佐々成政(さっさ・なりまさ 1536? ~ 1588)とは、戦国時代の武将、大名。ごく一部では登山家(アルピニスト)としても有名。
織田信長の親衛隊という立場から順調に出世を重ね、織田信長指揮のもと数々の合戦に従軍し、のち越中の領主となる。
本能寺の変の後は上杉氏を越中から追い払いつつ、織田信雄、徳川家康に接近。しかし関白となった秀吉の圧倒的戦力の前に敗北し、一度は領地を没収される。秀吉傘下で九州征伐後に肥後一国を与えられて復活…したかに見えた。
だが太閤検地に反発する動きを抑えきれず、大規模な肥後国人一揆を引き起こしてしまい、その責をとり切腹となる。
佐々盛宗の三男として誕生。兄に政次、孫介と2人いたが、織田信長の尾張平定戦などで相次いで戦死したため家督を相続する。織田信長の馬廻(直属の親衛隊)に選ばれ、成政はその中でも優秀だったらしく、馬廻の中でもエリートである黒母衣衆に抜擢される。美濃攻略戦では池田恒興とともに稲葉又右衛門(稲葉一鉄の叔父)を討ち取るなど早くから活躍する。黒母衣衆への抜擢にはこの活躍があったからだと言われている。
1570年(元亀元年)、姉川の戦いの前哨戦において、信長から直属の鉄砲隊を預けられ、簗田広正・中条家忠らと3人で殿(しんがり)を務めた。成政は3人の中で唯一負傷してしまったが、撤退戦自体は無事に完了した。余談だがさかのぼる事数年前、成政が黒母衣衆に抜擢される以前に、信長は自分自身で鉄砲を使用した撤退戦を指揮しており(長良川の戦い)、このあたりのノウハウを学習していたと思われる。
1574年(天正2)年、伊勢長島の戦いに従軍。織田軍は勝利したが、長男の松千代丸が戦死。成政の子供はこの松千代丸を除き、全て女子であった。1575(天正3)年の長篠の戦いでも鉄砲隊を任され、武田軍を迎撃。同戦における織田軍の大勝利に貢献した。
同年9月、越前の一向一揆を壊滅させた信長は越前を奪取。越前を任せた柴田勝家の与力として前田利家・不破光治、そして成政を越前に置いた。この時の与力とは柴田勝家の下位の協力者であり、同時に監視役でもあった。成政が能力と忠誠心を兼ね備えた人物であったことをうかがわせる。
とはいえ、激動する中央情勢もあり、当初は柴田勝家と分離して中央の織田信長のもとで戦うことが多かった。中国地方の毛利輝元や摂津の荒木村重討伐にも参加している。1580年(天正8)の神保長住への加勢に前後して柴田勝家と共同戦線を張ることが多くなり、1582(天正10)には越中国を任される大名にまで出世した。しかし同年に本能寺の変が起こる。
本能寺の変後、越中に侵入した上杉景勝を撃退し領国を守った。その後、織田家の主導権争いとして織田信孝・柴田勝家と織田信雄・羽柴秀吉が対立した賤ヶ岳の戦いでは、通説では柴田勝家に味方していたが上杉への牽制のために越中を離れられず賤ヶ岳本戦に参加する事は出来なかったとされる。しかし、近年の研究では異説も出ており、最初から織田信雄・羽柴秀吉側に味方したとの説もある。
従来、北陸方面を司る柴田勝家に味方し、賤ヶ岳の戦いでは柴田側として戦おうと考えるも、越後の上杉景勝との対立もあり、本戦に参加できなかったと考えられていた。後年に書かれた秀吉の朱印状からも賤ヶ岳当時の成政が勝家に味方していたという記述が見られる。
ところが、近年の書状研究などにより、佐々成政は柴田勝家と去就を共にしていなかったという説が出ており、従来「上杉景勝と対立したために、その備えとして身動きが取れなかった」と考えられていた部分が真っ向から崩されることとなったのである。この説では織田信雄・徳川家康と親しい立場にあったのではないかとされ賤ヶ岳の戦いや、その後の小牧長久手の戦いなども、その立場ゆえの行動をとったとされている。それにともない、この時期の上杉氏との関係にも諸説ある。
