北海道日本ハムファイターズ 単語


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ホッカイドウニッポンハムファイターズ

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北海道日本ハムファイターズとは、日本プロ野球パシフィック・リーグの球団である。
現在監督新庄剛志2022年~)。

本拠地は札幌ドーム2004年2022年)だったが、2023年より自前で新設した球場であるエスコンフィールドHOKKAIDOが本拠地となる。 他にもスタルヒン球場など北海道内の球場2003年までの本拠地であった東京ドームでも試合を行う。

概要

パシフィック・リーグ
北海道日本ハムファイターズ
基本情報
創設 1946年
本拠地 エスコンフィールドHOKKAIDO
一般略称 日本ハム
アルファベッ F
優勝回数
リーグ優 7回
日本一 3回
アジアチャンピオン 1回
セ・パ交流 1回
経歴
球団組織
運営 日本ハム
オーナー 井川伸久
(代行:村勝)
球団社長
最高責任 栗山英樹
GM 木田優夫(代行)
プロ野球球団テンプレート

1946年に再開されたプロ野球に新規加盟したセネタース(東京ネタースの直系ではないが、関係者が設立に関わっている)をルーツとする。後に大スターとなる大下弘も球団設立と共に入団した。しかし財政難のためわずか一年で東京急行電鉄に身売りとなる。

1947年より東急フライヤーズと球団名を改めるが、翌年は大映との共同経営となったため急映フライヤーズに改称する。ところが大映が他球団を買収して撤退したため、わずか一年で元の東急フライヤーズに戻った。

2リーグ分立(1950年)ではパ・リーグに加盟。1953年9月には専用球場である駒沢野球場を開場し、翌1954年よりグループ企業東映が球団を運営する東映フライヤーズとなった。

チームは設立以降低迷を続けたが、1960年三原脩監督率いる大洋ホエールズに敗れて読売ジャイアンツ監督を辞任した水原茂監督に招聘する。1961年から7年間Aクラスを維持し続け、1962年には球団初の日本一にもいた。しかし水原1967年を最後に退任し、1968年より大下弘監督に就任するとチーム一気に低迷を始める。

1970年には黒い霧事件安敏明投手を失い、翌1971年8月17日オーナー大川博が急逝する。そして新たにオーナーとなった岡田茂は1973年1月に日拓ホームに球団を売却、こうして東映フライヤーズは消滅した。

日拓ホームフライヤーズはわずか1年で日本ハムに身売りし、1974年より日本ハムファイターズとして新たな出となった。「駒沢の暴れん坊」「東映やくざ打線」と呼ばれた東映チームカラーを払拭する必要性を痛感した球団社長三原脩は、力選手の一掃に乗り出す。初年度終了後に大杉勝男白仁天大下剛史放出し、残った張本勲も2年終了後に巨人とのトレードで退団した。

1976年から監督に就任した大沢啓二の下で、チームは徐々に地力を付けていく。1978年には野村克也解任の煽り柏原純一南海ホークスから移籍し、二年島田誠の急成長やボビー・ミッチェル本塁打王獲得などもあって球団創立以来初のAクラス(前期3位・後期4位、総合3位)となった(ただし、勝率は五割を大きく割り込む)。

2004年から北海道日本ハムファイターズとなり、北海道に移転。本拠地は札幌ドームとなった。

東京時代まではパ・リーグ内でも不人気球団だったが(「日本ハムロッテ」が席が多いことの例えとしてネタにされるほどだった)、北海道移転後はSHINJOダルビッシュ有中田翔多田野数人斎藤佑樹ら注度の高い選手の入団や森本稀哲糸井嘉男などネタ性の高い選手の台頭、 2006・2007年リーグ連覇などで地域密着に成功。知名度および観客動員数の両面で球界屈人気球団にまで成長した。近年は試合均観客動員数では読売ジャイアンツ阪神タイガース福岡ソフトバンクホークス中日ドラゴンズに次ぐ12球団中5位、パ・リーグ2位につけている。成績的にも札幌移転13年でAクラス10回、うち優勝5回と勝てるチームへ変貌を遂げた。

球団の特徴としては上記のように個性的な選手が多く、横浜ベイスターズには及ばないが、パリーグの「ネタ選手」輩出球団である。また球団マスコットエロズリーの存在もネタ球団としての評価を煽る要因ともなっている。一方、力選手の大半が入団から数年で台頭してきた選手であり、飛び抜けた実績を持つ選手は多くないため、一部のネタ選手以外は今ひとつ地味イメージもつきまとっている。

2022年からは新庄剛志監督ビッグボスに就任し、2023年からは本拠地がエスコンフィールドHOKKAIDOとなった。

戦力面

1990年代2000年代前半はビッグバン打線と呼ばれる強力な打撃を売りにしており、地味ながら3回も2位に食い込んで優勝争いをする一方、投手に不安を抱えBクラスに転落することも多く強いのか弱いのかよくわからない球団だった。

