塩谷和彦とは、暗黒であり、最下位請負人である。阪神、オリックスに所属した。
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神港学園高校から、1992年のドラフト6位で阪神タイガースに入団。入団時のポジションは捕手。3年目に一軍デビューを果たし、4年目のシーズン最終戦でプロ入り第1号となる代打満塁本塁打を放つ(このとき、新庄剛志が先に同じイニングに満塁本塁打を放っており、プロ野球史上初の1イニング2満塁本塁打を記録)。
6年目の98年から出場機会を求めて三塁手に転向。99年には44試合、2000年には48試合に出場するが、一軍定着とはならなかった。2001年オフ、斉藤秀光とのトレードでオリックス・ブルーウェーブに移籍。記者会見で「阪神を見返したい」と息巻く。
移籍1年目の2002年は一塁・左翼の準レギュラーの地位を掴むと、2003年には一塁のレギュラーを確保し規定打席に到達、打率.307をマークしオールスター出場を果たし「誰やアイツ」的扱いを受けた。2004年も三塁のレギュラーとしてそこそこの成績を残し、分配ドラフトでオリックス・バファローズへ。
しかし2005年は北川博敏や後藤光尊らに蹴落とされる格好となり、16試合の出場に終わり、オフに戦力外通告を受ける。2006年は韓国に渡りSKワイバーンズに所属したが、故障であっという間に解雇され、現役を引退した。
……とまあ、個人としての経歴を書くだけならごく普通のプロ野球選手なのだが、彼の特異性はその疫病神っぷりにある。NPBでプレーした13年間のうち、所属チームは一度もAクラス入りできず、阪神所属の98年からオリックス移籍後の2004年まで2球団に渡って7年連続最下位、通算で最下位9度。13年間で所属したチームの通算勝敗は715勝1014敗と僅か13年で通算1000敗を達成。
それだけに留まらず、塩谷が移籍した2001年まで4年連続最下位だった阪神は翌年4位、2003年には18年ぶりのリーグ優勝を果たした一方、塩谷入団前までは3位→3位→4位→4位であったオリックスは塩谷入団から3年連続最下位に終わった。その恐るべき暗黒力はファンを戦々恐々とさせ、「最下位請負人」なる異名まで与えられた。2004年オフに阪神へのトレードの噂が持ち上がった(結局立ち消え)際には阪神ファンから悲鳴があがったという。塩谷本人も「一度でいいからAクラスに入りたい」と嘆いていたが、その望みは生涯叶うことは無かった。
ちなみに、韓国で所属したSKワイバーンズも、2005年は3位、2007年と2008年は連覇を達成しているにもかかわらず、塩谷の所属した2006年だけは8球団中6位に終わっており、海を渡ってもその暗黒力は健在であった。
またその暗黒力とともに、数々のビッグマウス、首脳陣批判などの問題行動も一部で有名であった。その逸話の数々はここではとても書ききれないのでこのあたりを参照されたい。
現役引退後の消息はしばらく不明であったが、2010年に独立リーグ・BCリーグの福井ミラクルエレファンツの野手コーチに就任。しかし開幕直前に一身上の都合で退団、その後の消息は再び不明となっている。なお、福井は前年まで2年連続地区最下位のチームであったが、2010年は前期で地区2位、後期で初の地区優勝を果たした。塩谷が開幕前に退団したこととの因果関係は不明である。
| 通算:12年 | 試合 | 打席 | 打数 | 安打 | 本塁打 | 打点 | 盗塁 | 犠打 | 犠飛 | 四球 | 死球 | 三振 | 打率 | 出塁率 |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| NPB | 496 | 1580 | 1445 | 381 | 29 | 145 | 15 | 22 | 6 | 98 | 9 | 235 | .264 | .313 |
| KBO | 23 | 103 | 91 | 27 | 3 | 19 | 1 | 0 | 0 | 7 | 2 | 12 | .297 | .350 |
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最終更新:2025/12/14(日) 06:00
最終更新:2025/12/14(日) 06:00
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