溝口秀勝(1548 ~ 1610)とは、越後国新発田藩の初代藩主であり、「信長の野望」での無表情で真正面向きに覗き込んでいる様な顔グラから「こっち見んな」と顔芸キャラ扱いされる事が多くなったが、本質は自らの危険を顧みずに恩に報いる好漢であり、湿地帯だった新発田の開発に努めて明治まで続く新発田藩の基礎を築いたコーエーが評価しない隠れた名将である。
別名は「溝口定勝」
現在の新発田城には溝口秀勝の銅像が建立されており、新発田地方では、名君への畏敬の念の表れか、掃除道具の「箒(ほうき)」の事を、溝口秀勝の官名である「伯耆守(ほうきのかみ)」に遠慮して「ナデ」と呼ぶらしい。
甲斐源氏・逸見氏の庶流と言われる溝口家・溝口勝政の長男として尾張国中島郡溝口にて生まれる。
はじめは「溝口定勝」と名のって、織田家臣・丹羽長秀に仕え、武功により支社の丹羽長秀のところから本社の織田信長直轄の与力となり若狭国高浜城主となって5000石を得た。
織田信長が本能寺の変で散ると、再び丹羽長秀の元に戻り、主君と共に羽柴秀吉に協力して、柴田勝家との賤ヶ岳の戦いに従軍して、戦後、44000石の加賀大聖寺城主となり、丹羽長秀没後は後を継いだ丹羽長重に仕えていたが、豊臣秀吉により丹羽長重の所領を減らして溝口秀勝に与えた事から豊臣秀吉の家臣・堀秀政の与力となり、従五位下・伯耆守に叙位・任官した際に豊臣秀吉より「秀」の字を賜って名を「溝口秀勝」と改めた。
北陸軍団を率いて九州征伐や小田原の役にも従軍し、朝鮮出兵時には名護屋城に駐留して城の普請と警護にあたった他、大坂城の普請や京都東山大仏殿の造営等の普請事業に携わった後、堀秀政の後を継いだ堀秀治の家臣の時に、豊臣秀吉により(蒲生氏郷の死後その所領を削る目的で配置換えしたと言われる)
との大型異動が行われた際に、溝口秀勝は堀秀治に従って上杉家時代に新発田重家らが勢力を張った新発田60000石を加増され、一族の他、千人を越える家臣や付き合いのあった商人・職人・菩提寺の住職や、果ては越前時代の所領の農民までもが大勢従って同地に入り、寂れていた新発田城の普請や城下町の建設、湿地帯で多くの潟・沼・池が散在した未開墾地の多い新発田の地の検地や治水に尽力した。
※溝口秀勝が始めた新発田の新田開発は代々の新発田藩主に受け継がれ、同地入りした際は実質20000石だったところが、幕末には実質200000石の大穀倉地帯となっている。
関ヶ原の戦いが勃発すると、徳川家康の東軍に属した堀秀治に従って、西軍の上杉景勝の策謀により蜂起した上杉遺民による一揆の鎮圧に努め、その功により徳川家康から直々に感状をゲットして、江戸城の堀普請を担当する等、外様大名としての地位を確立して幕末まで続く新発田藩をつくりあげて1610年新発田の地で没した。享年63歳。
※その他「溝口秀勝」の詳細についてはWikipediaの該当記事
参照の事。
溝口秀勝が、堀秀治の越後入りに従って所領となった新発田の地へ赴く最中、上杉家が去った為に治安が悪化してた越後において野武士集団の襲撃を受け、大人数且つ、武士でないものも多数ついてきていた引越の途中とあって不意をつかれた溝口秀勝一行だったが、野武士の背後から援軍が現れて挟み撃ちすることにより撃退に成功した。
襲撃を受けた際に溝口秀勝一行に協力したのは、治安悪化を憂いて私費で周辺の治安維持にあたっていた商人・菊屋を営む五十嵐新五郎であり、その心意気に感服した溝口秀勝は、五十嵐新五郎の道案内にて無事新発田の地にたどり着いた。
後年、この時に受けた恩を溝口秀勝は自らの危険も顧みずに返す事になる。