北海道移転後は広いた札幌ドームを本拠地とするためか従来の持ち味であった長打力に頼る野球を捨て、投手力と守備力、機動力で1点を守り抜く戦い方に路線変更しリーグ連覇する強にまで成長。2000年代前半と本塁打数は減したが、ダルビッシュ有武田勝武田久らを中心とする投手金子誠田中賢介小谷野栄一森本稀哲SHINJO稲葉篤紀鉄壁の守備を擁し、数年でチームカラーの刷新に成功した。
この反面、SHINJO田中幸雄小笠原道大フェルナンド・セギノールらスラッガーの相次ぐ退団で深刻な投高打低に悩まされ、投手や守備に負担が掛かっていた。

しかし、近鉄いてまえ打線リーグ制覇した梨田昌孝監督に就任した2008年は、優勝を逃すも懸案だった貧打が解消に向かい、2009年は勝負強いアベレージヒッターの並ぶ打線に成長。2006年から推し進めた機動力を生かす堅実野球と上手く噛み合い、パ・リーグ随一の攻撃力を誇るまでに至った。
現在本塁打こそ少ないものの貧打のイメージは既になく、一発こそいが得点力の高いチームとなっている。

フロントは1億円をかけて開発したという独自の選手評価システム活用し、選手のコストパフォーマンスを重視した編成をしている。監督にさえ編成に関する権限は一切なく、全にチーム編成はフロント導であり、稲葉篤紀以外は全員がトレード補」と言い切る底ぶりである。そのため、中堅どころの選手が微妙な立場になると高確率放出される。守護神だったマイケル中村を筆頭に、金村暁押本健彦工藤隆人稲田直人江尻慎太郎高橋信二など、少し前まで一軍で活躍していた選手があっさりトレードに出されることが多い。2012年オフには力中の力である糸井嘉男をトレードで放出して各方面に衝撃を与えた。また前述のマイケルフェルナンド・セギノールターメル・スレッジのように高年俸の外国人選手もコスパが悪いと判断すればなく手放す傾向にある。フロントが商売上手と取るか、ドライと取るか。ただ、トレードで獲ってきた選手が活躍する例は多くないのでトレード上手とは言い難い。

トレードの相手は何故か読売ジャイアンツが非常に多く、FA選手も含めて2011年の一時期には巨人元日ハムの選手が9人もいた(MICHEAL藤井秀悟須永高橋信二實松一成小笠原道大古城茂幸紺田敏正工藤隆人)。前述の通り選手を動かすことに積極的であるため、他にも他球団で力になっている元日ハムの選手は多い。

過去スキャンダルを起こした(二岡智宏林昌範ダルビッシュ有多田野数人など)ことがあったり、社会性や人間性に難(中田翔小谷野栄一八木智哉糸井嘉男など)があるという評判の選手もわりと積極的に獲得に行く傾向にある。単純に実績重視で獲得しているとも言えるが、問題を起こし球団のイメージダウンに繋がりかねないとの評価も有り、ファンの間でも賛否両論といった所もある。とはいえ日本ハム入団後に大きなスキャンダルを起こした選手はあまりおらず、やんちゃだった選手も気が付けばそれなりにしっかりした力になっており、矯正力は高いと言われることも(単に矯正できなかった選手はさっさと放出されているとも言える)。

ドラフトに関しては「その年の一番良い選手を取りに行く」という方針を取っている。この方針は底しており過去には「巨人以外の名は全て拒否する」と宣言していた菅野智之名権を獲得できたが宣言通り入団拒否)、「メジャー以外には行かない」と宣言していた大谷翔平(他球団は一切名せずに単独名に成功、栗山英樹監督の説得もあり入団)等を強制名し、物議を醸しだした事がある。この方針のためか、名が他球団と被る事も多い。

ちなみに2018年まで、12球団で育成選手を一度も保有したことがなかった。支配下登録選手数も上限の70人に少し余裕を持たせた65~67人程度にしているが、これは保有する選手数を絞ることで個別の出場機会を増やすためだったそうである。2019年からは初めて育成選手を保有する。

関係者

首脳陣

※就任、退団などでの異動は球団の正式発表があるまで編集しないでください。

一軍 二軍

所属選手

※トレード、自由契約などの異動については、NPB公示exitがあるまで編集しないでください。

支配下選手
投手 捕手 内野手 外野手
育成選手
投手 捕手 内野手 外野手
  • (111)田泰希

球団スタッフ

ベースボールアカデミー

OB・関係者(東急・急映・東映・日拓時代を含む)

あ行 か行

さ行 た行

な行 は行

  • --

ま行 や行

ら行 わ行

戦績

1980年代

詳細

1980年は、木田勇トミー・クルーズトニー・ソレイタという新戦力が躍動した。特に新人の木田は、最多勝最優秀防御率最高勝率投手三冠タイトルを独占し(さらに最多奪三振)、新人王の他にMVPも受賞した(新人選手としては初)。チーム成績は3年連続の総合3位(前期2位・後期2位)ながら、勝率に至っては上位2チームとわずか2厘差という接戦であった。

1981年は、エース高橋直樹放出してまで広島東洋カープから江夏豊を獲得する。前年の酷使から木田が精を欠くものの、ソレイタの二冠王(本塁打王打点王)にく活躍などもあり、阪急ブレーブスを振り切って初の後期優勝を果たした(前期4位)。プレーオフでは前期優勝ロッテオリオンズを下し、初の日本シリーズ出場を果たすも、読売ジャイアンツの前に2勝4敗で敗れ去った。MVPには、優勝請負人として大車輪の活躍をした江夏が選ばれた。

