語 フランス語 ドイツ語 |
首都 | ブリュッセル(Brussels) |
面積 | 30,528km²(世界第136位) |
人口(’22) | 約1166万人(世界第81位) |
通貨 | ユーロ(EUR, €) |
ベルギーとは、ヨーロッパにある国の一つ。オランダ、ルクセンブルクと共に「ベネルクス三国」を形成している。
日本ではチョコレートやワッフルなどの産地として有名。 ベネルクス三国の一つ。
北部の街アントワープはダイヤモンドの流通と「フランダースの犬」で有名。
主にオランダ語系のフラマン語を話す地域と、フランス語系のワロン語を話す地域に二分され、首都ブリュッセルでは両方の言語が用いられる。両者の間には経済格差や複雑な歴史があったりするため、言語対立は深刻で独立の話すら出てきたりする。さらにドイツ語話す地域もあったりする。
中世の間、現在のベルギーにあたる地域は神聖ローマ帝国、フランス、ブルゴーニュ公国と支配者が次々変わる争いの絶えない土地であった。
1549年、神聖ローマ皇帝カール5世によって現在のベネルクス三国とフランスの一部にあたる地域にネーデルラント17州を成立させ、カール5世の息子でスペイン王となったフェリペ2世がその支配者となった。17州はもともとハプスブルグ家の支配に不満を持っており、フェリペ2世は北部で信仰されているプロテスタントを廃止しようとしたため八十年戦争(オランダ独立戦争)が勃発した。
……が、現在のベルギーにあたる南部はカトリックが信仰されていたのですぐにスペインの支配下に戻ることとなる。
隣国フランスにしばしば占領される。特に影響力が大きかったのは1794年から1814年までの革命戦争による占領である。このときベルギーはフランス本土に組み込まれたうえ、フランス式の改革が強行された。
その後、ナポレオンの敗北によりフランスはベルギーから撤退するが、大国の意向に左右され、ウエストファリア条約によって今度はオランダ人の支配を受けることになる。オランダ人の王、ウィレム1世はカトリックを嫌い、公用語はオランダ語だけを用いた。そうしたオランダ支配に南部の人々の間には不満が溜まっていった。
1830年、ブリュッセルのある劇場でオペラを観てナショナリズムを扇動された群衆によって独立革命が勃発した。独立を要求する声は各国に認められ(オランダは1839年まで認めなかったが)、これによりベルギー人は自らの国を持つことができたのである。
このとき、独立を主導したのはフランス語を話すエリートであった。そもそも、当時の社会ではエリートはフランス語を話すのが当たり前であり、オランダ語を話すフランデレン地方出身でもエリートであればフランス語を用いていた。そのため、公用語はフランス語ただ一つだけであった。
オランダ語しか話せない人もいる中、公用語がフランス語だけというのは学校教育や裁判において不平等が生じる。これに不満を持ったフランデレンの人々は国の中での言語的平等を目指すフランデレン運動を展開。彼らの要求は1920~30年代に徐々に認められることとなった。
第一次世界大戦が勃発するとドイツは中立国であるはずのベルギーに侵攻した。このとき、国王アルベール1世が「ベルギーは道ではない。国だ」と述べたのはあまりにも有名。軍を率いたアルベール1世はドイツの猛攻を耐え、あくまでも中立国であるとして連合国の攻勢には参加しなかった。戦後、国王はベルギーとその国民を守った英雄として称えられた。このとき、ドイツ語話者の多いオイペンを領土として獲得している。
しかし、英雄アルベール1世は崩御し、ナチスが政権を握ったドイツは再びベルギーの脅威となった。第二次世界大戦の直前、ベルギーはフランスとの軍事同盟を破棄するなど中立の立場に戻ろうとしたが、またもドイツに侵攻されてしまう。今回はドイツの電撃戦の前にはなすすべなく、ベルギー軍と国王レオポルド3世はわずか18日で降伏した。
