アプリリアワークスとは、アプリリアがレース活動を行うためにメーカー直営で運営するチームである。
本稿では、MotoGPに参戦するアプリリアワークスについて記述する。
| # | 名前 | 国籍 | 出身地 | 身長・体重 | 誕生日 |
| 41 | アレイシ・エスパルガロ | グラノリェース | 180cm66kg | 1989年7月30日 | |
| 38 | ブラッドリー・スミス | オックスフォード | 180cm68kg | 1990年11月28日 |
| # | 名前 | 国籍 | 出身地 | 身長・体重 | 誕生日 |
| 29 | アンドレア・イアンノーネ | ヴァスト | 178cm74kg | 1989年8月9日 |
アプリリアワークスの予算・人事を決めてスポンサー対策をするスポーティングディレクター。
アプリリアワークスの技術者部門のリーダー。
名前のロマーノは「ローマ人」という意味。イタリア人にとってローマには特別な響きと魅力がある。
1963年頃、イタリアの工業都市トリノ近くのカッルで生まれた。1982年から1988年までトリノ工科大学に通い、航空工学を学んだ。
卒業して1989年から1994年まで、イタリアのバイクメーカーであるカジヴァに在籍し、MotoGP最大排気量クラス(500ccクラス)の事業に参加している。この頃のカジヴァは、1988年~1990年にランディ・マモラ、1991年と1992年にエディ・ローソン、1993年にジョン・コシンスキーを迎え、ホンダ・ヤマハ・スズキといった強豪に対して懸命に戦っていた。
1994年をもってカジヴァがMotoGP最大排気量クラスから撤退したので、それに合わせてロマーノ・アルベジアーノも転職し、AMGというドイツの四輪車チューニング(改造)を専門とする企業に入社した。同社は、メルセデス・ベンツと協力してDTMという四輪車のレースに参戦していた。ロマーノ・アルベジアーノは、AMGの空力部門に所属し、DTMに出場する四輪車の空力をひたすら研究開発した。
1997年にはMVアグスタというイタリアのバイクメーカーに転職し、その当時にMVアグスタの傘下に入っていたハスクヴァーナで研究開発をした。
2005年にはイタリアのバイクメーカーであるピアッジオ社に入社した。同社は、このときすでにアプリリアの親会社になっており、2020年現在もその地位を維持している。ピアッジオ社では、アプリリアのスポーツバイクRSV4のエンジンの開発に関わっている。ちなみにRSV4は、アプリリアがスーパーバイク世界選手権に参戦するときの車両である。ロマーノ・アルベジアーノがRSV4のエンジンを開発し、ジジ・ダッリーニャがレースの現場でRSV4の開発をして、RSV4に乗ったマックス・ビアッジが2度のスーパーバイク世界選手権チャンピオンを獲得している。
ジジ・ダッリーニャが2013年11月にドゥカティワークスに引き抜かれた後、後任として、アプリリアのレース部門の長の地位になった。
2013年11月から2018年までは、予算・人事を決めたりスポンサー対策をしたりと、そういう仕事に忙殺され、技術面の仕事に集中しきれなかった。
2019年になって、マッシモ・リヴォラがやってきてくれたので、やっと技術者として本来の仕事に集中できるようになった。
※この項の資料・・・ロマーノ・アルベジアーノのlinkedIn.comのページ、記事
アプリリアワークスのチーム監督。
125ccクラスのチャンピオンを2度獲得しており、現役引退後にグレッシーニレーシングを設立、ホンダのマシンを扱うホンダ系サテライトチームになった。
2014年シーズンをもってホンダとの提携を打ち切り、2015年からアプリリアとの提携を開始し、グレッシーニレーシングはアプリリアワークスの母体チームとなった。ファウスト・グレッシーニはそのままチーム監督を続けている。
1994年から2011年までアプリリアワークスに在籍し、マックス・ビアッジ、ホルヘ・ロレンソ、マルコ・シモンチェリといったライダーの250ccクラスチャンピオン獲得をクルーチーフとして支えた。
