伊達政宗とは、
伊達政宗-(永禄10年8月3日(1567年9月5日)-寛永13年5月24日(1636年6月27日))は、
伊達家16代当主の父伊達輝宗の嫡男として米沢城で生まれた。
政宗という名は伊達家中興の祖である9代政宗にあやかって名付けられた。
幼い頃に天然痘にかかり右目を失明。
政宗の代名詞である「独眼竜」という呼び名は生前の呼び名ではなく、後世に名付けられたものである・・・というか大河ドラマ以降の二つ名。
17歳で家督を相続すると、かつての伊達家の繁栄を取り戻すべく周辺の勢力を討伐していった。
しかし、中央では織田信長の跡を継いだ豊臣秀吉による天下統一事業が着々と進み、政宗のところにも何度も停戦命令が届く。
それを黙殺し続けていた政宗であったが、当時伊達家と同盟を結んでいた北条氏の小田原城攻めが開始された段階でとうとう秀吉の下に屈した。小田原参陣の際に母親に毒殺されかけたなどの説があるが、これは不明な点が多い。
秀吉政権下では何度か謀反を疑われるもそのたびになんとか切り抜け、東北地方の有力勢力として存在し続けた。
関が原の戦いでは徳川家康の東軍側に付き、伯父の最上義光等東北諸大名と共に会津の上杉景勝を牽制する役目を担う。
江戸幕府が誕生すると政宗は仙台藩の初代当主となった。
晩年は美食研究などで知られ、政宗の美食研究の結果生まれたのが「ずんだ餅」「凍み豆腐」であると言われている。
尚、この美食が祟ったのか、晩年は肥満に悩まされたとも言い伝えられている。
戦国の気風を晩年まで保っていたことで三代将軍家光に慕われる事で知られ、もっと早くこの世に生まれていれば・・・そう思わせる人物である。
寛永13年5月24日(1636年6月27日)江戸上屋敷にて死去。享年70歳。
辞世の句は、「曇りなき 心の月を 先だてて 浮世の闇を 照してぞ行く 」
戒名:瑞巌寺殿貞山禅利大居士
墓所:瑞鳳殿(仙台市青葉区)
奥州の暴れん坊と呼ばれ、野望は晩年まで衰えなかったといわれる。
反面、文化・教養人としても知られ、後水尾天皇より和歌を激賞されたこともある。
手先も器用であったようで上述の通り料理を趣味とし、竹細工も得意とした。晩年は能に傾倒し、鼓の名人であった。
海外に目を向け仙台との貿易を考え、支倉常長をスペイン・ローマに遣わすという先見性も持っていた。
東北最大の都市である仙台市の発展の基礎を築いた。当時仙台は
「千代(せんだい)」と呼ばれていたが、これを「仙台(仙臺)」に改めたのは政宗である。
若いころから暴走していた政宗だが、江戸幕府が開かれた後も相変わらず暴走。
故に一部の歴史ファンには「DQN四天王北の政宗」「鮭様の甥のまーくん」「文化財クラッシャー」等の愛称で親しまれている。
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最終更新:2025/12/21(日) 13:00
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