グレッシーニレーシング
とは、イタリア・ファエンツァ
に本拠地を持つMotoGPの名門チームである。
2022年は最大排気量クラスとMoto2クラスに参戦する。最大排気量クラスではドゥカティのサテライトチームになっている。
最大排気量クラスにおいて、2014年をもってホンダとの提携を打ち切り、2015年からアプリリアとの提携に切り替えた。
2020年12月のクリスマス前にチームオーナーのファウスト・グレッシーニが新型コロナに感染して重症患者となり、そのまま2021年2月23日に急逝してしまった。チームの存続すら危ぶまれたが、ファウストの妻と子供2人がチームの経営を引き継いだ。また2000年頃からファウストの片腕としてチームの広告・営業を担当しているカルロ・メルリーニも引き続き在籍している。
グレッシーニレーシングとアプリリアとの契約は2021年12月までのものだった。アプリリアと継続して契約するか、ドゥカティと契約するか、非常に難しい判断となったが[1]、2021年6月17日にドゥカティと契約した[2]。2021年12月をもって最大排気量クラスにおけるアプリリアとの提携を終わらせて、2022年1月から最大排気量クラスでドゥカティのサテライトチームとして活動していく。
アプリリアと提携していたときも、輸送のトラックなどをすべてグレッシーニレーシングが所有していた[3]。このため2022年初頭のドゥカティへの切り替えも円滑に進めることができた。
ファウスト・グレッシーニの知名度でスポンサーを集めてきたようなチームなので、ファウストの急逝が伝えられて「チーム存続が危ういのではないか」と疑われたらしく、台湾のコンテナ管理企業であるFLEX BOX
もスポンサーから離れていった[4]。2022年の決起式に出てきたマシンのカウルを見ると、メインスポンサーの名前が存在せず「THE NEXT」と書かれてあるだけである(画像
)。
2012年から2021年まで最大排気量クラスとMoto2クラスとMoto3クラスのすべてに出場する大所帯のチームだったが、2022年からは最大排気量クラスとMoto2クラスの2つに絞ることになった。
ファウスト・グレシーニの妻で、チームのオーナー。ファウストとの間にルカ(Luca)、ロレンツォ(Lorenzo)、アリーチェ(Alice)、アグネーゼ(Agnese)という4人の子供がいる。そのうちルカとロレンツォはチーム運営に関わっており、特にルカは2022年のMoto2クラス部門の監督を務めている(記事
)。
2000年頃からグレッシーニレーシングに参加してファウスト・グレッシーニの片腕としてチームを支えてきた。得意分野はスポンサーへの営業や財務の調整である。
2022年からスポーティングディレクターを務める。2008年からグレッシーニレーシングに所属している人物である。
2022年から最大排気量クラス部門でエネア・バスティアニーニのクルーチーフを務める。
2016年から2020年までドゥカティワークスに所属してアンドレア・ドヴィツィオーゾのクルーチーフを務めた。
2021年はドゥカティサテライトのエスポンソラマ・レーシングに所属してエネア・バスティアニーニのクルーチーフを務めた。
2022年から最大排気量クラス部門でファビオ・ディ・ジャナントニオのクルーチーフを務める。
2020年はVR46のMoto2クラス部門でルカ・マリーニのクルーチーフを務め、Moto2クラスのランキング2位の獲得に貢献した。
2022年から最大排気量クラス部門で技術面の相談役を務める。
2015年はフォワードレーシングの最大排気量クラス部門(ヤマハサテライト)でステファン・ブラドルのクルーチーフを務めた。
2020年はKTMワークスでブラッド・ビンダーのクルーチーフを務めた。
2021年はKTMサテライトのTech3でダニロ・ペトルッチのクルーチーフを務めた。
ライダーコーチを務めており、ライダーへの助言をする。
サンマリノ共和国人の元・MotoGPライダーで、125ccクラスと250ccクラスでチャンピオンを獲得したが、燃え尽き症候群のため早期に引退した(記事
)。その彼は2019年からグレッシーニレーシングに所属し、ライダーコーチとして活躍している(記事
)。
グレッシーニレーシングのオーナー兼監督。日本語Wikipediaあり
