坂本龍馬暗殺実行犯の一人とされる。自称「坂本龍馬を斬った男」。
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天保12年(1841年)、江戸湯島天神下にて、旗本今井安五郎の長男に生まれる。諱は為忠。幼名は信之丞。
嘉永3年(1850年)、10歳で幕府御中間に召される。
安政4年(1857年)、御用方書物調役に任じられる。
直心影流の榊原健一に剣を習い、万延元年(1860年)、20歳で免許皆伝。幕府講武所の取締になる。
文久3年(1863年)、神奈川奉行支配定番役取締に任じられる。他、二ノ丸火之番、岩鼻陣屋(代官所)剣術教授を歴任する。
慶応3年(1867年)、京都見廻組に編入され10月に京都に赴任。
11月15日、京都見廻組与頭・佐々木只三郎の招集を受け、醤油商の近江屋に赴き、坂本龍馬暗殺に関与。
慶応4年(1868年)1月、鳥羽伏見の戦いに敗れた後、船で江戸に逃亡。
その後古屋佐久左衛門と共に関東以北を転戦し、衝鋒隊と称して大鳥圭介と合流。更に榎本武揚の旧幕府艦隊に合流して蝦夷に流れる。
東京に護送後、坂本龍馬暗殺事件について尋問を受け、寺田屋事件における発砲殺傷を理由として、見廻組与頭・佐々木只三郎の指令により自分を含めた計7人が坂本を襲撃、殺害したと自供した。但し、殺害を実行したのは7人のうち渡辺吉太郎、高橋安次郎、桂早之助の3人で、自分は階下で見張りをしていただけで手を下してはいないと主張した。これにより明治3年(1870年)9月、禁固刑に処せられる。
明治5年(1872年)1月、箱館戦争の投降者達に恩赦が下り、今井も禁固刑を解かれた。その後静岡県に出仕。八丈島へ巡視に向かい、学校の校長を勤める。
明治11年(1878年)頃、静岡の牧之原に入植。村会議員、村長などを務め、明治42年(1909年)に隠居。
坂本龍馬暗殺事件に関し、明治3年の供述では自分は直接手を下していないと主張した今井だったが、事件から30年以上たった明治33年(1900年)、結城礼一郎という人物の求めに応じて事件についての聞き書きが行われ、『甲斐新聞』や雑誌『近畿評論』にてその内容が掲載された。その中で今井は「渡辺、桂、自分ともう一人で殺害した」と供述を翻す証言をした。これが元土佐藩士の谷干城に知られ、谷は売名行為と罵って反論した。
明治42年(1909年)2月、今井は『大坂時事通信』にて再度インタビューに答え、今度は「佐々木、自分、渡辺で実行した」と話した。
これらの矛盾点については、今井存命当時に生存していた実行犯を庇うために嘘の証言をしていたのではないかとされる。それを裏付けるかのようにインタビュー中「もう一人」というのが誰かと問われ、「まだ生きている人で、申し上げることは出来ない」と答えている。
これに関連し、大正4年(1915年)、渡辺篤なる人物が死去する直前に「自分が坂本龍馬を殺害した」と身内に語った事が『大坂朝日新聞』で報道された。この渡辺は今井が刺客の一人と言った渡辺吉太郎とは別人だが、慶応3年当時に京都見廻組に所属していたことが確認されている。この人物が「もう一人」ではないかとされているが真相は不明。
刺客の人数が明治3年の供述と比べ、後年の証言で減っていることについては、今井が刺客と名指しした人物は、鳥羽伏見の戦いで今井以外全員戦死していることから、自分と生き残りの刺客を守るため戦死者をダミーとして利用したのではないかといわれる。
なお今井家の口伝として、西郷隆盛が今井の助命嘆願をしたというものが巷間伝わるが、全く裏付けや証拠の無い伝聞推定に過ぎない。
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最終更新:2025/05/15(木) 01:00
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