1982年も2年連続の後期優勝を果たすが(前期4位)、プレーオフでは前期優勝西武ライオンズ江夏攻略され敗れ去った。

1983年シーズンより、1シーズン制に戻る。前年20勝をあげた工藤幹夫が精を欠き、Aクラス(3位)は死守したものの西武ライオンズに大きく引き離された。シーズン終了をもって大沢が勇退し、植村義信監督に昇格した。

1984年は新監督の方針と選手が合わず、シーズン序盤にしてチームが崩壊する。植村6月に辞意を表明し、こうなったのは自分の責任としてシーズン途中より大沢監督に復帰した。しかし一度狂った歯車は元には戻らず、結局最下位を独走する事態となった。

1985年より、高田繁監督に招聘する。戦力がわず2年連続で5位に低迷するが、1987年は新人の西崎幸広の活躍などで上手く歯車が噛み合い、久々のAクラス(3位)を奪還した。翌1988年は貧打に苦しむものの、河野博文最優秀防御率、西崎が最多勝くなど投手が絶好調(防御率上位10人に4人が食い込んだ)で、勝率五割には届かなかったものの2年連続のAクラス(3位)となった。高田シーズン終了をもって退任した。

1989年シーズンより近藤貞雄監督となるが、3年連続でBクラスに低迷した。

1990年代

詳細

1992年は、球団OBの土橋正幸監督に招聘する。移籍の金石昭人が二桁勝利、新人の片岡篤史が三割近い打率リーグ10位)と二桁本塁打記録するなど戦力の底上げはしたものの、わずか1年で解任される。後任として、大沢監督に復帰することとなった。

1993年は、西武ライオンズに1ゲーム差にまで迫る2位チームを躍進させる。

1994年は投打ともに崩壊して最下位を独走。大沢ファン土下座して監督を辞した。

1995年より、上田利治監督に招聘する。ヤクルトスワローズ監督野村克也から「どうスタメンを組むんや(笑)。」とからかわれるようなチーム状態で初年度は4位に終わるが、翌1996年岩本勉の急成長などで投手が整備され、オリックスブルーウェーブとの熾な首位争いを繰り広げた。ところが、9月上田庭の問題を理由に突如辞任を表明する。ここからチームは急失速し、2位に終わった(上田オフに復帰)。

1997年読売ジャイアンツから落合博満を獲得して話題となるが、戦力の上積みには繋がらなかった。前年好投したエース西崎の故障もあって4位に低迷する。

1998年落合の衰えがさらに顕著となるが、新外国人選手のナイジェル・ウィルソンらで強力打線を構成し(募で「ビッグバン打線」と命名)、8月まで首位を独走した。しかし、後半戦から打撃が急失速し、結局西武ライオンズ逆転優勝を許した。

1999年は5位に低迷し、この年を以て上田監督を退任した。

2000年代(北海道移転前まで)

詳細

2000年より、球団OBの大島康徳監督に招聘する。2年シャーマン・オバンドーと怪から復帰したウィルソン爆発し、また新外国人選手のカルロス・ミラバル抑え投手として機して3位に浮上した。

2001年2002年は投打ともに上向かず、6位、5位に終わる。2002年限りで大島監督を退任した。

2003年より、球団史上初の外国人監督となるトレイ・ヒルマン監督に招聘するが、5位に終わる。この年を最後に東京から北海道に移転した。

2004年(北海道移転後)~2009年

詳細

2004年(66勝65敗2分、3位) 監督:トレイ・ヒルマン

北海道移転初年度。この年から新庄剛志が加入、1番もしくは2番センターとして活躍するとともに、それまで巨人ファンが圧倒的多数だった北海道に日本ハムファイターズを根付かせるための奮闘を始める。

本拠地が狭い東京ドームから広い札幌ドームに変わったが、フェルナンド・セギノール本塁打王を獲得したのをはじめ、高橋信二が26本塁打するなど、今とは違って野球チームカラーを残していた。投手では建山義紀最優秀中継ぎ投手、トレードで獲得した横山道哉よく燃えたが28セーブで最多セーブを獲得。

この年から導入されたプレーオフ出場を賭けて千葉ロッテマリーンズと熾な3位争いを繰り広げ、最終的にロッテと0.5ゲーム差で3位に滑り込んだ。そのためか、この頃から応援していた日本ハムファンは割とロッテファンと仲が良い。プレーオフでは第1ステージ西武ライオンズに敗れた。

そしてこの年のオフFA稲葉篤紀ドラフト会議ダルビッシュ有という、後の日本ハム看板となる2人の選手が入団してくる。まさに運命オフである。

2005年(62勝71敗3分、5位) 監督:トレイ・ヒルマン

開幕前、ダルビッシュ喫煙をスッパ抜かれ「ワルビッシュ」と揶揄される。そんな幕開けとなった2005年ダルビッシュはこの年は5勝5敗。またこの年から高田繁ゼネラルマネージャーに就任している。