。
「グレッシーニ」と「グレシーニ」で表記揺れしている。
1961年1月23日生まれ、イタリア・イモラ
出身。1985年と1987年の2度にわたりMotoGP125ccクラスチャンピオンに輝いた。特に1987年は年間11戦で開幕から10連勝して最終戦は転倒したが、伝説的シーズンになった。
1990年から5年間ホンダに乗り、1991年と1992年はいずれも125ccクラスランキング2位となる。
1994年をもって現役を引退した。1996年に最大排気量クラスでホンダサテライトとして活動するピレリレーシングに入団し、アレックス・バロスのコーチとして活動した。
1997年にプライベートチームのグレッシーニレーシングを設立し、ファウスト・グレッシーニ自身がオーナー兼チーム監督になった。ホンダ・ブラジルと手を組んでブラジル人のアレックス・バロスをライダーに雇った[5]。
2014年シーズンをもってホンダとの提携を打ち切り、2015年からアプリリアとの提携を開始した。最大排気量クラスにおいてアプリリア技術者を大量に受け入れ、アプリリアワークスとして参戦している。
とはいえ、ホンダとの縁も完全に切れたわけではない。Moto3クラスにおいて、2015年から2021年に至るまで、ホンダのNSF250RWを使用していた。
2020年のクリスマスの少し前に新型コロナに感染し、12月27日には重症患者としてイモラのサンタ・マリア・デッラ・スカレッタ病院
に搬送され、12月30日にはボローニャのカルロ・アルベルト・ピツァルディ病院
の集中治療室に移送されたSPEEDWEEK記事
。1月7日には人工呼吸器が外れて昏睡から回復したが、2021年2月23日に新型コロナの合併症で急逝した。享年60歳31日。
1988年からMotoGPで仕事をしている大ベテラン。3月22日が誕生日
。伝説的な技術者アントニオ・コバスと一緒に仕事をした技術者の1つで、「コバス・スクールの卒業生」などと表現される。
2006年はトニ・エリアス
のクルーチーフ(記事
)。
2007年はマルコ・メランドリ
のクルーチーフ(記事
)。
2008年は中野真矢
のクルーチーフ(記事
)
2009年はアレックス・デアンジェリス
のクルーチーフ(記事
)
2010年はマルコ・メランドリ
のクルーチーフ(記事
)
2011年は青山博一
のクルーチーフ(記事
)
2012~2014年はアルヴァロ・バウティスタ
のクルーチーフ(動画
)
2015年にグレッシーニレーシングがアプリリアワークスの母体になるとき、チームを去っていった。
2015年はイタルトランスレーシング(Moto2)で、ミカ・カリオ
のクルーチーフを務めた。
2016~2017年はTech3のMoto2クラス部門でシャヴィ・ヴィエルヘ
のクルーチーフ。
2018年はダイナヴォルト・インタクト(Moto2)でシャヴィ・ヴィエルヘ
のクルーチーフ。
2019年はグレッシーニレーシングに復帰して最大排気量クラスチームでアレイシ・エスパルガロのクルーチーフとなった。
2022年はグレッシーニレーシングとアプリリアワークスが分離したので、アプリリアワークスにそのまま所属して、アレイシ・エスパルガロのクルーチーフを務めている。
この人もグレッシーニレーシングで長く勤めている。
2000~2003年は加藤大治郎のクルーチーフを務めた。
2004年はコリン・エドワーズのクルーチーフ。
2005年はマルコ・メランドリのクルーチーフ。
2007年と2009年はトニ・エリアスのクルーチーフ。
2010年はMoto2クラス部門でトニ・エリアスのクルーチーフを務め、Moto2クラス初代チャンピオン獲得に貢献した。
2011年はMoto2クラス部門で高橋裕紀のクルーチーフ。
2015~2016年はMoto3クラス部門でエネア・バスティアニーニのクルーチーフ。
2017~2018年はMoto3クラス部門でファビオ・ディ・ジャナントニオのクルーチーフ。
2019年は最大排気量クラスに戻り、アンドレア・イアンノーネのクルーチーフを務めた。同年8月からクルーチーフの座を離れてチーム全体を監督するテクニカルコーディネーターになった。
2021年12月をもってチームを退団した(記事
)。
息子の名前はフランチェスコ・チェッキーニ
と言い、Instagramのアカウント