賤ヶ岳の戦いののちは織田信雄を織田家当主(代行)として認め、織田秀信・羽柴秀吉と織田信雄・徳川家康との間で戦が勃発すると(秀吉包囲網、小牧・長久手の戦い)、羽柴秀吉の権力増大をよしとせず、織田信雄に付き続けたが、やがて織田信雄・徳川家康は羽柴秀吉と和睦してしまう。成政は北アルプス立山連峰を越えて信雄・家康に会いに行き、再び挙兵し、秀吉と戦い続けるよう説得した(さらさら越え)が信雄・家康は同意しなかったとされる。しかし、このさらさら越えにも古くから異説が存在しており、これについては後述する。
説得に失敗した成政はのちに秀吉の攻撃を受け、秀吉に降伏せざるを得なくなり、織田信雄の仲介のもと秀吉に降伏、領地を没収された。
1587(天正15)年、九州を服属させた秀吉は、意外にも成政に肥後国(現在の熊本県)をまるまる与えた。
現在ではこの事を「(のちの成政の最期から考えて)秀吉の陰謀である」と考える向きもあるようだが、秀吉は味方になったばかりの小早川隆景にも九州の一部を統治させようとしている(多忙を理由に辞退された)ことを鑑みるに、単純に人材不足だったのだろう。朝鮮出兵の拠点となる九州のうちの一国を任せたのだから、成政の能力を買っていたことは確実である。
しかし成政の統治はうまくいかなかった。肥後はもともと菊池氏が治めていたが没落。続く阿蘇氏も没落し、国人全部が大名のような状態にあるという難儀な土地であった。その後の大友氏・龍造寺氏・島津氏のいわゆる九州三国時代を経ても、国人たちの勢力は衰えるどころか、ますます拡大しているという有様であり、彼らを平和的に服従させるのは容易なことではなかった。
秀吉はできる限り無難に彼らの勢力を削ごうとしたが、同時期に各地で検地が行われていた事や、秀吉の認めた領地が菊池氏時代のものである事などが彼らを刺激した。そもそも自力で勢力を拡大してきた(つもり)の彼らにとって、秀吉の直臣になったたはずなのに自分たちの上に大名(=成政)が置かれるという事自体、我慢のならない事であった。
こういった事が重なり同年、肥後国のほとんどが反・豊臣、反・成政となって一揆を起こした(肥後国人一揆)。成政はこの一揆を独力で鎮圧することができず、近場にいる武将たち(毛利秀包・小早川隆景・安国寺恵瓊・鍋島直茂・立花宗茂など)が肥後に出陣して一揆と戦い、ようやく事を収めることができた。
理由はどうあれ、敵将だった者に一国を任せたにも関わらず、地元勢力に一揆を起こさせ、それを鎮圧できなかったことから、秀吉も成政を処罰せざるを得なくなり、成政に切腹を命じた。
1588(天正16)年、成政は摂津国で切腹。生年が諸説あるため享年は確定していない。
事態を重く見た秀吉は、成政の後任として肥後国に腹心の加藤清正・小西行長の2人を送り込み、2つに分割して統治させることにした。この事実からも肥後国の複雑な事情が伺えよう。
佐々成政を語る上で、必ずと言っていいほど話題に上がるのがさらさら越えである。
これは、織田秀信を擁する羽柴秀吉と、織田信雄・徳川家康が戦った小牧・長久手の戦いの戦争中、ないし戦争後(史料にもよるが、夏と冬の二度行われたとする説もある。)に、和議を決め込む織田信雄・徳川家康を説得するべく、敵領国を突っ切って徳川家康・織田信雄のいる遠江、三河、尾張へと向かい、再度の抗戦など交渉を直談判したが、徒労に終わった、という逸話である。
この時、佐々成政は敵領国を突っ切るため、急峻難所の立山連峰を、真冬にも関わらず踏破し、必死の思いで徳川家康、ついで織田信雄に直談判して秀吉との抗戦を訴える、という熱い逸話であり、ファンの胸を熱くするものがあった。