2020年現在は、イタルトランスで働いている。
1956年、イタリア・フィレンツェ生まれ。
1995年は、ヨーロッパ選手権125ccクラスに参戦するヴァレンティーノ・ロッシのクルーチーフを務めた。
1996年と1997年にヴァレンティーノ・ロッシはアプリリア系のチームでMotoGP125ccクラスに参戦し、1997年に125ccクラスチャンピオンを獲得したのだが、そのときのクルーチーフだった。
以上のように、ヴァレンティーノ・ロッシのキャリア黎明期を支えた人物である。ヴァレンティーノに対して乗り方を提案するところがあり、「乗り方に関して干渉されたくない。乗り方は、ライダーが考えるものだ」と信ずるヴァレンティーノにとって、マウロの提案はあまり喜ばしいものではなかった。とはいえ、とても優秀なメカニックであることに間違いなく、ヴァレンティーノはマウロを中心としたチームで楽しく充実した3年間を過ごすことができた。
1998年は250ccクラスでロリス・カピロッシのクルーチーフを務めた。この年は、ロリス・カピロッシと原田哲也とヴァレンティーノが同じアプリリアワークスの250ccチームに同居していてライバル意識が凄かったのだが、それぞれのクルーチーフ同士の競争心も熾烈だった。ロリス・カピロッシのマウロ・ノッチォーリ、原田哲也のジョヴァンニ・サンディ、ヴァレンティーノ・ロッシのロッサノ・ブラッツィがお互いを激しく罵り合う、という状況が発生していたという。まとめ役となるべきカルロ・ペルナットが1997年をもってアプリリアを退社していたので、クルーチーフ同士のいさかいを止める人物がいなかった。
2020年現在は、MotoGPのMoto2クラスでフォワードレーシングに在籍し、クルーチーフとしてMVアグスタの車両を整備している。
※この項の資料・・・記事1、記事2、ヴァレンティーノ・ロッシ自叙伝205~207ページ、318~320ページ
1950年頃生まれで、1998年~1999年にアプリリアワークスの250ccクラス部門に所属し、ヴァレンティーノ・ロッシのクルーチーフを務めた。
彼の尽力により、ヴァレンティーノ・ロッシは1999年に250ccクラスチャンピオンを獲得している。
リヴィオ・スッポの記事の『ヴァレンティーノ・ロッシとの不和』の項目に、ロッサノ・ブラッツィについての記述があるので、参照のこと。
1957年生まれのライダーで、1990年代はテストライダーとしてアプリリアの躍進を支えた。日本版Wikipedia記事がある。
イタリアGPにスポット参戦し、走り込んでいるムジェロサーキットを快走し、レギュラーライダーを上回る走りを見せることがたびたびあった。1995年イタリアGPは3位、1996年イタリアGPと1997年イタリアGPは2位、1998年イタリアGPはついに優勝している(記事)。
「テストライダーはレギュラーライダー並みに速いライダーが良い。レギュラーライダーよりも遅いテストライダーは、レギュラーライダーの悩みを理解できず、レギュラーライダーが満足するマシンを作れない」ということは原田哲也が語っていることであるが、その点で、マルチェリーノ・ルッキは完璧なライダーだった。
1998年のイタリアGPは、41歳のマルチェリーノ・ルッキがキャリア初優勝を飾るという、感動のシーンとなった。
ちなみにこのレースで、2位になったヴァレンティーノ・ロッシは、「海水浴に行く兄ちゃん」といったような格好で表彰式に臨んでいる(画像)。ライバルの原田哲也やロリス・カピロッシをきっちり負かしたので嬉しくなってそのパフォーマンスをしたのだが、翌日の新聞に「マルチェリーノ・ルッキの晴れ舞台の邪魔をして、けしからん」とたっぷり叱られてしまい、それでヴァレンティーノは「2位以下の場合は、パフォーマンスしない」と決意することになった(ヴァレンティーノ・ロッシ自叙伝144ページ)。
2019年3月のアプリリアファン感謝祭にもやってきていて、インタビュー動画が作られている。
1989年から2004年まで在籍し、技術部門のリーダーを務めていた。
