インディジェナス 単語


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インディジェナス

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インディジェナス(Indigenous原居民)は、1993年生まれの元競走馬(騙馬)。

香港競馬の国際化が進んだ1990年代後半から2000年代初頭にかけて香港競馬の第一線を走り抜き、日本馬とも何度も対戦したことで有名。

※文中において「G○」は国際グレード、「国内G○」は香港国内のみのグレードを指す(双方が存在する競走では前者を優先する)。
また、香港競馬のシーズンは9月から始まるため、本項でもこれを踏まえて記述することとする。

概要

血統

父Marju、母Sea Port、母父Averofという血統のアイルランド産馬。

父マルジュはイギリスのマイルGIであるセントジェームズパレスSの勝ち馬で、半姉に牝馬ながら愛ダービーを制したサルサビルがいるという良血でもある。本馬の世代が初年度産駒であり、近年のファンにもラストクロップからサトノクラウンを出したことで名前が知られている。

母シーポートは現役時代は未勝利だが、その母アンカーは重賞馬、叔母バイリームは英オークス馬と牝系としてはまずまず。半妹*ディラローシェは日本に輸入され、本馬とも何度か対戦したステイゴールドとの間に天皇賞(春)を連覇したフェノーメノを産んでいる。

母父アヴェロフはGIIだった頃のセントジェームズパレスSの優勝馬で、今では希少になってしまったテューダーミンストレル系に属する。

アイルランド時代

1歳時のセリにおいて、アイルランドで馬主・調教師をしているケビン・プレンダーガストという人物に1万500ギニーで購入され、「Qualtron(クォルトロン)」という馬名で登録された。2歳時は3戦して、7ハロン戦を1勝しただけだった。

3歳になり、初戦の7ハロン戦で8着に敗れた後、一気に距離延長を試みて11ハロンのハンデ戦に出してみるといきなり勝利。その後2戦を挟んで10ハロンのハンデ戦で勝利し、3勝目を挙げた。

しかしこの直後に売りに出され、香港の馬主に購入された。アイルランド時代の成績は8戦3勝だった。

香港最強への道

梁錫麟調教師の管理馬となったクォルトロン改めインディジェナス(中:原居民)は、移籍初戦では競走中に不利を受け7着に敗戦。次走も9着に終わったが、年明けに初勝利を挙げると、続く香港ダービー(国内GI・1800m)でも7番人気ながらよく伸びて、後に安田記念でも2着に入ることになる実力馬オリエンタルエクスプレスの3着に入った。

続くハンデ戦も勝利したが、レース後に梁調教師が汚職疑惑で捜査を受けたために、李立細調教師の管理下に移ることとなった。転厩初戦の香港ゴールドカップ(国内GI・2000m)は7着、当時はまだ国際格付けを得ていなかったクイーンエリザベスII世カップ(国内GI・2000m)でも10着と大敗が続いたが、1996/97シーズン最終戦の香港チャンピオンズ&チャターカップ(国内GI・2400m)では2馬身3/4差で勝利し、香港におけるGI級競走初勝利を挙げた。なお、日本からダンスパートナー(8着)とマイネルブリッジ(9着)が出走したクイーンエリザベスII世カップが、インディジェナスと日本馬の初対戦となった。

1997/98シーズン開始までのオフシーズン中に李調教師が引退したため、アイヴァン・W・アラン厩舎に移籍したインディジェナスは、初戦の1400mのハンデ戦で2着、スチュワーズカップ(国内GI・1600m)では3着、香港国際ヴァーズ(GII・2400m)も4着と惜敗が続いたが、年明け初戦に出走したマイルのハンデ戦で135ポンド(約61kg)という斤量を背負いながら勝利すると、続くセンテナリーヴァーズハンデキャップ(国内GIII・2000m)でも137ポンド(約62kg)という斤量を克服して勝利した。

続けて出走したセンテナリーカップ(国内GII・1000m)では流石に距離が短かったか3着に敗れたが、単勝1.7倍の支持を受けた香港ゴールドカップではオリエンタルエクスプレスを差し切って勝利。クイーンエリザベスII世カップではオリエンタルエクスプレスの4着と後塵を拝するが、沙田フューチュリティトロフィー(国内GIII・1600m)ではこのシーズンの香港ダービー馬ヨハンクライフを退けて勝利し、シーズン最終戦の香港チャンピオンズ&チャターカップでは単勝1.1倍の圧倒的1番人気に応えて連覇を達成。10戦5勝でシーズンを終えた。