がある。1997年1月9日生まれ、身長185cm体重80kg。
フランチェスコはダートトラック(平坦な土の路面を滑りながら走る競技)が非常に上手く、何度も世界チャンピオンになっている。2014年から2018年まで5連覇。このページ
でそれを確認できる。
フランチェスコはダートトラックが上手いので、グレッシーニレーシングに入団してきた若手選手のいいトレーニング相手となっている。この記事
ではファビオ・ディ・ジャナントニオと一緒に映っている。
1975年頃生まれで若い。1998年からグレッシーニレーシングで働き始め2016年まで19年間在籍した。
もともとは電子制御のスタッフで、加藤大治郎やコリン・エドワーズや青山博一を担当した。2012年からクルーチーフに昇格した。
2012年 ミケーレ・ピッロ
のクルーチーフ。
2013年 ブライアン・スターリング
のクルーチーフ。
2014年 スコット・レディング
のクルーチーフ。
グレッシーニレーシングがアプリリアワークスの母体になってもクルーチーフの座を維持した。
2015年 前半はマルコ・メランドリ
、後半はステファン・ブラドル
のクルーチーフ。
2016年 ステファン・ブラドル
のクルーチーフ。
2017年にMarcVDS(ホンダサテライト)に引き抜かれ、ティト・ラバト
のクルーチーフになった。
2018年はMarcVDSでフランコ・モルビデリ
のクルーチーフ。
2019年はフランコ・モルビデリと一緒にペトロナスヤマハ(ヤマハサテライト)に移籍した。そのままフランコ・モルビデリのクルーチーフになるはずだったが、ちょうどそのとき、ラモン・フォルカダという名物クルーチーフがヤマハワークスを離れてペトロナスヤマハにやってきた。ペトロナスヤマハにとって第一ライダーであるフランコ・モルビデリにラモン・フォルカダをあてがおうということになり、ディエゴ・グベリーニは第二ライダーであるファビオ・クアルタラロと組むことになった。ところが第2ライダーのはずだったファビオ・クアルタラロが1年目から大活躍し、2位を5回記録してランキング5位となった。
2020年もペトロナスヤマハ(ヤマハサテライト)でファビオ・クアルタラロのクルーチーフ。
2021年はファビオ・クアルタラロとともにヤマハワークスに移り、最大排気量クラスチャンピオンを獲得した。2022年も引き続きファビオのクルーチーフを務める。
彼の名前で検索すると、なにやらサイドビジネスをしていることがわかる。GRIP one(グリップワン)という商品名の、後付け型電子制御部品で、これを付けると電子制御でタイヤのグリップが増す。
こちら
の日本語ページで商品概要が分かる。こちら
が公式サイト。
マルコ・シモンチェリのクルーチーフとして有名。
2008年はマルコ・シモンチェリの250ccクラスチャンピオン獲得に貢献した。
2009年も引き続きマルコのクルーチーフ。2009年暮れにグレッシーニレーシングの最大排気量クラス部門へ2人揃って移籍した。
2010年~2011年にグレッシーニレーシングに在籍し、マルコ・シモンチェリのクルーチーフ。
2012年はスーパーバイクのアプリリアワークスへ移籍し、マックス・ビアッジのクルーチーフ。ビアッジは2012年と2014年に世界チャンピオンを獲得した。
2015年はMotoGPのMoto2クラスに戻り、イタルトランスでフランコ・モルビデリのクルーチーフ。
2016年以降はスーパーバイクで活躍している。
頬髭を生やしている人。 Twitterアカウント
がある。
もともとはヤマハに所属するテレメトリー・スタッフ(データ解析役)だった。
ドゥカティワークスに移籍してケーシー・ストーナーと出会い、そのチームに入る。
2011年にケーシー・ストーナーとともにレプソルホンダへ移籍。
2012年もケーシー・ストーナーのチームでテレメトリー。
2013年はマルク・マルケスのチームに入り、テレメトリーを担当した。
2014年はチーム・アスパーへ移り、ニッキー・ヘイデンのテレメトリー担当。
2015~2016年はグレッシーニレーシングに移り、アルヴァロ・バウティスタのクルーチーフ。
2017年はグレッシーニレーシングのMoto2クラス部門に移り、サム・ローズのクルーチーフ。
