黒田長溥とは江戸時代後期の大名、明治時代の華族である。第十一代福岡藩主。
文化8年(1811年)、薩摩藩主・島津重豪の側室の子として生まれる。幼名桃次郎。
文政5年(1822年)、福岡藩第十代藩主・黒田斉清の養子に迎えられ、名を長溥と改める。重豪、斉清ともに蘭学に深く傾倒しており、長溥もその影響を強く受ける。
天保5年(1834年)、筑前藩の家督を相続。蘭学を推奨し、長崎に藩士を留学させ、博多に鉄やガラスの精錬所を建設するなど西洋の医学や技術の導入を図り、蘭癖大名として知られた。嘉永6年(1853年)の黒船来航に際しては当時としては数少ない開国論を展開した。開明的である一方あくまで佐幕的な立場を崩さず公武合体論を支持したが、藩士の中から月形洗蔵ら尊王攘夷を主張する者が現れるとこれを弾圧した。(辛酉の獄)
文久3年(1863年)、公武周旋の功績が認められ朝廷から天盃を賜ると恩赦として月形ら逮捕者を解放。元治元年(1864年)の第一次長州征伐では長州討伐に反対し、月形、加藤司書、早川勇ら藩内尊王派を用いて解決を試みる。月形ら筑前勤王党の周旋もあり長州征伐は沙汰止みとなった。藩内では勤王党の勢力が俄に拡大し、佐幕派との衝突が激しくなった。佐幕の立場を取る長溥に対しても尊王派の要求が強くなり、耐えかねた長溥は筑前勤王党の弾圧に着手し始めた。更にその後筑前勤王党によるクーデター計画が露見したため、月形、加藤ら関係者を一斉に処刑し、勤王党を壊滅に追い込んだ。(乙丑の獄)
佐幕論で統一された福岡藩は王政復古の政変以後の政局に対処できず、乙丑の獄の責任者として今度は佐幕派の重臣達を処刑するという二重の愚行を犯し、人材の枯渇を招く。
明治2年(1869年)2月、養子の黒田長知に家督を譲り隠居し、名を長溥に戻した。その後福岡藩は財政難のため贋金作りに手を出すが政府に露見し、明治4年(1871年)に長知は知藩事を解任され、後任には皇族の熾仁親王が就任。間もなく廃藩置県により福岡藩は廃された。
隠居後の長溥は元藩士を海外に留学させたり、私財を投じて藩校修猷館(現在の福岡県立修猷館高等学校)を復興させるなど教育支援活動に取り組んだ。
開明的な大名でありながら多数の有為な人材を死に追いやったことから土佐藩の山内容堂との類似性を指摘され、その手腕についても評価の分かれる人物である。
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最終更新:2025/12/06(土) 08:00
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