1990年から1997年まで在籍し、人事やスポンサー対応を担当していた。
1992年1月から2013年10月までアプリリアワークスに在籍し、数々の名車を作り出してきた。
2013年11月からは、ドゥカティワークスに所属している。
アプリリアは根っからのレース大好き企業であり、常に何かしらのレースに向けて戦っている。特に1990年代に入ってからはその傾向が強くなり、MotoGPやスーパーバイク世界選手権での活躍が増えた。
経営の選択と集中が上手であり、得意分野に向けて経営資源を思いっきり注ぎ込む傾向がある。MotoGPの125ccクラスや250ccクラスがあったときはそれに資金と人員をつぎ込む。MotoGPの2ストローク時代が終わりそうになったら、スーパーバイク世界選手権に転戦して総力を尽くす。スーパーバイク世界選手権にて6年で3回優勝したら店じまいして、MotoGPの最大排気量クラスへ転戦する。
ホンダのような超巨大企業ではないので経営資源には限りがあるのだが、それを補うかのように賢く立ち回ってレースの世界をしっかり生き抜いている。
こうしたレース大好きの社風を作ったのは、創業者の息子でアプリリア2代目社長であるイヴァーノ・ベッジョである。1968年に自転車製造企業を引き継いだ彼は、1970年代になって小型オートバイを作り始め、1980年代にはモトクロス世界選手権に挑戦し、1990年代からMotoGP125ccや250ccクラスを席巻するようになった。
RS~という車名を付けることを恒例にしている。
| RS125R | 2スト125cc | プロトタイプ MotoGPに出走 |
| RSV250 | 2スト250cc | |
| RSW-2 500 | 2スト500cc | |
| RS3 CUBE | 4スト990cc | |
| RS-GP | 4スト1000cc | |
| RSV mille | 4スト998cc | 市販車 スーパーバイク世界選手権に出走 |
| RSV4 | 4スト999cc |
ピアッジオはイタリアのバイクメーカーで、ヨーロッパ最大のバイク企業グループの中心となっている企業である。
CEOはロベルト・コラニーノで、とても上手に企業買収をする人として知られる。2003年にピアッジオ社の株式を大量に取得して、CEOに就任した。ロベルト・コラニーノの風貌は、いかにもといった「やり手の投資家」といった感じのものである(画像)。
2004年からアプリリアはピアッジオ傘下になった。ピアッジオ総帥のロベルト・コラニーノが、アプリリアの社長を兼任している。
ロベルト・コラニーノは、モータースポーツに対してあまり興味を持っていないようで、MotoGPの観戦に訪れることがない(記事)。また、MotoGPについての予算も増やそうとしない。
2015年から2020年現在までMotoGP最大排気量クラスに参戦するアプリリアワークスというと、予算不足というものが一つの特徴である。2018年アラゴンGP予選で、宮城光さんが「アプリリアワークスは予算が少なくて金欠。スペアマシン用のカウルを用意できず、スペアマシンを走らせるときはメインマシンからカウルを外して取り付けるぐらい」と報じていた。アプリリアの首脳も、予算についての愚痴を盛んに話しているという(記事)。
アプリリア社長のイヴァーノ・ベッジョは、1989年にヤン・ウィットヴェーン、1990年にカルロ・ペルナット、1992年にジジ・ダッリーニャという人材を手に入れた。
その後のアプリリアは、MotoGPの250ccクラスや125ccクラスで猛威を振るい、250ccクラスで7人、125ccクラスで12人のチャンピオンを輩出した。まさしく2ストローク軽排気量エンジンレースの覇者だった。
2009年に250ccクラスが終了し、2011年には125ccクラスも終了してしまった。これにより2ストロークエンジンの時代が終わった。アプリリアはMoto2クラスやMoto3クラスには参戦せず、スーパーバイク世界選手権へ転身することにした。
| 250ccクラス | 125ccクラス | |