2018年はグレッシーニレーシングの最大排気量クラス部門に移りスコット・レディングのクルーチーフ。
2019年はスーパーバイクのドゥカティワークスに移籍し、アルヴァロ・バウティスタのクルーチーフ。
いくつかインタビューに答える動画がある(動画1
、動画2
、動画3
、動画4
)
2015~2016年は、マルコ・メランドリやステファン・ブラドルのチームのスタッフだった。
2017~2018年9月まではアレイシ・エスパルガロのクルーチーフ。
2018年9月のサンマリノGP直前にチームを離脱する。2019年からはKTMワークスへ移籍してヨハン・ザルコのクルーチーフになることが決まったので、双方合意の上、チーム離脱となった。アプリリア側としてはKTMへ移籍する人に機密情報を見せたくないし、マーカス側は早くKTMへ行ってマシンに習熟したい。
アレイシ・エスパルガロからの評価は高く、「マーカスとはいい関係を築けていた
」とコメントしている。
Moto3クラスの強豪チーム『VR46』のクルーチーフとして活躍していた。
2018年9月頃は暇があったので声がかかり、アレイシ・エスパルガロのクルーチーフとなった。
2018年11月までクルーチーフを務め、アレイシから「彼の仕事っぷりは良かった。満足している
」と賛辞の言葉を貰っている。
2019年の前半はアプリリアワークスのテストチームでブラッドリー・スミスと組んで働いた。2019年8月になってアンドレア・イアンノーネのクルーチーフになった。
グレッシーニレーシングは1997年に設立、さっそく同年の最大排気量クラスに参戦を始めた。使用したのはホンダのマシンで、これ以来18年間に渡ってホンダ陣営のチームとなる。
1999年には最大排気量クラス参戦を中止して250ccクラスに参戦した。前年の1998年の250ccクラス最終戦の最終周の最終コーナーで原田哲也に無謀な攻撃を仕掛け、原田哲也を転倒させて250ccクラスチャンピオンになったがアプリリア上層部から猛批判を受けてアプリリアワークスを解雇されたロリス・カピロッシ
を起用して、年間ランキング3位を獲得した。
2000年からは加藤大治郎
を起用、2001年に加藤は16戦11勝を挙げてチャンピオンに輝いた。マックス・ビアッジ
やヴァレンティーノ・ロッシと互角の戦いをしてきたアプリリアの原田哲也
を相手に圧倒的な勝利を重ねた加藤の姿は観る者に強い衝撃を与えた。
2002年からは加藤大治郎とともに最大排気量クラスへ復帰。250ccクラスではロベルト・ロルフォ
などを起用、ロベルトは年間ランキング3位になる。
2003年から2009年までは最大排気量クラスのみに参戦した。2003年と2004年はセテ・ジベルナウ
が年間ランキング2位を獲得。2004年にコリン・エドワーズ
が年間ランキング5位。
2005年から2007年の時代のエースはマルコ・メランドリ
で、年間ランキング2位、年間ランキング4位、年間ランキング5位の好成績を収めた。2007年末にマルコ・メランドリはドゥカティワークスへ移籍していった。
年間ランキング上位者を輩出し続け、名門プライベートチームの地位を確立させた。
2010年からは最大排気量クラスに加えてmoto2クラスにも参戦し続けることになる。2010年はトニ・エリアス
を起用、モリワキのマシンでMoto2クラスの初代チャンピオンを獲得した。
2012年からは最大排気量クラスでアルヴァロ・バウティスタ
を起用。ワークスチームとプライベートチームの電子制御の格差が激しい時代にもアルヴァロは奮戦し、3位表彰台を3回、ポールポジション1回を獲得している。
また、2012年からはMoto3クラスにも参戦を開始した。これで最大排気量クラス・Moto2クラス・Moto3クラスの3クラスに参戦する大所帯チームとなった。3クラスすべてに参戦するのは2021年まで10年間続いた。
2014年シーズンをもってホンダとの提携を打ち切り、アプリリアワークスの母体チームになった。
2018年はMoto3クラスでホルヘ・マルティン
が見事にチャンピオンを獲得。ファビオ・ディ・ジャナントニオ
もランキング2位となり、グレッシーニレーシングがワンツーを決めた。
スペイン語版のWikipedia
を開くと、グレッシーニレーシングの輝かしい戦績を閲覧することができる。
