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秀吉包囲網単語

ヒデヨシホウイモウ

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秀吉包囲網とは、1584年(正12年)に日本の各地で起こった複数の勢による対羽柴秀吉の一連の軍事行動である。特に小牧・長久手の戦いが代表的。

概要

山崎の戦い賤ヶ岳の戦い勝利して、織田臣の身でありながらに迫るほどの勢を持った羽柴秀吉に対し、それを危険視した織田信雄徳川家康らが共謀して戦った。各地の諸侯は秀吉体制を歓迎する者、逆にそれを警する者、織田との関係を築く者など、様々な思惑の下に両者に追従した。

その結果、中央政権である織田中はっ二つに分かれて対立し、この内乱に巻き込まれる形で戦いは関東から九州に至るまで全各地で発生。ほぼ全の大名が2つの営に分かれて戦ったことは、のちの関ヶ原の戦いに至る「日本に波及する総力戦」の前とも言える。

戦役自体は小競り合い・睨み合いが続くなど長期化した末、和が結ばれて結果的には痛み分けに終わる。しかし、羽柴秀吉の官位が一気に引き上げられるなど、朝廷秀吉支持が明確化した。この戦いを(勝利しなかったとはいえ)切り抜けた事で、羽柴秀吉の勢拡大を止められる者はいなくなったと言える。

やがて四国征伐を経て朝廷護の下に関白に就任、豊臣を創設、織田・徳事実上臣従させ、数年後には豊臣政権における天下統一が成し遂げられた。

名称に関して

呼称については諸説あり、江戸時代は「小牧の」「長久手合戦/長久手の戦い」と呼ばれる事が多かった。特に徳幕府の線で話がられる関係で、数ある局地戦闘のひとつであるはずの長久手合戦(徳方が戦術的に勝利)が全体像であるかのような「小牧・長久手の戦い」という呼び方が流布していったようだ。

明治時代以降は一連の戦役をして「小牧の役」とする呼び名が登場。近年では広範囲の戦争す「正十二年の東海戦役」という名称も提案された。とは言え、これらは学術的な用の域に留まっており、世間一般的には「小牧・長久手の戦い」が戦役全体の名称として用いられているのもまた事実である。呼称議論は未だに続いており、現状確定を見ていない。

この記事では東海地方(小牧・長久手)の争い以外も含めた、秀吉相手に信雄・家康が計画した全規模の多方面作戦眼を置く形で「秀吉包囲網」を記事名としている。

各地での戦い

羽柴秀吉織田信雄徳川家康連合が争った小牧・長久手の戦い(長久手合戦)』(詳細は該当記事参照)を中心に、近隣地域でも連動する形で複数の戦いが発生した。

関東では北条氏と反北条連合の戦いである沼尻の戦いが、北陸では前田利家佐々成政が争った末森城の戦いが起こっている。

西にを向けると紀伊の雑賀衆、四国長宗我部氏も秀吉営への攻撃を仕掛けており、『秀吉包囲網』と例えられる広範囲での戦いが繰り広げられた。

東北九州では大規模な衝突こそ起こらなかったが、やはり親秀吉・親信雄・家康に分かれての対立関係が形作られている。

前史

賤ヶ岳の戦い」以前の前史については「本能寺の変」「山崎の戦い」「賤ヶ岳の戦い」「織田秀信の勢力版図と政権体制」を参照。

本能寺の変から2年。信長亡き後の織田政権導権を握る争いが繰り広げられた結果、「当代行・織田信雄」「政権の最大実者・羽柴秀吉という二頭が並び立つに至った。信雄は賤ヶ岳の戦いの後、三法師の後見人」「織田の当代行」という地位をゲットして安土城へと移った。一方秀吉摂津に巨大な大坂城を築き、新たな拠点とした。

また、長年の織田の同盟者である徳川家康も勢を伸ばし、存在感を高めていた。やがて、それまで協調していた信雄と秀吉も対立が深まっていく。信雄と家康は手を組み、更には利の一致する「反秀吉」の諸侯たちにも呼びかけながら秀吉と対峙する事になった。

この時点で織田の当(代行)は信雄であり、秀吉はあくまで織田臣の立場である。だが秀吉京都も影下に置いており、織田中に占める勢の割合は並ぶ者のいないレベル。このいびつな関係が、両者の対立へと繋がっていく。織田秀信は当時3歳であり、この対立を止めることはできなかった。