このとき多くの閣僚はロンドンに亡命政府を設立し抵抗したが、国王は内閣に無断で降伏したのである。終戦後、国王の行為は国を裏切るものだと非難され、国を二分する論争を招いた。復位を問う国民投票では僅差で復位賛成派が上回ったが、南部ワロン地方では反対論が根強く各種抗議活動が行われた。結局、この問題は国王の譲位によって解決がなされた。
これらの出来事は、中立国であっても純粋に地政学的な理由で侵略されうるという事例として挙げられることが多い。また、軍事マニアが少々不謹慎な冗談として使う「ベルギーは国ではない。道だ」「道路国家ベルギー」といった定型句のもととなった [1]。
時代を遡って1880年代、国王レオポルド2世は探検家を支援してザイール川流域を探検させた。その成果は国王のものとなり、コンゴ自由国として国王の私有地として認められた。
しかし、その支配は植民地主義が当たり前だった当時においても非人道的で常軌を逸するものであり、ベルギーは国際的な批判に晒され、コンゴの植民地はベルギー政府が管理することになった。
1960年、ベルギーはコンゴの独立を承認したが、その独立式典で当時の国王ボードゥアンは過去の植民地支配を正当化するような演説を行った。ベルギー人もコンゴの権益を手放すつもりはなく、独立後もベルギー軍は駐留し、ベルギー人はコンゴ社会の要職を占めていた。この状況に不満を持つ一部のコンゴ人によって白人が襲撃され、ベルギーは民間人保護の名目で許可なく軍を派遣して砲撃を行うなど両国間の緊張が高まっていった。
こうした混乱に乗じて資源地帯カタンガ州が分離独立し、ベルギーに支援を要請した。コンゴはこれを認めず内戦状態となった。こうした動きを受けて国連はコンゴからのベルギー軍撤退を要求したが、コンゴを直接支援することはなかった。国連に失望したルムンバはソ連に接近。西側諸国は彼が共産主義者だという印象を抱くようになり、国連軍はルムンバの影響力を排除するためモブツによるクーデターを支援し、ルムンバを殺害した。
長い政治危機で政府に対する失望が広がる中、コンゴ北東部を中心に反政府運動「シンバ」が組織され、政府に対して激しい抵抗運動を行った。アメリカ・ベルギーによる軍事介入によって鎮圧されたが、政争は依然として続いていた。1965年のモブツ2回目のクーデターによって事態は打開されたかのように思えたが、コンゴはそれから30年以上に渡ってモブツ独裁政権を迎えることになる。
こうしたコンゴ動乱に対してベルギーは度々介入を行っており、ルムンバ殺害にも関与していたとして2002年に当時のミシェル外相が謝罪を行っている。また、2020年にアメリカでBLM運動が展開された際にはベルギーでも植民地支配とコンゴ動乱への介入が問題視された。こうした動きを受けて現国王フィリップは同年の6月30日に過去の植民地支配について公式に謝罪した。
第二次世界大戦後、ベルギーはアメリカの支援により高度経済成長を果たす。しかし、その成長度合いは地域によってばらつきがあり、フランデレン地域は繁栄した一方、ワロン地域は鉱工業の需要低下によって徐々に衰退していった。
これにより、フランデレンの政治的影響力は大きくなり、さらなる自治拡大を要求するようになった。言語に関する紛争が再燃し、政党は言語別に分裂した。1960年代からは国家を言語別に分ける試みがなされ、連邦制へ移行した。
首都ブリュッセルにはNATO本部とEU本部が置かれており西側諸国とヨーロッパの中心的役割を果たしている。
政治の面では政党が言語別に分裂しており、言語間の対立も激しくなっているため選挙の度に連立交渉が難航している。1年以上正式な内閣が組織されないこともしばしばある。加えて、フランデレンの一部政党は自治拡大ないし分離独立を訴えており、政治的不安定が続いている。
1914年、第一次世界大戦でベルギーはドイツに攻め込まれた際、日本人たちが義援金を送った。