|---|---|---|
| 1990年 | マーチン・ウィマー 6位 | アレッサンドロ・グラミーニ 9位 |
| 1991年 | ロリス・レジアーニ 6位 | ガブリエーレ・デッビア 4位 |
| 1992年 | ロリス・レジアーニ 2位 | アレッサンドロ・グラミーニ 1位 |
| 1993年 | ロリス・レジアーニ 3位 | ラルフ・ウォルドマン 4位 |
| 1994年 | マックス・ビアッジ 1位 | 坂田和人 1位 |
| 1995年 | マックス・ビアッジ 1位 | 坂田和人 2位 |
| 1996年 | マックス・ビアッジ 1位 | 徳留真紀 2位 |
| 1997年 | 原田哲也 3位 | ヴァレンティーノ・ロッシ 1位 |
| 1998年 | ロリス・カピロッシ 1位 | 坂田和人 1位 |
| 1999年 | ヴァレンティーノ・ロッシ 1位 | ロベルト・ロカテリ 4位 |
| 2000年 | マルコ・メランドリ 5位 | ロベルト・ロカテリ 1位 |
| 2001年 | 原田哲也 2位 | マヌエル・ポジャーリ 1位 |
| 2002年 | マルコ・メランドリ 1位 | アルノー・ヴァンサン 1位 |
| 2003年 | マヌエル・ポジャーリ 1位 | アレックス・デ・アンジェリス 2位 |
| 2004年 | セバスチャン・ポルト 2位 | エクトル・バルベラ 2位 |
| 2005年 | ケーシー・ストーナー 2位 | マティア・パシーニ 4位 |
| 2006年 | ホルヘ・ロレンソ 1位 | アルヴァロ・バウティスタ 1位 |
| 2007年 | ホルヘ・ロレンソ 1位 | ガボール・タルマクシ 1位 |
| 2008年 | マルコ・シモンチェリ 1位 | マイク・ディ・メッリオ 1位 |
| 2009年 | エクトル・バルベラ 2位 | フリアン・シモン 1位 |
| 2010年 | マルク・マルケス 1位 | |
| 2011年 | ニコラス・テロル 1位 |
2001年のマニュエル・ポジャーリと2008年のマルコ・シモンチェリはジレラというメーカー名で参戦しているが、中身はアプリリアのマシンだった。
2008年のマイク・ディ・メッリオと2010年のマルク・マルケスはデルビというメーカー名で参戦しているが、中身はアプリリアのマシンだった。
スーパーバイク世界選手権の参戦歴は、第一期と第二期に分かれる。
第一期は1999年から2002年までの参戦で、使用したマシンはRSV mille(ミレ)だった。2003年からMotoGP最大排気量クラスに参戦することになったので、2002年をもってスーパーバイク世界選手権から撤退した。
| アプリリア勢最上位 | アプリリア勢2番手 | |
|---|---|---|
| 1999年 | ピーター・ゴダード 12位 | |
| 2000年 | トロイ・コーサー 3位 | アレッサンドロ・アントネッロ 15位 |
| 2001年 | トロイ・コーサー 4位 | レジス・ラコーニ 11位 |
| 2002年 | 芳賀紀行 4位 |
第二期は2009年からの参戦で、使用したマシンはRSV4だった。チームの総指揮はジジ・ダッリーニャがとった。
ワークス活動は2015年をもって終了しており、2016年からはプライベートチームへマシンを売却するだけにとどまっている。2015年からMotoGP最大排気量クラスへ参戦することになり、人員をそちらに回す必要が出た。
2019年は、どこのチームもアプリリアのマシンを使わなくなった。
| アプリリア勢最上位 | アプリリア勢2番手 | |
|---|---|---|
| 2009年 | マックス・ビアッジ 4位 | 中野真矢 14位 |
| 2010年 | マックス・ビアッジ 1位 | レオン・キャミア 12位 |
| 2011年 | マックス・ビアッジ 3位 | レオン・キャミア 7位 |
| 2012年 | マックス・ビアッジ 1位 | ユージン・ラヴァティ 6位 |