徳川家康の勢力拡大

一方、長年の織田の同盟者である徳川家康は、午の乱を経て甲斐信濃南部を新たに支配下に置いた。この乱で対立した北条氏とは、家康・督が北条北条氏直ぐ事で和婚姻・同盟関係を結ぶ。この仲介役になったのが織田信雄だった。

こうして信雄・家康・北条の友好関係が作られていく。対する佐竹義重宇都宮綱といった東関東諸侯は同盟を組み反北条を貫き抵抗。同時期秀吉へと接近を試みる。

秀吉・信雄・家康を巡る諸侯の動向

それ以外の諸侯の同時期の動きについては「本能寺の変により変動した主な勢力」を参照。本稿では賤ヶ岳の戦い以降からの動向を中心に記述する。

北陸

一時は滅亡寸前まで追い込まれていた上杉景勝は、本能寺の変なんとか命拾いした。その後は北信濃に勢を伸ばしつつ、新発田重家の乱の鎮圧にも兵を割いている。対立していた柴田勝家の滅亡などもあって、やがて秀吉への接近を考え始める。

柴田勝家亡き後の能登加賀には前田利家が入り、越中佐々成政が引き続き治めている。この両者は同僚ではあるが以前から微妙な関係である。利は賤ヶ岳での寝返り以降は秀吉と昵懇な関係だったが、一方の成政は飛騨のいい笑顔姉小路頼綱とともに、信濃まで勢を拡げた家康へと接近していったようだ。

近畿・中国・四国

紀伊の雑賀衆は石山本願寺が降伏した後、織田に従おうとする鈴木重秀(孫)と、反織田する土橋守重とが対立。本寺で信長が斃れると、孫は追放された。その後は根来寺や畠山氏残党などとも協関係を結び、織田政権(実質的には秀吉)と対峙していた。柴田勢の生き残り・佐久間安政も落ち延びて、ここに合流している。

安芸の毛利輝元、備前の宇喜多秀家は、この時期親秀吉である。

四国長宗我部元親は、賤ヶ岳の戦いでは信孝・勝に味方するなど反秀吉の姿勢を取り続けている。讃岐十河存保秀吉方について長宗我部に抵抗していたが、戦況は厳しかった。

1584年時点で、秀吉は紀州・四国の征伐を企図している(実際に行われるのは翌1585年)。

開戦

1584年には既に羽柴秀吉織田信雄の関係は険悪化しており、信雄は安土城を退去させられていた。関係悪化の理由については諸説あり、はっきりしていない。秀吉が野心を剥き出しにして信雄を追いやったとか、逆に信雄が三法師にとってかわって恒久的な当になろうと考えたとか、色々言われているが現状推測の域である。

3月秀吉との決戦渋る家老岡田重孝・浅井長時)を誅殺した信雄は、徳川家康らと同盟して挙兵する。これが全規模へと伝播する戦乱の始まりとなった。

な秀信・秀吉 な信雄・家康(反秀吉
織田秀信三法師
織田織田信忠長男。直轄3万石。御歳5歳の幼君
羽柴秀吉
織田の筆頭重臣。清四宿老の1人。勢は他の織田臣と隔絶
織田信雄
織田信長の次男。三法師叔父織田代行
徳川家康
三河の大名。信長の盟友。信雄らと昵懇
丹羽長秀
織田の筆頭重臣。清四宿老の1人。若狭越前を領する
織田秀勝羽柴秀勝
信長の四男。秀吉の養子。丹波を領する
羽柴秀長
織田臣。秀吉
池田恒興[1]
織田臣。清四宿老の1人。美濃を領する
森長可[2]
織田臣。池田恒興婿
堀秀政
織田臣。信長の側近。秀信傅役
蒲生氏郷
織田臣。信長婿
織田信包
信長(※当初は中立)
滝川一益[3]
織田臣(※当初は居、静観)
織田
織田重臣。先代信秀以来の
織田有楽斎
信長
土方雄久
織田信雄臣。信雄と縁戚
滝川雄利
織田信雄臣。滝川一益婿
木造具政
織田信雄臣。北畠出身
北陸方面
前田利家
織田臣。能登加賀を領する
上杉景勝[4]
越後の大名
佐々成政
織田臣。越中を領する
姉小路頼綱
飛騨の大名
関東方面
佐竹義重
常陸の大名。反北条の盟的存在。秀吉に接近
宇都宮
下野の大名
北条氏直
相模の大名。家康婿信長と婚約
北条氏政
北条前当事実上の総帥
畿内・西方面
黒田孝高
織田臣。秀吉に接近。大坂城留守
蜂須賀正勝
織田臣。秀吉に接近。大坂城留守
十河存保
讃岐の大名(織田に臣従)。秀吉に接近
毛利輝元
安芸の大名。本能寺の変後、秀吉に接近
宇喜多秀家
備前の大名。秀吉と昵懇
長宗我部元親
土佐の大名。四国にて躍動
紀伊雑賀衆(土橋氏)
紀伊の土集団。一部が秀吉に敵対[5]

