加藤司書とは幕末の武士であり、筑前勤王党の主要人物の一人である。
文政13年(1830年)、筑前福岡藩代々の重臣・加藤家に生まれる。幼名三太郎。諱は徳成(のりしげ)。号は司書。
11歳で加藤家2800石を継ぎ、中老に就任。嘉永6年(1853年)、ロシア艦隊が長崎に来航した際、藩兵500人を引き連れて長崎を警護し、折衝役の川路聖謨を助ける。
元治元年(1864年)、幕府による第一次長州征伐が起こると、藩主・黒田長溥の命を受け、西郷隆盛と共同で長州征伐の中止を画策し、これに成功する。その後三条実美ら五卿が太宰府に動座するとその保護に努める。
薩摩と長州の和解についても周旋しており、高杉晋作が筑前に亡命した折には薩摩との和解を提案するなどしたが、慶応元年(1865年)、幕府からの圧力や藩内の佐幕派の巻き返しが起きて勤王派の立場が悪くなる。また、五卿を薩摩に移して挙兵する計画と、これを藩主が受け入れない場合幽閉するという計画が露見し、10月25日に謀反の疑いをかけられて切腹。享年36。この事件は「乙丑の獄」と呼ばれている。
この乙丑の獄で加藤や月形洗蔵ら有志が大量に処刑・処罰されたため筑前勤王党は壊滅し、福岡藩は何ら成すところ無く維新を迎えることになる。
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最終更新:2025/12/08(月) 11:00
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