1923年に関東大震災が起きると、ベルギーは9年前の恩返しとして、アメリカ、イギリスに次ぐ金額の義援金を日本に送った。日本人は「アメリカのように資源もないし、イギリスのように植民地も無い小国が義援金を送ってくれた」と喜んでくれた。
1989年、日本では昭和天皇が崩御して、「大喪の礼」が行われた。ベルギーの当時の国王、ボードワン1世はヨーロッパの王様の中で最も早く出席を表明して、日本にすっ飛んで行った。そして、お隣りオランダからもファン・デン・ブルック外務大臣やポストゥムス・メイエス大使および大使夫人が葬儀に参列した[2]。
1993年にはボードゥアン王が崩御。その際には天皇・皇后両陛下が葬儀に出席。歴代天皇・皇后の中で、外国の王様の葬儀に出席してくれたのはこのときが初めてだった。
アニメで有名な童話「フランダースの犬」はベルギーのフランデレンを舞台にした作品であるが、作者のウィーダはイギリス人であり、ベルギーでの知名度は低い。
一方、学校図書館によく置いてある「タンタンの冒険」シリーズはベルギー人エルジェの作品であり、世界的に有名な漫画作品として知られている。
スポーツは自転車競技が盛ん。またサッカーの伝統国であり、W杯3位、ヨーロッパ選手権準優勝の実績がある。
あと、ビール、チョコレート、ワッフルなどの食べ物も有名。クラブミュージックやDTMのファンには世界最大の音楽フェス・Tomorrowlandの開催地として知られている。
並びは単純50音順。
※ニコニコ大百科に記事がある人物・作品は太字。
掲示板
155 ななしのよっしん
2024/02/17(土) 15:43:56 ID: ij82mV9CHX
やめろよネロやアロアがフラダンスしてる絵面しか想像できなくなった
156 ななしのよっしん
2024/08/21(水) 08:05:03 ID: 83Xlzbxwqa
>>115
わざわざドイツ地方出身の英国住まいの公子が初代王として赴任しているしね…。外野の大国が勧めてきた王様を独立派が受け入れたって事は(独立なのだから、自分達で王候補をも選ぶのが自然そうなのに…)、なんか思う所があったんだろうな…。
157 ななしのよっしん
2024/08/24(土) 07:36:00 ID: T1ZbZ/JMLN
ベルギーの植民地に関してもちろんレオポルド2世は自分の私領で好き勝手やっていた責任は免れない
しかし、ベルギーは植民地化の時代において後発組であり政府さえも後ろ向きな中で彼は残り物に飛びついたようなもの
当時のベルギー領コンゴ(現コンゴ民主共和国、DRC)はまだ豊富な天然資源が発見されていなかったうえにマラリアなどの疫病がはびこり、まだカニバリズムとかが平気で存在する恐ろしいほど前近代的な社会だった
そんな過酷な地域で植民地経営を始めて当然のように赤字経営が続く中でノルマ未達の労働者の手を切り落とすなんてめちゃくちゃをしたのも少しのご褒美目当てにそれを好き好んでやる現地の協力者が大勢いたからだ
その後、ベルギー政府が王の私領を引き継いで住人の待遇は劇的に改善されたが、ベルギーによるインフラや医療、初等教育の整備などの半世紀の渡る努力はその後に勃発した内戦もあって結局ほとんど無駄に終わってしまった
今では中国人がDRC政府と契約してコバルト(リチウムイオン電池の原料の一つ)など安価な天然資源と引き換えに必死に現地の労働者を指導して働かせよ
(省略しています。全て読むにはこのリンクをクリック!)
提供: ナッシー
提供: イクラ(fake)
提供: ichirou
提供: のらきち
提供: ゲスト @
急上昇ワード改
最終更新:2025/03/30(日) 08:00
最終更新:2025/03/30(日) 07:00
ウォッチリストに追加しました!
すでにウォッチリストに
入っています。
追加に失敗しました。
ほめた!
ほめるを取消しました。
ほめるに失敗しました。
ほめるの取消しに失敗しました。