その他各地の勢も、中央の争いと連動するように戦いを開始する。

犬山・小牧山の攻防(3月)

1584年3月織田信雄徳川家康らって挙兵。更に長宗我部元親にも協を要請した信雄は、元親への書状で「秀吉下を意のままにしている」とするなど、反秀吉の態度を明確にした。その後、家康は信雄の領内である清に入した。

秀吉側は信雄の所領の尾に侵入。重要拠点の小牧山を巡っての戦いが起こった。

詳細は「小牧・長久手の戦い」の記事内「小牧・長久手の戦い前哨戦」の項を参考。

秀吉も尾に出したが、戦況は地構築戦に移り、たがいに手出しが難しくなってしまい、にらみ合いに終始する事になる。

正攻法で太刀打ちするのが困難と考えた信雄・家康は、積極的に味方を募って連携を強めるべく行動を開始する。家康婿北条氏直に協を要請し、信雄は長宗我部元親・雑賀衆にも協を募った。

紀州勢の挙兵(3月)

信雄・家康の協要請を受諾した紀州雑賀衆は、根来寺・粉河寺や淡路衆と協して和泉岸和田へと出張り、そのまま進軍してまで迫った。ちょうど秀吉大坂を出発した翌日(3月22日)に岸和田が襲撃されている。なんというジャストタイミング[6]岸和田の守将は中村一氏であり、劣勢ながらもなんとか守りきった。この時、大に乗った僧侶が現れてを守ったという「地蔵伝説」が伝わっている。
だがは占拠され、紀州勢は続いて大坂へと進軍する。

紀州勢の数が3万にも及んだとされる一方、軍が尾へと向かった後の大坂を守る軍勢は当時8千程度と言われ、防備を固めていた黒田長政らが必死の防戦を見せた。鉄壁の要という印が強い大坂城ではあるが、前年に築されたばかりの当時は下の整備も終わっていない状況で、苦戦を強いられたが紀州勢をなんとか撤退させた。

結局、大坂は散々に被害り、秀吉が一時大坂に戻らなければならないほどであった。当時の雑賀衆は長宗我部元親と同盟を結んでおり、信雄・家康はさらに長宗我部氏にも即時参戦を要したが、これは戦略上の問題を理由に元親から断られている。

関東:沼尻の戦い(4月~8月)

家康北条氏直に協を要請した[7]。こうした遣り取りは先年より行われていて、予定の範疇と言えるものであった。北条氏は要請に応え、尾方面へ援軍を送るつもりであったと言われる。だが一方で、前史でも述べた通り、佐竹義重宇都宮綱を中心とした反北条団結秀吉へと接近していた。

戦線が緊している1584年4月関東では小競り合いを契機として佐竹宇都宮ら反北条諸侯が挙兵した。北条勢と反北条勢は5月下野にて対する。戦い自体は大きな衝突がほとんどないまま4ヶ間続き、8月に和が成立した。

大きな被害もなく終わった戦いであるが、結果的に北条氏は予定していた尾への援軍を派遣できず、反北条勢の挙兵の背景には秀吉による企図があったと見られている。

同時期、上杉氏が秀吉の要請で信濃兵し、徳川家康の背後を脅かしたと言われる。こうした秀吉側の遠交近攻策によって信雄・家康営は撹乱される事になる。

長久手の戦い(4月)

睨み合いの続く尾戦線だったが、4月上旬、羽柴秀吉がついに動いた。長久手の戦いの始まりである。

秀吉は別働隊による三河奇襲作戦(中入り)を実行に移すが、信雄・家康はこれを看破して撃退し、秀吉側の池田恒興森長可を討死させた。詳細は『小牧・長久手の戦い』記事内、「長久手の戦い本戦」の項を参照。