1998/99シーズンになると勢いが増し、シーズン初戦の沙田トロフィー(国内GIII・1600m)を135ポンドのトップハンデで勝利。続けて出走した1800mのハンデ戦でも他の馬がキログラム換算で50~52kg程度の斤量に収まる中でただ一頭135ポンドを背負ったが、それでも1馬身差で勝利を収めた。

スチュワーズカップは逃げたものの粘れず僅差の4着だったが、続けて出走した香港国際ヴァーズでは、オイロパ賞(独GI)・ローマ賞(伊GI)の2競走を連覇したタイパンなどの欧州重賞馬勢を退け勝利し、国際グレード競走初勝利を挙げた。ちなみに香港国際ヴァーズは当時から香港国内での格付けはGIであり、そのため騎乗したダグラス・ホワイト騎手はこの勝利がGI級競走初勝利となった。

年が明けると、1000m戦を挟んで出走した香港ゴールドカップを1番人気に応えて連覇。国際GIIの格付けを得たクイーンエリザベスII世カップでは、国内からヨハンクライフとオリエンタルエクスプレス、国外からは前年のパリ大賞(仏GI)を制したリンピドや前年のモーリス・ド・ゲスト賞でシーキングザパールの2着に入ったジムアンドトニックなどの実力馬が集結する中、後方からジムアンドトニックの2着に追い込み、地元勢最先着を果たした。

その後の香港チャンピオンズ&チャターカップでは単勝1.2倍に推されたものの、オリエンタルエクスプレスをアタマ差捕らえられず2着。しかしシーズン中の活躍が評価されて年度代表馬・最優秀中距離馬・最優秀長距離馬・最高人気馬の4つのタイトルを獲得し、名実ともに香港の最強格に上り詰めることとなった。

世界挑戦

1998/99シーズン終了後の夏、陣営は果敢にもキングジョージVI世&クイーンエリザベスSへの遠征を敢行。この遠征は香港調教馬として初めてのイギリス競馬参戦となった。レースでは8頭立てのブービー人気で、結果も勝ったGI4勝馬デイラミから10馬身差の6着だったが、2着に入ったネダウィからは5馬身差とそこまで離されていなかった。アラン師にとっては及第点だったようで、次の目標は秋のジャパンカップと決まった。

1999/2000シーズンは11月6日に1000mのハンデ戦で始動したが、ここは9番人気10着と明らかに叩きといった感じの成績であった。

迎えた22日後のジャパンカップでは、日本総大将スペシャルウィークや凱旋門賞馬モンジュー、独ダービー馬ボルジア、英ダービー馬ハイライズといった世界各国のダービー馬を筆頭に豪華メンバーが揃っていた。そんな中にあって、1000m戦10着から中2週という2400m戦とは思えない臨戦過程も嫌われたインディジェナスは、単勝83.9倍で14頭中12番人気止まり。前年に同距離の香港国際ヴァーズで5着に退けていたフルーツオブラヴ(9番人気・20.7倍)すら可愛く見えるレベルの人気薄であった。

ところが、好発からスムーズに先行したインディジェナスは、そのまま直線でもしぶとさを発揮。残り約200mのところでスペシャルウィークにこそ交わされたが、それでも追ってきたハイライズはハナ差で抑えてスペシャルウィークの1馬身半差2着に入り、低評価を見事に覆してみせた。

しかし、帰国後に出走した香港ヴァーズ(この年から改称)では直線で進路が塞がり、同じくジャパンカップから転戦したボルジアの4着に敗戦。年明けには1000m戦を2戦して初ダートのドバイワールドカップに挑戦したが終始後方のままドバイミレニアムの8着に敗れ、その後もクイーンエリザベスII世カップでは4着、香港チャンピオンズ&チャターカップでは3/4馬身差2着に終わり、初めてシーズンを未勝利で終えることとなった。

