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キョウエイプロミス

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世界に手をかけた勇士。

晩秋の東京競馬場に一陣の神風をおこした勇士がいた。キョウエイプロミス。
世界の強豪をむこうにまわし、堂々のアタマ差二着。
あたかも、競争生命のすべてをこのレースに賭けてしまったかのような激走である。
必勝を期し、脚部不安を押してのジャパンカップ出走。
それは、キョウエイプロミス関係者の、
世界を征することへの熱い悲願の表われでもあった。
直線、スタネーラとの激しいたたき合いの末、負傷。
それでも二着でゴール板をかけぬけた。
あえなく、世界一への夢はついえたが、君よ、胸をはるがいい。
これほど、多くの夢と感動を一度に与えてくれたものは、他にいないのだから。

JRA「ヒーロー列伝」No.16 キョウエイプロミス

キョウエイプロミスとは、1977年産の日本の元競走馬・種牡馬である。
日本競馬の歴史に確かな足跡を残した、誇り高き天皇賞馬。 

主な勝ち鞍
1982年:ダイヤモンドステークス、毎日王冠
1983年:天皇賞(秋)(八大競走)

1983年優駿賞最優秀5歳以上牡馬

傷だらけの馬生

父はボールドリック、母はチヨダクイン、母の父はネヴァービートという、現代っ子にはよくわからん血統である。

高松邦男厩舎に預託され、主戦柴田政人で6月にデビューするがなかなか勝ち上がれず、12月の4戦目でようやく未勝利脱出。
その後はクラシック目指して連戦するも条件戦1勝が精一杯で皐月賞・ダービーに間に合わず。
夏の北海道シリーズで菊花賞出走へ向けて再始動するが、函館記念後脚部不安を発症し一年間の休養となる。

一年後の北海道シリーズで復帰するが5戦して2着が2回というなんともな成績に終わる。ただ、5戦目の重賞ステイヤーズステークスで2着と才能開花の兆しを見せていた。
翌年は春に自己条件を勝つとその次走、当時春開催だったダイヤモンドステークスで重賞勝利を達成する。その勢いのまま宝塚記念に挑戦しモンテプリンスの4着と好走。
秋は毎日王冠を勝ち、当時府中の3200m戦であった天皇賞(秋)では3番人気に推されるがメジロティターンの大激走を尻目に7着に敗れる。
その後、当時秋開催の目黒記念惨敗で評価を落とすが有馬記念では13番人気に反発し3着に激走。
翌年の活躍が期待されたがまたも脚部不安で長期休養となってしまった。

秋競馬には間に合い、毎日王冠から始動。休養明けで3着となかなかの好走を見せ、天皇賞(秋)へ。
有力どころのアンバーシャダイが順調さを欠いたことや、他の有力馬もそんなにいなかったこともあり前走で敗れたタカラテンリュウに次ぐ二番人気に推され
レースでは先行し逃げたタカラテンリュウを捉えて突き放し、天皇賞制覇を達成。鞍上の柴田政人は通算800勝を達成した。
そして、翌1984年から2000mに短縮された府中3200mでの天皇賞(秋)最後の勝ち馬となった。
しかしながら牝馬が2着に入るなどレベルに多少疑問は残るレースであった。次走は天皇賞馬の看板を背負い、当時まだ第三回であったジャパンカップへ向かった。
このレースで、彼の評価は一気に高まることとなるのである。 

