伊勢貞興(1562 ~ 1582)とは、戦国時代の武将である。
室町幕府で代々政所執事を務めた伊勢氏の末裔。室町幕府が滅亡すると明智光秀に仕えた。しかし、山崎の戦いで討死した。
1563年、祖父・伊勢貞孝と父・伊勢貞良が挙兵するも敗死した。この後、伊勢氏は伊勢貞助ら分家が盛りたてつつも、伊勢貞興ら伊勢貞良の息子たちは、若狭武田氏を経由して阿波三好氏のもとへと逃れていった。
1565年の永禄の変の後と、伊勢宗家は必然的に足利義栄に仕えた。なお、一色龍興が伊勢氏にYou!上洛しちゃいなYO!と割と空気の読めていない書状を永禄の変直後に送りつけていたりするが、かつて足利義輝政権にいた伊勢貞助や、後北条氏に仕えていた伊勢貞孝の父親・伊勢貞辰らしき人物まで足利義栄陣営にいたため、伊勢氏は全面的に足利義栄に仕えていたのだろう。
なお、政所執事を代行していた、摂津晴門は足利義昭に従い越前にいたため、足利義栄は摂津氏が担っていた儀式の先例を伊勢貞為・伊勢貞興兄弟に任せている。
ただし、足利義昭上洛によって、伊勢貞為・伊勢貞興兄弟もその幕下に与した。のだが、摂津晴門が1569年を最後に政所の文書が確認されておらず、1571年を最後に『言継卿記』からも姿を消す。一方で伊勢貞為・伊勢貞興兄弟は最初足利義昭に遠ざけられていた感もあるが、結局御供衆などに任じられ、本当にふんわりと世代交代が進んでいった。ちなみに、『言継卿記』が足利義昭上洛のとき7歳と書いているので年齢がわかる。
1571年に、少なくとも政所執事っぽい文書を出しているが、政所執事に着任したかどうかは全くの不明。なので、最後の政所執事は摂津晴門と書いても問題はない。
1573年、織田信長と足利義昭が対立すると、伊勢貞為は二条城に籠った後織田信長に降伏した。伊勢貞興に関しては全くの不明だが、大体同じような経緯で織田信長に与したのだろう。
『寛永諸家系図伝』によると、病弱だった兄・伊勢貞為の名代として活動しており、『寛政重修諸家譜』によると伊勢氏の家督を後に正式に譲られたとのことだが、1581年2月28日の馬揃えには伊勢貞為が出ており、家督交替は以後のことだとされる。
なお、1579年12月25日の『兼見卿記』には、明智光秀のそばにおり、幕臣は明智光秀に預けられていたことがわかる。『伊勢系図』によると明智光秀の娘婿だったらしいが、事実かは不明。
以後、ぶっちゃけ山崎の戦いで戦死したことが、『言経卿記』と『太閤記』でわかるだけである。
この後、実は兄・伊勢貞為が1609年まで生きていたので、彼や、一族の伊勢貞倍、伊勢貞知(『寛政重修諸家譜』にいる伊勢貞常か?)等が、伊勢氏の血をつないでいく。。
信長の野望に登場したことは無い。明智家の貴重な戦力になりそうなのに……。
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9 ななしのよっしん
2021/07/05(月) 21:03:00 ID: 0BCmxdSeMo
正直に申し上げると、西崎さんではなくXn5c1kEaWcさんの想いだけで話を進めているの、筋が通って無くないですか?
10 ななしのよっしん
2021/07/06(火) 00:15:59 ID: MtWkxQK++O
作成者と編集したい人間だけで話進めるんじゃなくて作成者含めた他の人間に諮ってから進めるのが筋でしょ
11 ななしのよっしん
2021/07/06(火) 16:32:44 ID: Xn5c1kEaWc
3ですが、皆様の仰る通りですね。
作成者で解決すべき話で外部が首を突っ込みすぎました。
過去の不安からちょっと暴走してしまいました。
大変失礼いたしました。
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最終更新:2025/01/07(火) 10:00
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