この年は小笠原道大本塁打数増加の代わりに打率を大きく落とし、FAで獲得した稲葉もパッとせず、高橋は故障で不振にあえぐなど、打線が前年のような破壊力を発揮出来ず、チーム三振数が大幅に増加。交流戦で11連敗を喫するとそのままずるずると沈み、5位に終わった。

この年の不振が、日本ハム東京時代からのチームカラーだった「ビッグバン打線」を捨てる契機となった。

2006年(82勝54敗、優勝・日本一) 監督:トレイ・ヒルマン

SHINJO、開幕直後に突然引退宣言。2006年日本ハムはその衝撃から始まった。

前年の5位もあって、この年の日本ハム優勝補に挙げる者はほとんど居なかった。トップバッタ補だった新外国人マシアスの不振もあって、開幕直後は何かと試行錯誤が続く。

しかし、坪井智哉の故障でレフトに定着した森本稀哲と、交流戦から二塁レギュラーを獲得した田中賢介の1・2番コンビがハマり、「森本が出て、賢介が送り、小笠原セギノール稲葉クリーンナップで返す」という得点パターン確立。同時に森本SHINJO稲葉によって鉄壁の外野完成

投手ルーキー八木智哉シーズン途中で覚醒したダルビッシュ有の2人が柱となり、武田勝押本健彦、建山らが支え、開幕直前にトレードで獲得した岡島秀樹武田久とともにセットアッパーになり、守護神のMICHEALへ繋ぐ必勝リレーを形勢した。力任せのパワー野球から、堅守と投手力を武器に堅実な野球で1点を確実に奪って勝つ、スモール・ベースボールへのシフトチェンジを僅か1年で見事に果たす。

セ・パ交流戦の終わりから破の11連勝で一気に波に乗ると、西武福岡ソフトバンクホークスと史上稀に見る熾優勝争い(プレーオフのせいで実際は「レギュラーシーズン1位争い」なところが間抜けだったが)を繰り広げ、最終戦1位を確定。「札幌ドームを満員にする」というSHINJOの掲げた約を、移転3年で実現した。

プレーオフ前には金村暁が舌禍事件を起こす(「絶対に許さない。顔も見たくない」参照)ものの、プレーオフ第2ステージソフトバンクを破り日本シリーズ進出を決める。日本シリーズでは「中日ドラゴンズ優勢」の見方が圧倒的な中、本拠地札幌ドームで3連勝して4勝1敗で東映時代以来44年ぶりの日本一き、SHINJO引退を添えた。

かしこの年のオフ小笠原FA読売ジャイアンツへ、岡島ボストン・レッドソックスへ移籍する。

2007年(79勝60敗5分、優勝) 監督:トレイ・ヒルマン

前年日本一いたものの、小笠原という球界屈力打者に加え、チームの精神的支柱であるSHINJOセットアッパー岡島も失った日本ハムの戦力ダウンは著しいという評価が大勢を占める。ソフトバンクが大幅補強をしていたこともあって、ファンですら「今年は理」というのが大方の見方だった。

前年の金村の舌禍事件もあってか、開幕直後は「田中幸雄2000本安打を達成させる」ための選手起用がしばしば見られた。また力の抜けた打線は貧打にあえぎ、投手八木や押本、金村らがパッとせず、苦戦が続く。

しかし田中幸雄2000本安打を達成すると、その直後から交流戦最高記録となる14連勝を達成して初の交流戦優勝を果たし、チームは波に乗る。貧打は相変わらずだったが、稲葉が自己最高の成績を残すなど中軸打者として覚醒。また勝負強い小谷野栄一レギュラーに定着する。投手ダルビッシュ有覚醒を果たし堂々たるエースとなり、前年確立した「確実に1点を獲って守りきる」野球底し、千葉ロッテマリーンズとの優勝争いを制して、ほとんども予想していなかったリーグ二連覇を達成した。

CSでもロッテとの死闘を制し、2年連続の日本シリーズ進出。日本シリーズは再び中日との顔合わせとなったが、稲葉が不振に陥ったこともあって1勝4敗と前年のリベンジを果たされてしまった。

この年をもってトレイ・ヒルマン監督が退任。後任はまさかの梨田昌孝いてまえ打線を率いた元近鉄監督である。チームカラー180度違う日本ハムでどんな野球をするのかとファンの間では何とも言い難い不安が広がった。また高田GMも退任して東京ヤクルトスワローズ監督に。ついでとばかりに川島慶三押本健彦らを連れていき、代わりに藤井秀悟坂元弥太郎らを押しつけていった。他、セギノールが退団し長距離不足がますます深刻化する。

そしてドラフト会議においては、高校生ドラフト中田翔を引き当てる。さらに大学社会人ドラフトでは多田野数人を1巡名。色んな意味で一部を騒然とさせる。

2008年(73勝69敗2分、3位) 監督:梨田昌孝

田政権1年だが、メディアの注は専ら中田翔に集まり、ネット上の話題多田野数人に集中。当の中田は故障もあって一年を通して二軍暮らし、多田野数人も自トレ中の怪で出遅れる。