ホンダとの関係が非常に深いプライベートチームだったので、日本人を送り込まれることが多かった。
グレッシーニレーシングから参戦した日本人ライダーは加藤大治郎、中野真矢、高橋裕紀、青山博一。日本人ライダーを確保したいホンダや参戦ライダーの国籍の多様性を求めるドルナ(MotoGP運営)が、熱心に勧めてくるので根負けして採用したのである。
日本人ライダーは速くて腕があり、クリーンに走ってチームメイトに迷惑を掛けず、しかもちゃんとイタリア語や英語を喋ってくれるから、チームにとって助かる存在である。
しかしながら日本人ライダーはスポンサーを吸引する磁力がちょいと弱い。イタリア人ライダーやスペイン人ライダーなら母国からスポンサーを引き連れてきてくれてチームの財布を潤してくれるのだが、日本人ライダーはこの点ちょっと物足りない。
また、2012年からは最大排気量クラスでニッシンのブレーキ
とショーワのサスペンション
を使うことになった。この2つともホンダの子会社である。
ホンダ嫌いのSPEEDWEEKというドイツのレース情報サイトには「グレッシーニはホンダにニッシンとショーワを強制されている」などと書き立てられていた。実際にはニッシンとショーワは技術者を継続的に送り込みやたら熱心なサポートをしていて、グレッシーニ監督やバウティスタも満足していたようである。
ただ、レプソルホンダや他のホンダ系サテライトチームであるチームLCRはブレンボのブレーキ
とオーリンズのサスペンション
を使っており、それらのチームのデータを見てもあまり参考にならない、そういう状況になっていた。
走行データが他のホンダマシンと違うのだが、それはシャーシのセッティングの違いが原因なのか、ブレンボとニッシンの違いが原因なのか、オーリンズとショーワの違いが原因なのか、よく分からない。セッティングを煮詰めるためにはすこし不利な立場であった。
2014年シーズンをもってホンダとの提携を打ち切ったのだが、この理由はお金であった。
ホンダの最大排気量クラスのマシンは高額で、リース料が高い。「日本人を受け入れてるんだから安くしてくれ」と要求して少し安くしてもらうが、それでも高い。勝ち負けできる良いマシンだから高額なのはしょうがないのだが、やっぱり高い。
そこに現れたのがアプリリアで、こっちは比較的に安価であり、財政的にも支援してくれるとのこと。
そういうわけでホンダからアプリリアへの鞍替えとなった。2015年からはアプリリアワークスの母体として最大排気量クラスに参戦している。
チームの拠点はイタリアのファエンツァ
にある。
もう1つのチーム拠点はイタリアのミサノサーキットすぐそばのサン・クレメンテ
にある。そこにはメンテナンス工場があり、レース用機材が集積されている。
ミサノ・アドリアーティコの記事にもあるが、このリミニ地方あたりはMotoGPライダーを多数輩出している。グレッシーニレーシングもリミニ地方出身ライダーを多数起用している。一覧にすると以下の通り。
(ラヴェンナ
)
(サンマリノ共和国
)
(カットーリカ
)
(カットーリカ
)
(リミニ
)





(最大排気量クラスの成績が詳しい)
(Moto2クラスやMoto3クラスの成績が詳しい)
でカルロ・メルリーニが「非常に難しい判断だった」と語っている。
。ちなみにSPEEDWEEKは2021年5月27日に「グレッシーニレーシングとドゥカティの契約が間近」と報じていた(記事
)。
は「Moto2クラスの名門チームであるポンスレーシングを運営するシト・ポンスが、FLEX BOXに『グレッシーニレーシングが危ない』とささやきかけ、FLEX BOXがグレッシーニレーシングから離れてポンスレーシングへ多く資金を投資するように誘導したとパドックで噂されている」と報じている。
。ピレリレーシングはダニロ・ペトルッチの父親が所属したチームである。詳しくはダニロ・ペトルッチの記事を参照のこと。ちなみに1997年になってピレリレーシングは金銭的な問題で崩壊していった。掲示板
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最終更新:2025/12/06(土) 15:00
最終更新:2025/12/06(土) 15:00
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