この戦い自体は家康・信雄側が戦術的勝利を収めたが、秀吉の戦は依然として大きく、再び両営はにらみ合いに入る。

尾張戦線の膠着(5月)

羽柴秀吉は長久手での局地的敗北を受け、今度は広範囲で軍団を動かし圧迫していく作戦へと移行した。

伊勢方面の揮は羽柴秀長に命じて、を攻め落とすなど信雄の領地を攻略していく。一方の家康に対しては、先述の沼尻の戦いや、手薄な信濃方面に謀略を仕掛けるなど後方撹乱を図った。更に秀吉自らは大軍を率いて、得意の攻めで尾各地(加賀野井ヶ鼻など)を攻略していった。ちなみにヶ鼻では攻めも行っている。

この時の秀吉は不用意な攻めは一切せず、信雄・家康軍を警しながらの攻めにした。信雄・家康滝川雄利や本多忠勝を援軍に派遣したが、ことごとく阻止されてしまう。しかし秀吉は信雄・家康軍との決戦を望んでいたのか、援軍が来ないとわかるとあっさりと降伏条件を出して、寛容な態度で開に持ち込んでいる。信雄・家康側も後詰を送れない状況から、将には降伏を受け入れるように伝えるしかなかった。

こうして各地のが陥落してはいたが、大規模な突は起こらず尾戦線は再び着、お互いに決め手を欠く状態が続いた。

美濃の攻防、両軍の外交戦(4~6月)

一方で、長久手の戦いにて森長可が戦死した影で、東美濃では戦局が動いた。かつて長可に領地を追われた遠山護していた家康は、彼を東濃に派遣して旧領を回復させ、秀吉の後方を脅かした。

少し時系列は順序するが、長久手の戦いにおける信雄・家康軍の勝利は、想像以上に大きい影があったようだ。家康たちは信雄の上も視野に入れ、長久手の勝利を喧伝し、更なる協要請を広範囲にわたって行っている。東濃方面への進出も長久手の直後であり、余勢をかって行ったものである。

この宣伝活動が功を奏したか、5月頃には畿内でも「秀吉が尾にて敗戦・退却した」という聞が流れ、一時は騒然とするが、6月頃にはそれも落ち着いていった。また秀吉佐竹義重に対して「絶対的優勢」を大本営発表書状で伝えるなど、お互いに情報戦が盛んに行われた。

四国:十河城の戦い(6月)

再び着状態になった尾戦線とは対照的に、西側がにわかに慌ただしくなった。織田信雄徳川家康の協要請を受けていた四国長宗我部元親が、遂に軍事行動を開始したのである。

当時の四国は、三好一族の生き残り・讃岐十河存保織田および秀吉支援なんとか抵抗していた。元親はこの十河勢を次々と攻略し、6月11日に本拠地・十河を落させる(第二次十河の戦い)。敗れた十河存保秀吉のもとへ逃れた。

更に信雄・家康は、元親に渡しての大坂攻撃を依頼する。秀吉打倒のあかつきには褒賞として信雄は備前を、家康摂津・播磨・淡路長宗我部氏に与えようと約束する太っっぷりであった。取らぬの皮算用とも言う。元親は淡路・雑賀衆らとも同盟を結んでおり、それほどに当時の長宗我部の勢いは強かった。これには秀吉も警し、一度大坂に戻っている。

その後も信雄・家康は元親との交渉を続けており、「には上」という内容の大本営発表書状を伝えている。

長宗我部元親はこの後、渡・畿内進軍をにおわせ続けたが、結局渡する事はなかった。なんという渡詐欺実際のところ、まだ伊予河野通直[8]とは敵対関係で、河野バックには毛利がおり、そして毛利秀吉側…という訳で、安易に土佐を留守に出来るような状況ではなかった。それでも元親の存在は秀吉に対する一定の牽制になっており、続くの戦いに大きな影を与える事になる。

伊勢尾張:蟹江城の戦い(6月~7月)

伊勢方面には羽柴秀長蒲生氏郷らが進軍していた。だが対する信雄・家康営は、救援がほとんどないにも関わらず頑強に抵抗を続けていた。のちに中立的態度を取っていた織田信包(安濃)が秀吉側に味方するも、状況はあまり変わらなかった。