前年まで力に大きな怪人が出ることが少なかった反動か、この年は故障者が続出した。森本稀哲金子誠らが故障で不振に陥り、投手では前年手術した江尻慎太郎リハビリで欠き、武田勝練習の打球を受けて骨折する不運に見舞われる。他にも前年9勝のライアングリンがあわやシーズン20敗かというペースを積み上げ(最終的には7勝14敗)、トレードで獲得した藤井秀悟は全く援護に恵まれなかった(防御率3.25で3勝8敗)。さらに北京五輪中にはダルビッシュ稲葉という投打の柱を欠く。

しかし前半戦は多田野普通ローテを支え、武田久や建山、ロングリリーフで勝ち運を発揮した坂元弥太郎リリーフも奮闘。采配が懸念された田新監督も基本的にヒルマン政権の堅実野球を継承した采配をしつつ、貧打の解消に向けて高橋信二の一塁コンバートなど模索を続ける。結局、チームは波には乗れなかったものの大きく低迷することもなく、ソフトバンクフルボッコ(17勝7敗)にした分と交流戦の貯金で、どうにかロッテと0.5ゲーム差の3位に滑り込んだ。

クライマックスシリーズでは第一ステージで経験の差を見せつけオリックス勝したが、第二ステージ西武に敗れた。

オフには契約で揉めることの多かった高年俸の守護神MICHEAL巨人放出し、不祥事もあって坂本勇人レギュラーから蹴落とされた二岡智宏を獲得した。

2009年(82勝60敗2分、優勝) 監督:梨田昌孝

5割打者・金子誠という、何の冗談かという確変で2009年ファイターズは幕を開けた。

開幕直後の苦戦が恒例行事になっている日本ハムだったが、この年は開幕から金子誠の大当たり。4月MVPを獲得する大活躍で開幕からチームを牽引すると、そのままシーズンを通して安定した戦いを続けた。

最大の強みはチームカラーと化していた貧打の解消。「1番賢介、2番森本」の2007年までとは逆の1・2番コンビが嵌り、中軸は大野奨太の加入で高橋信二が一塁に専念して4番に定着。下位打線では糸井嘉男が大きく成長してセンター定位置を獲得し、金子誠の確変が加わって勝負強いアベレージヒッターが並ぶ形になり、本塁打は少ないがどこからでも点が取れる破壊力抜群の打線に成長した。

投手も、ダルビッシュ武田勝以外の先発こそやや駒不足の感があったが、ベテランの建山に復活した江宮西尚生菊地和正の若手コンビ、トレードで二とともに獲得した林昌範らのリリーフがそれを補い、新守護神となった武田久シーズン敗でセーブ王いた。

8月には新型インフルエンザに見舞われ、9月には失速もあったがソフトバンクのお付き合いもあって事に逃げ切り優勝CSでは快進撃を続けていた東北楽天ゴールデンイーグルスを迎え撃ち、ターメル・スレッジ逆転満塁サヨナラ本塁打(いわゆる「福盛の21球」)で楽天を見事に撃墜。2年振りの日本シリーズ進出を果たした。日本シリーズでは巨人に2勝4敗で敗れた。

オフにはスレッジ放出。相変わらず金銭にシビアな一面を見せる。また藤井秀悟FA巨人に移籍した。

2010年代

詳細

2010年(74勝67敗3分、4位) 監督:梨田昌孝

4月28日オリックスに敗れ借金14。2010年ファイターズの幕開けは苦難に満ちていた。

退団したスレッジを埋める外国人野手の補強をせず、打線で挑むことになった2010年。それでもリーグ内では総合的な戦力においては一番安定感があると言われ、優勝補にも挙げられていた。

ところが、森本の故障離脱で2番打者不在のまま開幕を迎えると、開幕戦をダルビッシュで落とし、第2戦は昨年敗の守護神武田久が打たれて落とす。そして金子誠が戦線離脱すると、く間にチーム歯車は見るもなく狂った。鉄壁を誇った内野守備が崩壊し、武田久は絶不調で守護神の座を剥奪される。打線も中核を担う稲葉高橋の不調と繋ぎ役を担う森本金子の故障で、昨年の強みであった勝負強さと堅守、安定していたリリーフという要素を全て失ってはどうしようもなかった。みるみる借金は膨れあがり、GW前には首位と10ゲーム差以上離されぶっちぎりの最下位に低迷する。先の苦戦は恒例行事とはいえ、これほどの苦難になるとはも予想し得なかっただろう。

しかし、そのまま終わらないのが戦国パ・リーグ過去4年で3度制したファイターズの底力だった。パ・リーグが圧勝した交流戦から、徐々にチームは立ち直っていく。ダルビッシュが援護に恵まれない中、ボビー・ケッペル武田勝が順調に勝ちを積み重ね、野手では森本金子が復帰し、不調の高橋に代わって小谷野栄一が4番に定着すると、交流戦明けから破の快進撃でみるみる借金を減らし、7月にはついに14あった借金を済する。

だが、混戦のリーグの中で、そこから一気に抜け出すことはわなかった。一時は3位に薄したが、そこからは勝ったり負けたりを繰り返す展開で、3位の背中を追いかけながらのオリックスとの4位争いが続く。陽岱鋼が攻守に成長を見せ、8月には中田翔ホームランを量産するなど明るい材料も多くあったが、高橋や二金子誠などが相次いで戦列を離れるなど、CS圏内に手が届きそうで届かない戦いが続いた。