| 2013年 | ユージン・ラヴァティ 2位 | シルヴァン・ギュントーリ 3位 |
| 2014年 | シルヴァン・ギュントーリ 1位 | マルコ・メランドリ 4位 |
| 2015年 | レオン・ハスラム 4位 | ジョルディ・トーレス 5位 |
| 2016年 | ロレンツォ・サヴァドーリ 10位 | アレックス・デ・アンジェリス 13位 |
| 2017年 | ユージン・ラヴァティ 10位 | ロレンツォ・サヴァドーリ 11位 |
| 2018年 | ユージン・ラヴァティ 8位 | ロレンツォ・サヴァドーリ 10位 |
アプリリアがMotoGP最大排気量クラスに初めて参戦したのは、1994年である。ロリス・レジアーニが、MotoGP250クラスで活躍するRSV250のマシンを改造して参戦した。RSV250のエンジンはV型2気筒2ストで250ccだったが、それをV型2気筒2ストで380ccのエンジンに改造したのである。
| アプリリア勢最上位 | アプリリア勢2番手 | |
|---|---|---|
| 1994年 | ロリス・レジアーニ 24位 | |
| 1995年 | ロリス・レジアーニ 10位 | |
| 1996年 | ドリアーノ・ロンボニ 19位 | |
| 1997年 | ドリアーノ・ロンボニ 10位 |
第二期は1999年からの参戦で、1999年から2001年はV型2気筒2ストで500ccのエンジンだった。またしても2気筒(ツイン)で、この気筒数のエンジンは、マシンの軽さが最大の持ち味である。4気筒エンジンよりも2気筒エンジンの方が20kg程度軽い。1994年から2000年までのマシンをまとめてRSW-2 500という。
1999年イタリアGPの予選で原田哲也がスリップストリームを上手く使い、ポールポジションを獲得している。また、1999年は原田哲也が3位表彰台を2回獲得し、2000年はジェレミー・マクウィリアムスが3位表彰台を2回獲得している。このように時々速かったが、やはりエンジンパワーの非力さが目立ち、あまり勝負にならなかった。
| アプリリア勢最上位 | アプリリア勢2番手 | |
|---|---|---|
| 1999年 | 原田哲也 10位 | |
| 2000年 | ジェレミー・マクウィリアムス 14位 | 原田哲也 16位 |
第三期は2002年から参戦した。2002年は、最大排気量クラスに4スト990ccマシンの参戦が許さるようになった画期的な年である。
4気筒エンジンが主流だったが、アプリリアの採用したエンジンは3気筒(トリプル)だった。
マシンはRS3 CUBE(キューブ)である。CUBEという言葉には3乗という意味があり、3気筒エンジンであることを示している。
F1からの技術をふんだんに導入したマシンだったが、完成度が低くて乗りにくかった。2003年はジジ・ダッリーニャが関わったが、彼の手をもってしてもキューブの完成度を高めることができなかった。
2004年8月になってアプリリアがピアッジオ社に買収されることになり、お金がかかる最大排気量クラスへの挑戦事業も終了することになった。
| アプリリア勢最上位 | アプリリア勢2番手 | |
|---|---|---|
| 2002年 | レジス・ラコーニ 19位 | |
| 2003年 | コーリン・エドワーズ 13位 | 芳賀紀行 14位 |
| 2004年 | ジェレミー・マクウィリアムス 19位 | シェーン・バーン 20位 |
2012年~2015年のアプリリアは、ART(Aprilia Racing Technology)という会社を立ち上げて、会社名と同じARTというマシンをプライベートチームに供給するという形式で、MotoGP最大排気量クラスに参戦していた。アプリリアが会社としてワークスチームを立ち上げて参戦したわけではない。
2012年から少額予算チームでも参戦できるようにCRT(Claiming Rule Team)マシンが出走可能となったので、それに乗っかる形でアプリリアはARTという会社をわざわざ設立した。CRTクラスにARTが参戦・・・イタリア人も駄洒落が好きなのである。