そこで秀吉は、昨年の賤ヶ岳で敵対して居の身となっていた滝川一益を赦して復帰させ、路を利用しての諸攻略を命じた。ターゲットは尾南西に位置するである。ここは信雄の本拠地長島と、家康が滞在する清の中間点にあり、これを分断するのが的だった。

6月16日、一益の電撃作戦が始まり、信雄方についていた九鬼嘉隆前田長定・前田長種[9]らを寝返らせ、佐久間信栄[10]らが守る、下市場前田などを次々と占拠した。

しかし大野山口重政は降伏せずに抵抗し続け、翌日には信雄・家康の援軍が到着したため、当初の作戦は破綻する。一益はに籠したが、援軍は来ず、7月3日に降伏に追い込まれた。一益らは助命されたが、前田長定は殺された。

この時の秀吉長宗我部元親などへの対応にも追われて各地を転々としており、素い判断ができなかった。を確保できなかった事で、羽柴秀長堀秀政らによる伊勢への大侵攻も見送られ、結局これまで通りの小競り合いが続くことになる。長久手の戦いに続き、ここでも秀吉は総兵の利を活かした大合戦に持ち込めずに終わってしまった。

その後も伊勢方面における信雄方の頑強な抵抗は続いた。9月になって蒲生氏郷が木造具政と戦って勝利しているが、戦局が好転することは結局なかった。

北陸:末森城の戦い(8~9月)

8月羽柴秀吉は再び尾にて織田信雄徳川家康連合軍と対峙していた。だがこの頃になると流石に両軍とも厭戦気分なのか、直接的な軍事衝突はほとんど見られなくなった。

だが、着する一方の中央戦線に対し、地方では連動した合戦がいくつか発生している。

北陸地方では、信雄らと友好関係にあった越中佐々成政がついに挙兵する。秀吉と昵懇な関係を築く前田利家が領する隣能登へと怒涛のごとく進軍し、9月9日には能登加賀を結ぶ位置にあるを攻囲した。戦況は佐々軍に有利であったが、前田利家も援軍を率いて急ぎ駆け付け、11日に佐々軍に奇襲をかける。これに敗れて成政は撤退していった。両軍同数程度の犠牲であったという。

を守る奥村助右衛門必死の防戦をみせ、彼の妻も兵を介護し叱励するなど大いに奮戦した。この戦いは漫画花の慶次』にも描かれている。小便くらいやがれーっ!

この後、秀吉の意を受けたのか、越後の上杉景勝越中方面に軍を派遣し、付近にある佐々成政を数ヶかけて攻め落としたりもした。

信濃:妻籠城の戦い(9月)

9月、徳下にあった木曽の領木曽義昌が、数々の内応工作の末についに羽柴秀吉へと帰順した。秀吉との戦いで戦地を離れられなかった家康は、臣としていた信濃たち(保科正直・諏訪頼忠・小笠原貞慶など)を木曽討伐に派遣するが、妻籠を守る木曽臣・山村良勝の前に敗退した。

秀吉方の調略の数々によって、家康信濃支配は動揺し始める。翌年にはかの有名な真田昌幸が離反して、第一次上田合戦が発生する事になる。

中央戦線の終局

ここにきて、約半年に渡る戦争を続けながらも、両軍ほぼ全な着状態に陥り続けた中央勢は、次第に和へと方向を転換する。和の意図としては、織田秀信羽柴秀吉営は大軍を一箇所に駐屯し続けていることが既に限界に達し、特に四国長宗我部元親九州島津義久が敵対行動を続けながら勢を拡大させており、早急な善処が見込まれることが理由であったと言われている。

一方の織田信雄徳川家康営では、局地的な勝利こそいくつかあげているものの、兵差における圧倒的な戦差があることや、徳信濃織田伊勢といった中心戦地以外での不穏分子や抗戦限界を放置し続けることが難しい状況にあった。また当時の徳川家康本人の体調が芳しくなかったことが史料から確認されており、翌年生死のを彷徨っていることからこれが和の一つの理由になったかもしれない。

とまれ、ここに両営の思惑から、11月15日羽柴秀吉織田信雄による和が結ばれ、その直後に羽柴秀吉徳川家康の和が結ばれることとなった。なお後年この行為が「家康様は秀吉に勝てそうだったのに、信雄の無能gkbrして勝手に和議結びやがった」とスケープゴートのダシに使われる羽になる。

この和は、あくまでも正十二年における一連の戦争に対する和であり、この戦争でどちらかの営を一方的に崩した、ということはなく、この段階では痛み分け、という結果に終わった。