それでも勝率5割を維持し続け、終盤戦はロッテの失速でオリックス・バファローズと三つCS争いへもつれこむ。残り10試合を切っても優勝の可性さえ残っていた大混戦のシーズンは、結局貯金7の暫定3位で全日程を終える。CS進出はその時点で残り2試合ロッテの結果次第というところまでロッテを追いつめたが、ロッテが残り試合を全勝したため、0.5ゲーム差の4位となって、クライマックスシリーズ導入以来初めて進出を逃した。

チーム防御率断トツリーグ1位チーム打率リーグ2位ながら4位という結果が、序盤の低迷の深刻さと歯車の噛み合わなさを物語ったが、借金14からCS前まで迫り、優勝したソフトバンク2位西武に勝ち越すなど前年王者の意地と底力で上位を脅かしたシーズンだった。

オフにはドラフト会議斎藤佑樹を引き当て大きな話題を呼ぶ。一方、FA森本稀哲横浜ベイスターズへ、建山義紀テキサス・レンジャーズへ移籍。多田野数人坪井智哉が戦力外となったが、多田野はのちに再契約した。トレードでは紺田敏正須永放出してウィルフィン・オビスポを、山本一徳・高口行を放出して根本久を獲得。また新外国人としてマイカ・ホフパワーを獲得し打線は1年で終了した。

2011年(72勝65敗7分、2位) 監督:梨田昌孝

斎藤佑樹の一挙手一投足にメディアの大きな注が集まる中、キャンプ田中賢介骨折で戦線離脱。さらにオープン戦小谷野栄一死球を受け骨折、不動の1番と4番が開幕絶望という非常事態に陥る。が、東日本大震災で開幕が延期となった結果、賢介、小谷野ともにどうにか開幕に間に合うことになった(その代わりに鶴岡慎也が自打球で顔面を陥骨折し出遅れる)。

統一球の導入と改造で、「今年はついに防御率0点台か」とも噂されたエースダルビッシュ有が、開幕戦で西武打線にまさかの7失点。2試合でもブライアン・ウルフフルボッコにされ、開幕カード2試合で20失点という幕開けとなった2011年。しかしその後すぐに5連勝し、チームは快調に滑り出す。

打線森本の抜けた2番に陽岱鋼が定着、4番の小谷野栄一が不振に陥り5月に故障で離脱するが、中田翔が大きな成長を見せ、入れ替わりで4番に座ることに。投手も、ダルビッシュは開幕戦の7失点ハンデだったと言わんばかりにその後は無双状態に突入、ウルフボビー・ケッペルの助っ人コンビも快調にを積み重ねる。リリーフも建山の抜けたセットアッパー増井浩俊が定着し、前年不調に苦しんだ武田久復活武田勝5試合連続完封負け(NPB記録という歴史ムエンゴに見舞われたりもしたが、チームは順調に貯金を増やしていく。

交流戦前にソフトバンクに首位を奪われるものの、交流戦でも貯金8を積み上げてソフトバンクに追いすがり、6月には全にソフトバンクとの一騎打ち体勢に入った。6月半ば、田中賢介が足の骨折でほぼシーズン絶望となるというアクシデントに見舞われるものの、すかさずボビー・スケールズを獲得してそのを埋め、前半戦はソフトバンクと同率首位で折り返した。

ソフトバンクとの直接対決を多く残していた後半戦、チームダルビッシュソフトバンクキラー武田勝ソフトバンク戦に優先的にぶつける起用法で奪首を論むが、後半戦最初の直接対決3連戦で、ダルビッシュ武田勝を立てたにもかかわらず3連敗。以降、3ゲーム差前後で首位に追いすがる展開になる。

崩壊は8月の終わりだった。突然監督の退任報道に、チーム歯車が狂い出す。打線が機不全に陥り、投手も踏んりきれず、接戦を落とす試合が続く。ソフトバンク背中が遠くなり始めると、チーム全にモチベーションを見失い、9月15日監督が正式に退任を表明すると、悪夢のような連敗街道に突入した。下からはオリックス西武が猛な追い上げを開始、10ゲーム以上も引き離していた3位グループとの差があっという間に詰まり、気が付けばソフトバンク背中彼方、あわや4位転落の可性が見えるところまで追い詰められる。最終的にどうにか土俵際で踏ん2位は確保したものの、優勝したソフトバンクには最終的に17.5ゲーム差も離され、8月には最大26あった貯金を7まですり減らすという苦しみの幕切れとなった。

クライマックスシリーズでも、シーズン終盤の勢いのままに3位西武リリーフが粉砕されあっさりと2連敗し万事休す。2007年トレイ・ヒルマン監督の退任決定で日本一を逃した負の歴史を繰り返す格好になってしまった。

オフ野球解説者栗山英樹が新監督に就任。ダルビッシュ有ポスティングを行使しテキサス・レンジャーズへ移籍。スケールズが退団、林昌範菊地和正が戦力外に。ターメル・スレッジ紺田敏正の出戻り組を獲得した。