CRTは「市販車のエンジン&レース大好き企業の作るプロトタイプフレーム」という組み合わせが多く、エンジンメーカーとフレームメーカーが異なるケースが多かった。ところがARTはエンジンとフレームの両方をアプリリアが作った。エンジンは市販車のRSV4、フレームは倉庫から引っ張り出してきた200~2004年頃のRS3 CUBE。
ただ実際はフレームも市販車RSV4ではないか、と指摘されていた。そうなるとエンジンもフレームも全て市販車のマシンがMotoGPを走ることになり、スーパーバイク世界選手権の経営企業であるインフロントが「完全市販車のレースをするのはウチだけなのに、MotoGPが邪魔をしている。MotoGPを運営するドルナの所業はルール違反だ、訴訟する!」と猛抗議しかねない。ドゥカティCEOのクラウディオ・ドメニカーリに「まずいんじゃないんですか」と苦言を言われている(記事)。実際にはインフロントからの抗議はなく、無事にARTは出走できた。
走ってみるとARTのマシンは好成績を残した。名門プライベートチームのチームアスパーのアレイシ・エスパルガロとランディ・ドプニエがARTで快走、CRT部門のランキング1位・2位を占めた。ARTのチームアスパーへの支援は手厚く、アプリリアの隠れワークスと言われるほどだった。
2012年から2013年までARTを指揮していたのはジジ・ダッリーニャで、またしても神業のごとき手腕を発揮した彼は、2013年シーズン末にドゥカティワークスへ引き抜かれることになった。ジジ・ダッリーニャがドゥカティワークスに引き抜かれると知った途端にチームアスパーは態度を変え、ARTとの提携を終了させてホンダとの提携を開始している。ART側も活動を縮小させることになり、2014年はマシン供給先が1人だけになった。
2013年シーズンをもってCRTは終了し、2014年からはオープンクラスというものが導入された。このオープンクラスは、イタリアのマニエッティ・マレリが作る電子制御ソフトを全車が使うのだが、ARTのマシンとマニエッティ・マレリの電子制御ソフトの相性が悪かった。2012~2013年のARTは自社製の独自ソフトを使っており、電子制御ソフト変更に難渋した。2014年のダニロ・ペトルッチと2015年のアレックス・デ・アンジェリスは、どちらも低迷している。
| アプリリア勢最上位 | アプリリア勢2番手 | |
|---|---|---|
| 2012年 | アレイシ・エスパルガロ 12位 | ランディ・ド・プニエ 13位 |
| 2013年 | アレイシ・エスパルガロ 11位 | ランディ・ド・プニエ 15位 |
| 2014年 | ダニロ・ペトルッチ 20位 | |
| 2015年 | アレックス・デ・アンジェリス 28位 |
第四期は2015年からの参戦で、2020年現在も活動が続いている。
使用マシンはRS-GPという。MotoGP最大排気量クラスで主流とされるV型4気筒のマシンである。
2014年にスーパーバイク世界選手権でチャンピオンを獲ったアプリリアだが、2015年にレース規則が変わって2014年のチャンピオンマシンをそっくりそのまま走らせることができなくなってしまった。この規則変更をきっかけにして、当初の予定を1年早め、2015年からMotoGP最大排気量クラスに復帰した。
全く同時期にスズキワークスも最大排気量クラス復帰を果たしたのだが、両者の事情は違っていた。スズキは2012年から2014年までみっちりとテストをこなし目一杯開発を進めていたのに対し、アプリリアはドタバタのなか急遽参戦を決め、テストしていない車両でレースに参加することになった。ロマーノ・アルベジアーノも「2015年はレースを開発の場にする」と宣言しており、ライダー達は我慢のレースを行うことになった。
『ピアッジオの社風』の項目でも触れたように、予算不足となっている。ファーストライダーと同じバイクをセカンドライダーに用意することができない、という状況であると伝えられている(記事1、記事2、記事3)。また、セカンドライダーのバイクが1年通じて変わらなかったこともある(記事)。
