ジョヴァンニ・サンディ(Giovanni Sandi)
とは、MotoGPの車両整備員である。
イタリア出身の名物クルーチーフで、マックス・ビアッジ(1994年~1996年)、ホルヘ・ロレンソ(2006年~2007年)の250ccクラスチャンピオン獲得に貢献してきた。
2009年から2011年まではスーパーバイク世界選手権にて再びマックス・ビアッジと組み、2回のチャンピオン獲得に貢献している。
2012年から2014年はイオダ・レーシングでダニロ・ペトルッチと組んでいた。2016年以降はイタルトランスに所属しており、Moto2クラスで姿を見ることができる。
この動画
でマティア・パシーニの後ろにいる作業中の白髪お爺ちゃんがジョヴァンニ・サンディ。
2018年アルゼンチンGPで優勝したマティア・パシーニをパルクフェルメで出迎えている(動画
)。そのまま表彰式に参加、スパークリングワインをぶっかけられる前に小走りで退散している(動画
)。
ジョヴァンニ・サンディは傘持ちを務めるのが好きで、この動画
やこの動画
でも傘持ちしている。
1949年9月2日生まれなので、2020年2月現在において、すでに70歳の大台を超えている。日本なら周囲から引退を勧められる年頃なのだが、イタリアには「優秀な人を皆でおだててその気にさせて働いてもらおう」というスネかじりな雰囲気があり、優秀な老人に対して引退を勧めようとしない。79歳になってもMotoGPのパドックで働いているイタリア人技術者がいる。そのため、ジョヴァンニはもう少し働くものと思われる。
愛称はジゥヴァ(Giuva)。
サッカーはユヴェントスのファンで、いわゆるユヴェンティーノ。
2020年現在はスイスのルガーノ
に住んでいる。ここは、ホルヘ・ロレンソやアンドレア・イアンノーネが住んでいることで知られている。綺麗な湖が広がっていて、イタリア北部の人が移り住むケースが多い。
ジョヴァンニにはフェデリコ・サンディ
という息子がいる。1989年8月12日生まれ。成長するとバイクレーサーとなった。
2003年にはスペイン選手権に参戦するようになり、2005年~2007年はMotoGP125ccクラスに参戦し、2007年と2008年にはMotoGP250ccクラスにしばしば参戦している。
2009年からは公道向け量産車で争う選手権へ活動の場を移した。イタリア選手権(CIV)
の量産車部門、スーパーバイク世界選手権
、スーパーストック1000欧州選手権
など。
2009年にはJIR
に所属してスーパーストック1000欧州選手権に参戦した。このとき、ジョヴァンニと親しいマックス・ビアッジの甥っ子であるフェデリコ・ビアッジ
がチームメイトになっている。
2018年はスーパーストック1000欧州選手権に出場。アラゴンやポルトガルで表彰台に入り(画像1
、画像2
)、フランスで優勝している(画像
)。(公式サイト
のResultsをクリックし、STK1000と2018を選ぶと成績が出る)
2019年はスペインスーパーバイク選手権
に出場。
父親のジョヴァンニが所属するイタルトランスでライダーコーチになっている。コースサイドに出ていって他のライダーの走りをじっくり観察し(画像1
、画像2
、画像3
)、それをライダーに伝えて(画像1
、画像2
、画像3
)、ライダーの判断材料を増やす。レーサー特有の視点というものがあるので、ライダーコーチは貴重な存在である。
1949年9月2日に、イタリア北部のロンバルディア州サンタ・マルゲリータ・ディ・スタッフォラ
で生まれた。しばらくするとヴォゲーラ
という街に引っ越した。
このあたりはオルトレポ・パヴェーゼ
と呼ばれる地域で、地域名を冠したオルトレポ・パヴェーゼ
というワインの産地として有名である。また、ヴァルツィ・サラミ
という豚肉ソーセージも特産品である。
14歳の時、学業成績が優秀だったので、褒美としてオートバイを買ってもらった。16歳の頃、公道で競走するようになった。
1969年、20歳の頃にオートバイのレースを始めた。コッレ・ディ・クレト
という山の道を駆け上がっていく競技で、いわゆるヒルクライムである。港町ジェノヴァのこのあたり
にあるドリアから、北西のクレト
まで、山道をどんどん駆け上がっていくので「ドリア・クレト」という名前が付いていた。画像検索すると
、レースの様子が分かる。
1969年のドリア・クレトで乗ったのはドゥカティの125ccバイクだった。その当時においても古さがあるバイクで、レース向きのマシンではなかった。それにも関わらず良い走りをしたが、ゴール直前で転倒するか故障するかして、ゴールできなかったという。
1969年は、ヒルクライムだけでなく、普通のサーキットに出向いてレースをした。クーネオのサーキット
に行ったり、海岸沿いの街オスペダレッティ
にあるオスペダレッティ・サーキット