ドラフト会議では巨人の単独名とされていた菅野智之を強攻名して交渉権を獲得。さらに5位では直前の都市対抗野球完全試合を達成した森内壽春、7位ではソフトボール選手の大嶋匠名し話題を独占したが、結局菅野には入団拒否された。

2012年(74勝59敗11分、優勝) 監督:栗山英樹

絶対的エースダルビッシュ有が抜け、新監督導者経験ゼロ栗山英樹ということもあって、開幕前の前評判は低く、Bクラス予想が大半だった。そんな中、栗山監督オープン戦からあまり結果の出ていなかった斎藤佑樹開幕投手に抜する。人気優先の起用との批判の中、斎藤西武との開幕戦を1失点完投勝利。見事に起用に応え、チームは順調に滑り出した。

打線は4番の中田翔が開幕から大不振に陥ったが、開幕2番に起用された稲葉篤紀が絶好調で打ちまくり々に2000本安打を達成、チームを牽引。鶴岡慎也は打撃好調で大野奨太を押しのけて正捕手の地位を確保した。投手ボビー・ケッペル榊原諒石井裕也らが長期離脱、武田久が例によっての隔年での不調に戦線離脱もあったりしたが、吉川光夫がついに覚醒してエース級のピッチングを見せ、斎藤武田勝ブライアン・ウルフと安定したローテーションを形成。リリーフ宮西尚生増井浩俊ルーキー森内壽春らが支え、チーム千葉ロッテマリーンズとの首位争いを繰り広げた。

交流戦以降はロッテが失速し、代わりに浮上してきた西武ソフトバンクとの優勝争いへ突入。斎藤調子を落として二軍落ち、8月には田中賢介が長期離脱、9月には糸井嘉男が戦線離脱するというアクシデントもあったが、3年中村勝8月からローテ入りして好成績を挙げ、多田野数人先発コンバートされた谷元圭介ローテのを埋める。リリーフでは増井浩俊が怒濤のペースで投げまくり、前年平野佳寿が打ち立てたパ・リーグホールド記録更新武田久も後半戦は復活した。野手では前半戦不振に喘ぎながらもずっと4番で起用され続けた中田が復調して4番らしい働きを見せ、また西川遥輝杉谷拳士らの若手が場以降台頭し、力の不在をカバーする働きを見せた。

混戦模様のパ・リーグの中では一、開幕直後以外一度も借金生活を経験しないという安定した戦いを続け、一時西武に首位を奪われたが9月半ばには首位奪還。そのまま逃げ切り、試合かった10月2日西武が敗れて3年ぶりの優勝を決めた。なお、最終的に2位西武、3位ソフトバンク、4位楽天の3チームに負け越して優勝という史上初の記録マークした(vs西武-2、vsソフトバンク-4、vs楽天-2、vsロッテ+11、vsオリックス+6、交流戦+6で貯金15。なお、交流戦を除いても首位である)。

クライマックスシリーズ糸井嘉男の2試合連発などにより3連勝でソフトバンクを破り突破。巨人との日本シリーズは前回優勝した2009年と同じ顔合わせとなったが、第1戦と第5戦に先発した吉川フルボッコにされるなどして2勝4敗で敗れた。

オフ田中賢介メジャー挑戦を表明しFA宣言し移籍。他、スレッジが退団、木田優夫らが戦力外となった。ドラフト会議ではメジャー挑戦を表明していた大谷翔平を強行名し、交渉の末入団にこぎ着けた。

2013年(64勝78敗2分、6位) 監督:栗山英樹

田中賢介メジャー移籍。さらに年明けにメジャー挑戦を巡って契約更改で揉めていた糸井嘉男八木智哉と共にオリックス・バファローズ放出木佐貫洋大引啓次赤田将吾の3人を獲得するという大トレードには、日本ハムファンのみに留まらず各方面に衝撃を与えた。レギュラーシーズンでは田中と糸井の抜けたが大きくくことになる。

新人大谷翔平二刀流が大いに注されたが、チーム5月に9連敗を喫して最下位に転落。

セ・パ交流戦では13勝10敗1分けと勝ち越したが、7月は8勝13敗と負け越し。8月14日には5位に浮上したが、そこから先へは浮上できず、9月下旬に再び最下位に転落。そのまま閉幕まで最下位となり、2001年以来12年ぶりの最下位となった。優勝の翌年に最下位は、パ・リーグでは1981年近鉄バファローズ以来2回

一方でミチェル・アブレイユが31本塁打本塁打王タイトル陽岱鋼が47盗塁盗塁王を獲得。日本ハムでの盗塁王は、前身球団を含めて史上初の快挙となった。

シーズン中にマイカ・ホフパワーボビー・ケッペルオフブライアン・ウルフが退団、鶴岡慎也FA宣言して福岡ソフトバンクホークスへ移籍。榊原諒二岡智宏などが戦力外となった。