それは、関ヶ原の戦いが勃発し、西軍の上杉景勝の策謀で越後の上杉遺民による一揆が勃発すると、上杉時代から越後で商家を営み、治安維持の為にと私費で傭兵を雇っていた事もあった五十嵐新五郎は上杉家内通の疑いがもたれ、春日山城の堀秀治の元へと連行されてしまった。
上杉家の扇動によると思われる一揆に悩まされていた堀秀治により、弁明も通らずに死罪と決まった五十嵐新五郎は、最後の頼みと溝口秀勝へと「上杉家に通じた事を事実とされるならいかなる処分もうけるのできちんとした詮議をしてほしい」という堂々とした弁明状を持たせた使者を送った。
新発田入りの際に助けてもらった五十嵐新五郎の窮地と知った溝口秀勝は、春日山城に赴いて主君・堀秀治に五十嵐新五郎をきちんと取調べするように要求するも、堀秀治は旗下の与力にすぎない溝口秀勝に対して頑なに突っぱね続けた。(「信長の野望」の顔グラはこの時をイメージしたものだったりして・・・)
※溝口秀勝に難題をふっかけつづけたとも言われている。
押し問答に埒があかないとなった溝口秀勝は、
この上は是非も無し
と、新発田入りの際に助けられた恩に報いる為に、手勢をもって五十嵐新五郎の牢を取り囲むと言う主君への反乱ともとられかねない行動に出た。
内側にも問題をかかえていた堀秀治は、溝口秀勝の強硬姿勢に折れて五十嵐新五郎を解放し、溝口秀勝に預けて堀家が改易されるまでの間、新発田の地に置きとどめた。
※無理難題を尽くクリアして引き取りに成功したとも言われている。
この「恩に報いる」心意気は、曾孫に引き継がれた・・・忠臣蔵でおなじみ堀部家の養子となって義父と浅野長矩へと報いた堀部安兵衛である。
| 軍事能力 | 内政能力 | |||||||||||||||
| 戦国群雄伝(S1) | 戦闘 | - | 政治 | - | 魅力 | - | 野望 | - | ||||||||
| 武将風雲録(S1) | 戦闘 | - | 政治 | - | 魅力 | - | 野望 | - | 教養 | - | ||||||
| 覇王伝 | 采配 | 70 | 戦闘 | 58 | 智謀 | 31 | 政治 | 67 | 野望 | 41 | ||||||
| 天翔記 | 戦才 | 128(B) | 智才 | 114(B) | 政才 | 120(B) | 魅力 | 61 | 野望 | 71 | ||||||
| 将星録 | 戦闘 | 60 | 智謀 | 62 | 政治 | 59 | ||||||||||
| 烈風伝 | 采配 | 51 | 戦闘 | 55 | 智謀 | 47 | 政治 | 58 | ||||||||
| 嵐世記 | 采配 | 41 | 智謀 | 25 | 政治 | 47 | 野望 | 48 | ||||||||
| 蒼天録 | 統率 | 48 | 知略 | 52 | 政治 | 49 | ||||||||||
| 天下創世 | 統率 | 46 | 知略 | 49 | 政治 | 49 | 教養 | 40 | ||||||||
| 革新 | 統率 | 52 | 武勇 | 47 | 知略 | 55 | 政治 | 55 | ||||||||
| 天道 | 統率 | 52 | 武勇 | 47 | 知略 | 55 | 政治 | 55 | ||||||||
| 創造 | 統率 | 50 | 武勇 | 53 | 知略 | 56 | 政治 | 55 | ||||||||
| 大志 | 統率 | 49 | 武勇 | 52 | 知略 | 57 | 内政 | 55 | 外政 | 55 | ||||||
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最終更新:2025/12/16(火) 13:00
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