政所伊勢氏の内、伊勢加賀守家の存在で、『伊勢貞助記』の記主。伊勢氏の中では三好政権の外部顧問のような立場にあった。
伊勢加賀守家の人物で、『御作事日記』の大永5年(1525年)1月4日条、『鹿苑日録』明応8年(1499年)11月11日条などから、少なくとも兄・伊勢貞充が存在すると思われる。息子に伊勢貞知、と名前不明の男児(『言継卿記』永禄10年(1567年)11月26日条より)、木下聡はソースを特に挙げていないが娘に大坂興正寺証秀の妻がいる。
伊勢貞助の前後に様々な人物がいて系譜が錯綜しているが、山家浩樹を受けた木下聡の説が参照される。つまり、伊勢貞助は伊勢貞遠の息子で、因幡守家に養子入りした伊勢貞知の父、かつ与一入道牧雲斎貞堯、入道常真、はすべてこの伊勢貞助とするのである。
時系列としては、伊勢貞堯→牧雲斎常真→伊勢貞助の順番で、一度出家した後還俗したということである。これを年次比定すると、伊勢貞助は、天文8年(1539年)までに出家しており、天文22年(1553年)までに加賀守に任官して、弘治2~3年(1556年~1557年)までに還俗したようだ。
なお、こうしたことから、伊勢貞助の兄・伊勢貞充は享禄以前に亡くなっており、その結果として伊勢貞助が家督を継いだ、ということらしい。
この伊勢貞助の著作と現実の政治史から、様々なことがわかる。まず、伊勢貞助が加賀守になったのは、三好長慶と天文19年~21年(1550年~1552年)頃に関係を持ったから、と想定できる。この時期は将軍不在で、故実に詳しい存在が、三好政権に必要だったのである。なお、伊勢貞孝がいる時期に自勢力に引き込む必然性が薄いため、おそらく天文19年頃と考えられる。
ここで、伊勢貞助が具体的にどうかかわったのかというと、足利義輝に進上する物品の目録作成、他家に書状を出す場合の書札礼の指南、幕府・公家関係者への使者、さらに上位存在である細川氏綱にも故実の教授、といったことである。
とはいえ、伊勢貞助は、三好長慶の家臣ではなく、将軍直臣である。現に三好氏つけるのは「殿」であって、「様」ではない。こういったことから、永禄の変では本来伊勢貞助が三好義継から当てにされていたのだが、彼は足利義輝をしり目に幕府の重宝である唐櫃を御所から運び出す業務に向かってしまった。結果として足利義輝が死んだというのが、木下昌規の唱える説である。
かくして、伊勢貞助は、以後足利義栄に仕え、その将軍宣下に尽力している。ただし、結果として足利義昭からは冷遇され、以後は天正3年(1575年)に少なくともまだ生存していた、ということしかわからない。なお、息子で因幡守家を継いだ伊勢貞知は、足利義昭から同じように冷遇されて近衛前久の家臣となり、島津氏等に故実を教えたりしている。
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最終更新:2025/01/08(水) 15:00
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