2000/01シーズンは初戦から4連敗を喫し、国際GIに昇格した香港ヴァーズでも4着に敗退。年明けのスチュワーズカップではフェアリーキングプローンの5着、センテナリーヴァーズでも3着に敗れ、ドバイシーマクラシックではステイゴールドのジャイアントキリングを14馬身後方から見届けるだけの13着と大敗。帰国初戦のクイーンエリザベスII世カップ(この年から国際GIに昇格)こそ9番人気ながら3着に健闘したものの、香港チャンピオンズ&チャターカップでは1番人気を裏切る5着、その後に出走した沙田ヴァーズ(国内GII・1000m)も10着と見せ場なく敗れ、結局10戦未勝利でシーズンを終えた。

その後

2001/02シーズンは、まずハッピーバレートロフィー(国内GIII・1200m)にトップハンデで出走。このレースで最低人気ながら4着に入ると、続けて出走した沙田トロフィーでも3着に入った。2年ぶりに来日したジャパンカップでも13番人気ながら先行してジャングルポケットの5馬身半(0.9秒)差7着に食い下がり、香港ヴァーズでもステイゴールドの3着と健闘した。

しかし年が明けると国内グレード競走で3戦続けて見せ場なく敗れ、そのため国際GIであるクイーンエリザベスII世カップでは単勝99倍という超人気薄になった。ところがレースでは最後方から一気に追い込み、エイシンプレストンから半馬身差でゴールしたアグネスデジタルにクビ差まで迫る3着に入った。続くシンガポール航空国際カップ(GI・2000m)でもこの年カルティエ賞最優秀古馬になる*グランデラの3着に入ったが、香港チャンピオンズ&チャターカップでは勝ち馬から30馬身半も離された10着に大敗してシーズンを終えた。

この頃のインディジェナスは「11歳まで走れる」と発言した馬主が顰蹙を買うなど、ファンからは既に衰えたと思われていた。2002/03シーズンも現役続行こそしたものの、東京競馬場改修で中山2200mでの開催となったジャパンカップで最低人気ながら僅差6着と健闘した以外はまるで良いところがなく、香港チャンピオンズ&チャターカップでシンガリ負けを喫したのを最後に現役を引退。通算成績は70戦15勝であった。

その後は引退式が行われ、香港の公立乗馬学校で余生を送ったが、引退から1年2ヶ月後の2004年8月8日に重度の腸捻転を発症。11歳の若さで安楽死措置となった。

ジャパンカップに複数回出走した海外馬はいても、3回も出走したのは後にも先にも彼だけである。
日本の馬と何度も戦うだけでなく見せ場も作り、晩年は勝利こそ無かったものの息の長い活躍を続けたという「記憶」だけでなく、当時の香港調教馬としては最高となる生涯獲得賞金4512万5289香港ドルの「記録」も残した、香港が誇る名馬。それがインディジェナスであった。

インディジェナスと日本調教馬の対戦

先述の通りインディジェナスはジャパンカップに3回参戦したが、それ以外にも日本調教馬と香港で5回、ドバイで2回顔を合わせており、全部でキャリアの1/7にあたる10回も日本馬と対戦していることになる。ここではジャパンカップ以外の7戦を表にまとめている。

レース 着順 出走した日本調教馬と着順
1997 クイーンエリザベスII世カップ 10着 ダンスパートナー 8着
マイネルブリッジ 9着
1997 香港国際ヴァーズ 4着 エイシンサンサン 12着
1999 香港ヴァーズ 4着 ローゼンカバリー 7着
2000 ドバイワールドカップ 8着 ワールドクリーク 6着
2001 ドバイシーマクラシック 13着 ステイゴールド 1着
2001 香港ヴァーズ 3着 ステイゴールド 1着
2002 クイーンエリザベスII世カップ 3着 エイシンプレストン 1着
アグネスデジタル 2着

血統表

Marju
1988 黒鹿毛
*ラストタイクーン
Last Tycoon
1983 黒鹿毛
*トライマイベスト
Try My Best
Northern Dancer
Sex Appeal
Mill Princess Mill Reef
Irish Lass
Flame of Tara
1980 鹿毛
*アーテイアス
Artaius
Round Table
Stylish Pattern
Welsh Flame Welsh Pageant
Electric Flash
Sea Port
1980 黒鹿毛
FNo.11
Averof
1971 黒鹿毛
Sing Sing Tudor Minstrel
Agin the Law
Argentina Nearco
Silvery Moon
Anchor
1966 栗毛
Major Portion Court Martial
Better Half
Ripeck Ribot
Kyak

クロス:5代までアウトブリード

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