に行ったりした。
なかなか良い走りをしていたので、「ウチのチームで走らないか」と誘いが来るほどだったという。
ジョヴァンニ自身もやる気で、レースの経験が増えるにつれて「チャンピオンになれる!」と信じる気持ちが強くなっていったという。つまり、典型的なレーサー青年だったというわけである。
とはいえ、レースだけで稼ぐことは難しかった。そのため、モト・グッツィ
のテストライダーになったり、その次は鉄道会社に就職して7年間勤めたりしていた。
ジョヴァンニの口ぶりからすると、鉄道会社の試験を受けて、試験に合格して入社したようである。ただ、入社してすぐに「これは自分に向いた職業ではない」と感じるようになったという。7年間給料を稼ぐために勤務したが、結局、退職することにした。
1979年と1980年は再びレースをした。1979年に、ヴィジェヴァノ
という街のバイク販売業者に「レースに参加しないか」と誘われて、その誘いに乗った。その業者は国内レースの運営にも関わっていたので、すんなりとレースに参加できた。何回かレースをして、うまく走ることができた。1980年は、国内選手権のに加わって全てのレースに参加して相当に良い走りをしたが、レース運営の規則設定がいい加減だったため10回のレースのうち3つのレース結果が無効となり、結局、年間ランキング2位に終わってしまった。
1979年までは年に数回レースをする程度の参戦だったが、1980年は、人生で唯一、1つの選手権の全レースに参戦するという職業レーサーそのものの体験をした。その1980年の選手権は「la TT2 di Segale
」という名前である。ちなみにsegaleはライ麦という意味。
ジョヴァンニは、1980年を限りにレース活動を終了することにした。1981年からは、メカニック(マシン組み立て工員)としてオートバイレースに参加するようになった。
1982年は早くもクルーチーフになった。とはいえ、この時代のレーシングチームは「メカニック2人、ライダー1人」とかそんな程度の規模であることがほとんどなので、別段驚くには当たらない。
1982年は、所属するチームが「正式な引退レースを走らせてあげよう。スズキのRG500
が1台余っているので、それに乗ってイタリア選手権のレースに出るといい」と言ってくれたのでその提案に乗ってレースに出場したが、残念ながらRG500が故障してしまったので完走できず、格好いい形で引退レースを飾れなかった。
ちなみにRG500は、1970年代後半に市販された2スト500ccのレース専用車両で、MotoGP最大排気量クラスを席巻した完成度の高いマシンとして名高い。スズキワークスの記事にも記述がある。
1990年と1991年の2年間は、カジヴァ
に所属してモータースポーツ活動の多くに参加した。
この当時のカジヴァは、クラウディオ・カスティリオーニ
という名物オーナーの指揮の下、モータースポーツ活動に精を出しており、MotoGP最大排気量クラスにも参戦していた。ジョヴァンニは、カジヴァのMotoGP最大排気量クラス参戦の一員となり、1990年はアレックス・バロスとランディ・マモラ、1991年はエディ・ローソンと仕事をした。
この2年間には、フランスのパリを出発してリビアのトリポリ
に上陸し北アフリカの砂漠諸国を横断してセネガルの首都ダカール
まで走り抜けるダカール・ラリー
にも参加した。1991年ダカール・ラリーが行われたのは1990年12月29日~1991年1月17日だったが、ちょうどこのときは湾岸戦争の開戦直前だったので、関係者一同がかなり緊張していた。そういう異様な雰囲気の大会を体験できた。
1993年のジョヴァンニは、ヴァレージ・レーシング
というチームに所属して、ピエールフランチェスコ・キリ
のクルーチーフになっていた。
ヴァレージ・レーシングというチームには、キリのチームメイトとして原田哲也
という新人が加入してきた。原田はシーズン前のテストから尋常でない速さを示しており、それに感銘を受けたキリは原田に対して様々なアドバイスをしていた。
ヤマハのTZ250M
という250ccマシンを駆り、原田は年間4勝を挙げ、見事にルーキーイヤーで250ccクラスチャンピオンを獲得した。
当時の原田はイタリア語や英語をまるで喋れず、日本を拠点としており、レースが開催されるたびに日本人スタッフと共にサーキットへおもむいて日本人スタッフに囲まれてレースをしていた。そのため、ジョヴァンニは原田とあまり会話しなかった。とはいえ、ジョヴァンニがキリと共に考えたセッティングを原田は恒常的に参照していたので、ジョヴァンニは間接的ながら原田のチャンピオン獲得に貢献したことになる。
このときの様子は、次の雑誌にて詳しく報じられている。
1993年をもってヴァレージ・レーシングというチームは解散してしまった。チャンピオンを輩出したのにチーム解散とは残念なことである。