| アプリリア勢最上位 | アプリリア勢2番手 | |
|---|---|---|
| 2015年 | アルヴァロ・バウティスタ 16位 | ステファン・ブラドル 18位 |
| 2016年 | アルヴァロ・バウティスタ 12位 | ステファン・ブラドル 16位 |
| 2017年 | アレイシ・エスパルガロ 15位 | サム・ローズ 25位 |
| 2018年 | アレイシ・エスパルガロ 17位 | スコット・レディング 21位 |
| 2019年 | アレイシ・エスパルガロ 14位 | アンドレア・イアンノーネ 16位 |
| 2020年 |
香港に拠点を持つ通信事業者PCCW Limitedが展開するIPTV放送。公式Twitterあり。
IPTV放送とは、インターネット回線を使ってテレビ番組を放送することと考えておけば良い。
アプリリアの親会社。日本語Wikipediaあり。
ピアッジオはアプリリア、デルビ、ジレラ、モト・グッツィ、リジェといったバイクメーカーを傘下に持ち、グループ全体でヨーロッパ最大の売り上げを誇る巨大企業である。
125ccクラスにデルビが参戦したときも、中身はアプリリアのマシンだった。250ccクラスにジレラが参戦したときも、中身はアプリリアのマシンだった。ピアッジオグループ同士、名前の貸し借りをしている。
ピアッジオはスクーターの生産に熱心で、ヴェスパのような高級でおしゃれなモデルを多く作っている。
一方でもう1つのイタリアバイクメーカー・ドゥカティはあまりスクーターを作っておらず、パニガーレのようなスポーツ車を作ることに熱心である。この2社は対照的と言えるだろう。
2016年から、最終戦バレンシアGPにおいて、アプリリアワークスのマシンが真っ赤なカラーリングになるようになった(画像1、画像2、画像3、画像4、画像5)。チームスタッフも真っ赤な作業服に衣替えしている(画像)。
これは、(RED)というエイズ撲滅キャンペーンである。これに賛同した企業が自社商品を(RED)に登録すると、その売り上げの数%がエイズ患者支援に回る。
アプリリアの親会社であるピアッジオも賛同し、100万円以上する高級スクーターのヴェスパのVespa946というモデルを(RED)に登録した。1台を購入するたび150ドルが寄付される。公式サイトと動画が作られている。
ピアッジオ以外にも多くの企業が賛同している。アップル、コカコーラ、Amex、アルマーニ、スターバックスなど。
アプリリアの本社はイタリア北東部のヴェネツィアから少し離れたノアーレという街にある。
高速道路アウトストラーダで南下すればすぐにムジェロサーキットに着くので、ムジェロサーキットをテストコースとして使用している。原田哲也がアプリリアワークスのライダーだったときはしょっちゅうムジェロサーキットでテストしていて、そういうときはフィレンツェの宿に泊まっていたという。
ヤマハワークスの拠点がレズモ、スズキワークスの拠点がカンビアーゴ、ドゥカティワークスの拠点がボローニャ、アプリリアワークスの拠点がノアーレ。この4チームは直径250kmの円にすっぽり収まる近所同士である。日本で例えると、関東平野に4つのレースチームが散在しているような感じとなっている。
それゆえ、職員の移動も盛んであり、スズキワークスのダヴィデ・ブリヴィオ監督は「我々の中の多くの職員が元ドゥカティワークスの職員」と発言している。2013年末にアプリリアのジジ・ダッリーニャがドゥカティワークスに引き抜かれたが、これもちょっと離れたところに職場が変わっただけだと言えた。
アプリリアの親会社であるピアッジオの本社は、フィレンツェ郊外のポンテデーラにある。
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最終更新:2025/12/12(金) 16:00
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