和睦後の影響と豊臣政権

しかし、この一連の戦争を和という形で終わらせたことで、が一番得をしたか?それは羽柴秀吉その人に他ならない。

羽柴秀吉は和を結んだ直後から一気に自らの勢強化と、敵営の切り崩しを行う。和後の12月には自らの養子である織田秀勝毛利輝元婚姻させ、毛利氏との関係を強化。

あけて1585年に秀吉は、敵営の切り崩しを一気に成し遂げる。に紀州征伐で紀伊雑賀衆を化して降伏させると、5月には四国征伐羽柴秀長らの活躍のもと長宗我部元親を降伏させる。8月には佐々成政姉小路頼綱を降伏させ、越中、飛騨にも勢を伸ばした。

同年同秀吉朝廷の内部対立を利用して関白に就任。翌年には豊臣氏まで賜り、朝廷の威背景に自らが下人下の統治者であることを明確化し、藤原氏の権も手中にして全の大名を従えんとする。かつて織田信長を輩出し、天下統一をほぼ達成した織田が、朝廷の権をも手中に収めた豊臣秀吉の後を拝することになる間であった。

一方の同年における徳川家康は、病で生死のを彷徨ったり、真田昌幸に離反され、追討軍を派遣するも撃退され、さらには重臣の石川数正らが離反するという事態になるなど、明暗別れる年となった。

やがて当事者の織田信雄徳川家康をはじめ、各地の大名は順次豊臣政権に従属。秀吉君にあたる織田秀信も、こうなっては秀吉に従わざるを得なくなった。織田下のの座から転落し、以後天下統一をする政権のもと、後を拝しながら存続を続けた。しかし結果的に、秀吉を苦しめる形でその後もを蓄えつつ臣従した徳川家康は、秀吉の死後、豊臣を滅ぼし天下統一をすることと相成った。

関連動画

関連項目

脚注

  1. *当初は信雄・家康と見られていたが、開戦直後に秀吉に転向
  2. *当初は信雄・家康と見られていたが、開戦直後に秀吉に転向
  3. *賤ヶ岳の戦い後、居処分となり剃髪していたが、秀吉の呼びかけで途中復帰
  4. *当初は不明瞭な対応を見せるも、徐々に秀吉に接近
  5. *数年前より内紛を起こしており、追放された鈴木重秀雑賀孫市)らは秀吉の下で東海へ従軍
  6. *元々秀吉と対立関係にあったので、協要請とか関係なく攻め込んだという考えもある
  7. *正十二年四月六日付、北条氏規書状より
  8. *伊予守のほう
  9. *前田利家の遠縁。こちらが前田本家らしい
  10. *佐久間信盛の子で、かつて信長共々追放されていたが、復帰していた

掲示板

  • 209ななしのよっしん

    2018/12/28(金) 00:20:35 ID: J0xmOWcDS+

    >>204
    この記事の問題点は、信長を呼び捨てにした時点の秀吉の立場をまったく書いてない事だよ
    1585年の秀吉信長の官位をはるかえる関白にまで就任して、臣従した大名や臣たちの手前、織田どころかかの部下のような振る舞いは許されない存在になってる
    それなのに、その点を視して信長を敬ってない人物のような書き方をするから、>>205のような見当違いな考えが出てくる
    むしろ当時の価値観なら、死んだ君の存在をえた立場になったのに、いつまでも死んだ君の部下のような振る舞いをしてるこそ、頼りないと見なされて逆に嫌われるわ

  • 210ななしのよっしん

    2018/12/28(金) 03:32:09 ID: E9eR3Dm+Ps

    >>209
    そこら辺が「自らの権勢を誇示している」って事になるんだろうけど。
    まあ、秀吉信長の後を継いだ、経営者交代みたいな現代的な理解だと不自然に感じられる部分かもなあ。
    けどよく考えてみたら、織田と権闘争した後、この書状の内容で、信長にへりくだった表現使ってたらむしろギャグだしな。
    そういう点をいて読んでみると、信長を諱で呼んでみたり、信長政権下を「甘い」と言ってみたりってのは、わりと表現の距離が近くて微笑ましさも感じる。

  • 211ななしのよっしん

    2019/02/11(月) 08:59:58 ID: Q/kaWjWv4J

    数かに一回のペースで数万導人動員して敵対者を各個撃破していくこの頃の秀吉マジチート

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