ジョヴァンニにはすぐにアプリリアワークス(250ccクラスのチーム)から誘いが来た。そして、マックス・ビアッジとのクルーチーフになった。
マックスとは息がぴったり合い、1994年から1996年まで3年連続で250ccクラスチャンピオンを獲得することになった。
マックス・ビアッジは、「とても横柄だし、チームとの関係をうまく築けない」という理由で、アプリリアの首脳に嫌われていた。最終的に、カルロ・ペルナットとヤン・ウィットヴェーンという両首脳の決断で、マックスはアプリリアから追い出される格好になった。
マックスの代わりにアプリリアワークスに加入したのは、原田哲也である。原田哲也は1997年と1998年に250ccクラスランキング3位を獲得した。
1998年の原田哲也は、最終戦アルゼンチンGPにおいて、決勝レースの最終ラップにおいて2番手を走行しつつ、最終コーナーへ入っていった。タイトルを争うロリス・カピロッシは3番手で、そのまま行けば1993年以来久々の250ccクラスチャンピオン獲得ということになる。
ところがそこで、ロリス・カピロッシが無茶な速度でインに入ってきた。原田はロリスにぶつけられて転倒し、ロリスは原田にぶつかったおかげで減速が可能になってコース上に残った。そしてロリスはチェッカーラインを過ぎ、250ccクラスチャンピオン獲得ということになった。これが悪名高いカピミサイル事件である(動画
)。レースのあとはアプリリアワークスのピット内が険悪な雰囲気になり、工具が飛び交う大喧嘩になった。その様子は、ヴァレンティーノ自叙伝の317~319ページ
にて記述されている。
原田哲也は、2001年をもってアプリリアを去って行ったが、ジョヴァンニはアプリリアに残留した。
2004年と2005年はアプリリアワークス(250ccクラス)でアレックス・デアンジェリス
を担当。
2006年と2007年は、アプリリアワークス(250ccクラス)に在籍して、ホルヘ・ロレンソの250ccクラスチャンピオン連覇を支えた。
2009年から2011年まで、スーパーバイク世界選手権におけるアプリリアワークスに所属し、マックス・ビアッジのクルーチーフになった。
アプリリアの辣腕技術者であるジジ・ダッリーニャが、4年ほどの時間を掛けてRSV4というバイクを開発していた。2009年になってアプリリアはRSV4を販売し始め、それと同時にスーパーバイク世界選手権への参戦を開始したのである。
ライダーはマックス・ビアッジを選び、クルーチーフにはジョヴァンニを当てた。マックスとジョヴァンニが組むのは1996年以来12年振りのことである。
この組み合わせがズバリと当たり、2010年と2012年にスーパーバイク世界選手権のチャンピオンを獲得している。
1994年から2011年まで、18年連続でアプリリアに所属して尽力し続けたジョヴァンニだったが、ついに環境を変えるときが来た。
旧友のジャンピエロ・サッキ
がイオダレーシング
を設立してジョヴァンニを誘ってきたので、ジョヴァンニは部下を引き連れて移籍し、2012年から2014年までダニロ・ペトルッチのクルーチーフになった。このとき、マックスはジョヴァンニ・サンディに見捨てられたような格好になったので、相当落ち込んだという(記事
)。
イオダレーシングは、2012年の前半にアプリリアのスーパースポーツ世界選手権向けエンジンを使い、2012年後半と2013年にBMWのエンジンを使い、2014年には再びアプリリアのスーパースポーツ世界選手権向けエンジンを使っている。
2015年はスーパーバイク世界選手権に参戦するMVアグスタ・レパルト・コルセ
というチームに所属し、テクニカルディレクターに就任して、スーパーバイク世界選手権やスーパースポーツ世界選手権への参戦の指揮を執った。
MVアグスタ
は2010年にカジヴァ
の傘下になっていたので、カジヴァCEOのジョヴァンニ・カスティリオーニ
(1981年生まれの若社長。先述のクラウディオ・カスティリオーニ
の息子)が、MVアグスタ・レパルト・コルセに関する人事権を持っていた。ジョヴァンニ・カスティリオーニに勧誘され、ついついその誘いに乗った。
2016年からはMotoGPに戻り、イタルトランス(Moto2クラス)で働いている。2016年から2018年までマティア・パシーニ
のクルーチーフを務め、2019年からはエネア・バスティアニーニ
のクルーチーフになっている。
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最終更新:2025/12/10(水) 18:00
最終更新:2025/12/10(水) 18:00
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