誇りと魂を賭けた先

当時のジャパンカップは実力はちゃんとあったとはいえ冬毛ボーボーの牝馬やアメリカでも二流の芝馬に勝たれるわ、招待馬にボコボコにされて勝ちに行った日本の大将は尽く敗れ
着拾いに行った馬が何とか掲示板ギリギリの5着に入るのが精一杯という状態であった。
日本馬は向こう数十年は勝つ招待馬の影すら踏めないというのが、当時の定説であった。おお、卑屈卑屈。
そんな中、この1983年は三冠馬ミスターシービーが誕生した年でもあり、多方面から出走が熱望されていたにも関わらず
休養優先で年内一杯休養の方針を発表。これには日本のみならず海外も失望していた。
「なんで最強候補の三冠馬が出ないのか?」「天皇賞馬やグランプリホースじゃウチらには勝てないだろ?やる気あるの?」という批判が相次ぎ
海外メディアから日本陣営への質問は大概シービーなんで回避するんだよという一点に絞られた。
そんな中、堂々と「シービーはいませんが、キョウエイプロミスが日本の代表・最強馬としてあなた方の相手を務めるのです」と言い放ったのが高松師であった。
鞍上の柴田政人も「状態はパーフェクト、勝ちに行きます!」と宣言。とはいえ、日本馬の今迄を考えれば重く見ることは出来ず、みんな軽視したせいか、もとより脚元の弱い馬ということもあったか
当日の人気は10番人気と低評価。一番人気は後に孫のシングスピールがジャパンカップを取ることになる牝馬ハイホークであった。

レースはハギノカムイオーがバカ逃げしてサクラシンゲキよろしく玉砕。
先行していたアンバーシャダイも直線向くと手応えが怪しい。それに代わって馬場の真ん中からキョウエイプロミスがじわりじわりと伸びる。
しかし外から前年4着、アスコット12ハロンのレコードをハービンジャーに破られるまで保持していたスタネーラが切れ味の違いで外から一気にかわす!ああ、またダメか…
だがプロミスは必死に粘る。食らいつく。200mに渡る叩き合い、フジテレビの解説であった大川慶次郎氏もラスト100mに入ると「プロミス!プロミス!」とひたすらに連呼し始めるほどの激戦に持ち込む。
ファンも、関係者もこれは!?と身を乗り出して見つめる中、ゴール。アタマ差スタネーラが粘り切っていた。2着敗戦。
日本馬による初勝利は達成出来なかったが、見事初めての連対を達成したのであった。しかし高松師も「そろそろ限界かもしれない」と懸念していた右前脚がついにパンク。
ゴール後繋靭帯不全断裂を発症し馬運車で退場。競走能力喪失、引退となってしまった。
しかし、彼が日本馬でもやれば出来るんじゃないか?という思いを関係者に取り戻させたことが、翌年のカツラギエースによる逃げ切り、そして光り輝く未来にに繋がっていく。

種牡馬入りしたが晩成のステイヤー故に成績は残せず、彼の血を引く馬はもういない。
しかし、彼が残った競争生命の全てを賭した全身全霊の走りで、日本の競馬関係者の「海外馬には勝てない、無理だ」という呪縛を解き放ったことが
90年代から現在における積極的な海外遠征や、勝利の歴史の第一歩となったことは心の片隅にでも覚えていてほしいものである。

血統表

*ボールドリック
Baldric
1961 黒鹿毛
Round Table
1954 黒鹿毛
Princequillo Prince Rose
Cosquilla
Knights Dauter Sir Cosmo
Feola
Two Cities
1948 鹿毛
Johnstown Jamestown
La France
Vienna Menow
Valse
チヨダクイン
1970 栗毛
FNo.16-a
*ネヴァービート
1960 栃栗毛
Never Say Die Nasrullah
Singing Grass
Bride Elect Big Game
Netherton Maid
*ヴァーヴ
1955 鹿毛
Nearco Pharos
Nogara
Straight Verse Straight Deal
Fille de Poete
競走馬の4代血統表

クロスNearco 3×5×5(18.75%)、Sir Gallahad III 5×5(6.25%)

  • 父ボールドリックは2000ギニーやチャンピオンSの優勝馬。
  • 母チヨダクインは5戦未勝利2着1回。
  • 母父ネヴァービートは10戦1勝だが、日本で1977年リーディングサイアーなど種牡馬として活躍した。

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関連項目

  • 競馬
  • 競走馬の一覧
  • 主なライバルたち
    • 1980年クラシック世代 - 同期
      • モンテプリンス
      • アンバーシャダイ
      • ヒカリデユール
    •  1981年クラシック世代
      • メジロティターン
    • 1982年クラシック世代
      • ハギノカムイオー

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