将軍家の近臣筆頭として代々政所頭人を務めあげた伊勢氏嫡流。ところが彼はそこから逸脱し始め、ついに滅亡に至った。
天文年間になると政所料所はほとんど他氏に委託することとなり、細川晴元政権が崩壊したことで、将軍家と三好長慶の対立が進んでいく。系図では伊勢貞忠の妹が細川尹賢に嫁いでいるように、細川氏と婚姻関係などで結びつき存続を図っていたことから、引き続き三好家とも結びつきを求めた。
その結果、伊勢貞孝は足利義晴・足利義輝の入京計画失敗に伴い、天文20年(1551年)に三好方に応じて京都に戻る。加えて三好長慶に足利義輝の御内書すら開示し、完全に三好長慶に与していたのだ、将軍側は代官職を取り上げる罰を与えたが、完全にこれは空証文となっていた。
伊勢貞孝は先祖が抵抗した丹波桐野河内村を松永長頼と折半するほど平身低頭をし、永禄元年(1558年)には三好軍と将軍山の攻防に加わる。完全に三好長慶の下位にあるビジネスパートナーと化していたわけだが、六角義賢の介入で、ついに足利義輝との和睦に至る。足利義輝時代はあまりにも史料が少なく、伊勢貞孝が罰を受けずそのまま留め置かれた仔細も不明である。
ところが、足利義輝は三好長慶、松永久秀ら三好家のトップを相伴衆や御供衆に組み込み幕府秩序に位置付ける。三好長慶は困惑したが、完全にこれが功を奏し、相伴衆としての奉仕や、松永久秀や十河一存が将軍近臣として独自の立場になっていくなど、両政権の融合が進んでいった。これで梯子を外され、微妙な立場になっていたのが伊勢貞孝である。
永禄5年(1562年)、本当に突然伊勢貞孝が北山で反乱を起こす。畠山高政・六角義賢の連合軍を何とか押し返した矢先のことであるが、幕府分裂構想の一環かどうかはまだ確定できていない。とはいえ松永久秀らに1か月で攻略され、伊勢貞孝・伊勢貞良父子はあっけなく討ち取られた。政所料所は完全に取り上げられており、実はそれ以前に失脚していたため、足利義輝の命を受けたというよりも、自発的な反乱だったといわれている。
というわけで伊勢氏は没落し、政所頭人には摂津晴門が任じられた。以後、伊勢氏は足利義栄政権を経て、ふんわり足利義昭政権で復帰するが、最終的には明智光秀の与力となり、他の旧幕府の残党とまとめて山崎の戦で滅ぶこととなった。
信長の野望には出たことなどない。
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最終更新:2025/01/05(日) 14:00
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