しかし長年の間、この逸話に疑問が呈されている。というのも、この当時の佐々成政は若くても49歳という当時としては高齢であり、さらに現代に比べて遥かに装備や技術の劣る当時に、真冬にも関わらず現代でも難所とされる立山連峰の踏破を実行できるかどうか、というものであった。この問題は江戸時代から存在しており、加賀藩ではこのさらさら越えに関する調査を5回も行っている。
近年の否定説としては、実際に立山連峰を研究者が歩いて当時の技術と成政の年齢を考えれば無理だと結論づけ実際には飛騨を抜けたのではないかとした小林茂喜著『さらさら越え―佐々成政の決断』(2013年)や、上杉家臣村上義長を案内人として越後を抜けたのではないかという鈴木景二による『佐々成政の浜松行き道筋試案-有沢永貞『雑録追加』所収文書を手がかりに』(2008年)などがある。鈴木は2013年に見つかった佐々成政から村上義長に当てた書状の写し(「村上家系図書翰等控」)の存在が自説の証拠となると主張した。
結局のところさらさら越えの真実に関しては史学界でも未だに決着を見ておらず、現状、さらさら越えの説・ルートに関しては複数の候補があるというのが結論として仮定されている。以下に、さらさら越えにおける検証研究による、いくつかの説候補をあげる
しかし、いずれにせよ、どれも急峻な道のりを踏破したことに変わりはない。越後路はのちの参勤交代における難所の1つであり、立山連峰ほどではないが、かなり険しい道のりである。飛騨路においても、同様で、佐々成政のさらさら越えにはさらなる研究余地があるものの、佐々成政が不屈の決意で難所を越えた、これは紛れもない史実であろう。
富山大学教授 鈴木景二の説では佐々成政と上杉景勝の家臣、村上義長の両者は連携しており、佐々成政は立山連峰を通らず、村上氏の協力の下、立山連峰を迂回して越後を通って織田信雄・徳川家康の領内に向かったという。
2013年に発見された「村上家系図書翰等控」に含まれていた佐々成政から村上義長への書状の写しはこの説を裏付ける証拠となると鈴木教授は述べている。書状では、佐々成政の織田信雄・徳川家康の面会に村上義長が協力をし、そのお礼を佐々成政が述べたことが書かれている。この書状は現在金沢市の玉川図書館に保存されている。
ちなみに、村上氏の名でピンと来る人もいるかもしれないが、村上義長は村上義清の息子にあたり、兄の山浦国清ともども、上杉景勝に重用された重臣である。
しかし、この説には、さらさら越えが行われた時期に村上義長は上杉家臣ではない、という指摘がされている。
この村上義長の問題に関しては従来より九州大学名誉教授 服部英雄「佐々成政のザラ越えと旧信濃国人・村上義長の動向」によって指摘されているほか、「村上家系図書翰等控」が発見された翌年の『大日本資料』を編纂している東京大学史料編纂所報では「当時、信濃出身の村上義長は、本領回復を願いながら山岳地帯に潜伏していたようだ」としている。
村上義長が上杉家臣でないのであれば越後説の信ぴょう性は当然落ちることになる。当時の義長の所在候補としては上杉家臣の他に飛騨山中に潜伏、佐々家にて食客などの説もある。
成政の死に際し、時の帝・後陽成天皇が残した親筆である。成政はもともと大した身分の人間ではないし、主君の信長にしろ、秀吉にしろ、おせじにも良い家系とは言い難い(特に秀吉)。成政の娘が公家の鷹司家に嫁いでいることが関係しているのだろうか?どちらにせよ、成政のような立場の人間が天皇から死を惜しまれるのは稀なことである。
成政には男子がいなかった。佐久間盛政の弟・勝之が一時婿養子となっていたが、秀吉に敗れた後に離縁している。だが成政の娘や兄弟の家系が佐々の家名を名乗り続け、今も残っている。