2014年(73勝68敗3分、3位) 監督:栗山英樹

詳細はプロ野球2014を参照

2015年(79勝62敗2分、2位) 監督:栗山英樹

詳細はプロ野球2015を参照

2016年(87勝53敗3分、優勝・日本一) 監督:栗山英樹

詳細はプロ野球2016を参照

2017年(60勝83敗0分、5位) 監督:栗山英樹

詳細はプロ野球2017を参照

2018年(74勝66敗3分、3位) 監督:栗山英樹

詳細はプロ野球2018を参照

2019年(65勝73敗5分、5位) 監督:栗山英樹

詳細はプロ野球2019を参照

2020年代

2020年(53勝62敗5分、5位) 監督:栗山英樹

詳細はプロ野球2020を参照

2021年(55勝68敗20分、5位) 監督:栗山英樹

詳細はプロ野球2021を参照

2022年(59勝81敗3分、6位) 監督:BIGBOSS

詳細はプロ野球2022を参照

2023年(60勝82敗1分、6位) 監督:新庄剛志

詳細はプロ野球2023を参照

2024年(75勝60敗8分、2位) 監督:新庄剛志

詳細はプロ野球2024を参照

年度別球団成績









ネタース
1946年 横沢三郎 5 105 47 58 0 .448
東急フライヤーズ
1947年 苅田久徳 6 119 51 65 3 .440
急映フライヤーズ
1948年 苅田久徳 5 140 59 70 11 .457
東急フライヤーズ
1949年 野川 7 138 64 73 1 .467
1950年 安藤 6 120 51 69 0 .425
1951年 6 108 38 56 8 .404
1952年 野川 6 108 49 59 0 .454
1953年 6 120 50 67 3 .427
東映フライヤーズ
1954年 野川 7 140 52 86 2 .377
1955年 保井浩一 7 143 51 89 3 .364
1956年 岩本義行 6 154 58 92 4 .390
1957年 5 132 56 73 3 .496
1958年 5 130 57 70 3 .450
1959年 3 135 67 63 5 .515
1960年 5 132 52 78 2 .400
1961年 水原茂 2 140 83 52 5 .611
1962年 1 133 78 52 3 .600
1963年 3 150 76 71 3 .517
1964年 3 150 78 68 4 .534
1965年 2 140 76 61 3 .555
1966年 3 136 70 60 6 .538
1967年 3 134 65 65 4 .500
1968年 大下弘 6 135 51 79 5 .392
1969年 松木謙治郎 4 130 57 70 3 .449
1970年 松木謙治郎
田宮謙次郎
5 130 54 70 6 .435
1971年 田宮謙次郎 5 130 44 74 12 .373
1972年 4 130 63 61 6 .508
日拓ホームフライヤーズ
1973年 田宮謙次郎
土橋正幸
5 130 60 64 6 .484
日本ハムファイターズ
1974年 中西太 6 130 49 75 6 .395
1975年 6 130 55 63 12 .466
1976年 大沢啓二 5 130 52 67 11 .437
1977年 5 130 58 61 11 .487
1978年 3 130 55 63 12 .466
1979年 3 130 63 60 7 .512
1980年 3 130 66 53 11 .555
1981年 1 130 68 54 8 .557
1982年 2 130 67 52 11 .563
1983年 3 130 64 59 7 .520
1984年 植村義信
大沢啓二
6 130 44 73 13 .376
1985年 高田繁 5 130 53 65 12 .449
1986年 5 130 57 65 8 .467
1987年 3 130 63 60 7 .512
1988年 3 130 62 65 3 .488
1989年 近藤貞雄 5 130 54 73 3 .425
1990年 4 130 66 63 1 .512
1991年 4 130 53 72 5 .424
1992年 土橋正幸 5 130 54 73 3 .425
1993年 大沢啓二 2 130 71 52 7 .577
1994年 6 130 46 79 5 .368
1995年 上田利治 4 130 59 68 3 .465
1996年 2 130 68 58 4 .540
1997年 4 135 63 71 1 .470
1998年 2 135 67 65 3 .508
1999年 5 135 60 73 2 .451
2000年 大島康徳 3 135 69 65 1 .515
2001年 6 140 53 84 3 .387
2002年 5 140 61 76 3 .445
2003年 ヒルマン 5 140 62 74 4 .456
北海道日本ハムファイターズ
2004年 ヒルマン 3 133 66 65 2 .504
2005年 5 146 62 71 3 .466
2006年 1 146 82 54 0 .603
2007年 1 144 79 60 5 .568
2008年 梨田昌孝 3 144 73 69 2 .514
2009年 1 144 82 60 2 .577
2010年 4 144 74 67 3 .525
2011年 2 144 72 65 7 .526
2012年 栗山英樹 1 144 74 59 11 .556
2013年 6 144 64 78 2 .451
2014年 5 144 73 68 3 .518
2015年 2 143 79 62 2 .560
2016年 1 143 87 53 3 .621
2017年 5 143 60 83 0 .420
2018年 5 143 74 66 3 .529
2019年 5 143 65 73 5 .471
2020年 5 120 53 62 5 .461
2021年 5 143 55 68 20 .447
2022年 BIGBOSS
新庄剛志
6 143 59 81 3 .421
2023年 6 143 60 82 1 .423
2024年 2 143 75 60 8 .556
通算:79年 4902 5307 391 .480

順位

シーズン最高成績(チーム)

シーズン最低成績(チーム)

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阪神タイガース 広島東洋カープ オリックス・バファローズ 福岡ソフトバンクホークス
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