子孫の中で比較的有名な人物が二人いる。二人とも成政の姉の子孫にあたる。
一人は水戸藩主・徳川光圀に仕えた佐々宗淳(さっさ・むねきよ)で、「水戸黄門」の助さん(佐々木助三郎)のモデルとして有名である(宗淳自身の通称は介三郎)。「大日本史」編纂事業のために各地へと派遣されて史料収集に務めた。こうした逸話がやがて黄門様自身による世直し旅という物語の元になっていく。登山したかは不明。
もう一人は佐々淳行(さっさ・あつゆき)氏である。氏は「あさま山荘事件」をはじめ数多くの警備実施に関わり、その経験から「危機管理」に関する本をいくつも著している。
皆勤賞。やはり最期の肥後国人一揆が影響してか、知略と政治は微妙なレベルを行き来しているが、戦闘能力は安定して優秀で鉄砲が得意。作品によっては小牧長久手や四国征伐絡みのシナリオ(1584~85)で大名として独立しているが、難易度は高い。
軍事能力 | 内政能力 | |||||||||||||||
戦国群雄伝(S2) | 戦闘 | 82 | 政治 | 66 | 魅力 | 67 | 野望 | 67 | ||||||||
武将風雲録(S1) | 戦闘 | 71 | 政治 | 60 | 魅力 | 66 | 野望 | 89 | 教養 | 52 | ||||||
覇王伝 | 采配 | 70 | 戦闘 | 81 | 智謀 | 27 | 政治 | 55 | 野望 | 84 | ||||||
天翔記 | 戦才 | 160(A) | 智才 | 74(B) | 政才 | 110(C) | 魅力 | 60 | 野望 | 74 | ||||||
将星録 | 戦闘 | 79 | 智謀 | 48 | 政治 | 52 | ||||||||||
烈風伝 | 采配 | 55 | 戦闘 | 74 | 智謀 | 42 | 政治 | 48 | ||||||||
嵐世記 | 采配 | 67 | 智謀 | 32 | 政治 | 23 | 野望 | 52 | ||||||||
蒼天録 | 統率 | 69 | 知略 | 27 | 政治 | 20 | ||||||||||
天下創世 | 統率 | 70 | 知略 | 27 | 政治 | 20 | 教養 | 41 | ||||||||
革新 | 統率 | 79 | 武勇 | 84 | 知略 | 33 | 政治 | 66 | ||||||||
天道 | 統率 | 79 | 武勇 | 84 | 知略 | 33 | 政治 | 66 | ||||||||
創造 | 統率 | 75 | 武勇 | 80 | 知略 | 59 | 政治 | 65 | ||||||||
大志 | 統率 | 78 | 武将 | 82 | 知略 | 76 | 内政 | 64 | 外政 | 64 |
掲示板
77 ななしのよっしん
2022/09/08(木) 15:43:53 ID: Ixq38Zaeit
もう少しゲームで強くてもいい気がする。
78 ななしのよっしん
2022/09/27(火) 15:28:16 ID: efOkp9/ZdA
ゲームはバランスがあるから割を食う人がいるのは仕方ないね
成政とかを中堅能力値にしとかないと織田家がチート武将だらけになる
知名度高い将が多いから現時点ですら平均値ヤバいもの
79 ななしのよっしん
2024/01/19(金) 15:40:33 ID: gGBX/SHcKS
新生のこの人はかなり強いぞ、滝川一益みたいなステ。
急上昇ワード改
最終更新:2024/11/08(金) 13:00
最終更新:2024/11/08(金) 12:00
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