佐伯貴弘単語

サエキタカヒロ

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佐伯貴弘さえき たかひろ1970年4月18日-)とは、大阪府出身の元プロ野球選手である。

概要

学園高校から大阪商業大学に進学。

大阪商大時代に通算12本塁打関西大学リーグ本塁打記録を打ち立てるなどの活躍で2度の三冠王き、1992年ドラフト会議横浜ベイスターズ横浜大洋ホエールズから球団名変更)から2位名を受け入団した。

ベイスターズとしては1期生の選手である。背番号は26。

横浜時代

1年1993年は、7月グレン・ブラッグスが故障離脱してしまい、突如スタメン出場の機会が巡ってきた。打率は.198に終わったものの、41試合でスタメン出場を果たした。

1994年ブラッグスが復帰してポジションを失うが、シーズン途中でレフト畠山準センターに回り、佐伯いたレフトに入った。82試合にスタメン出場を果たし、打率.258本塁打11本、44打点という成績を残した。

1995年レフトで開幕戦を迎えるが、鈴木尚典レギュラーを奪われてしまう。場にブラッグスが1月ほど離脱してる間にライト先発出場を果たすが、スタメン出場は52試合に減少した。前年を上回る打率.264は残したものの、レギュラー争いからは一歩後退した。

監督大矢明彦に交代した1996年は、鈴木との競争を繰り広げつつ過去最多の103試合にスタメン出場を果たし、初の規定打席に到達して打率.290を残した。

1997年は、ライバル鈴木が最終的に首位打者く急成長を遂げたため出場機会が減する。新外国人ビルセルビーが大外れだったためライトでの出場機会を得るが、スタメン出場は66試合に減少し、打率.260と成績も冴えなかった。

監督権藤博に交代した1998年は、新外国人ホセマラベが大外れだったため前年同様ライトでの出場機会を得る。盛田幸妃との交換トレードで近鉄バファローズから獲得した中根仁との併用ではあったが、81試合にスタメン出場を果たし、打率.289を残して38年ぶりのリーグ優勝日本一に貢献した。

1999年は、前年同様中根と併用された。規定打席にはわずかに及ばなかったものの、90試合にスタメン出場して自身初の3割となる打率.309を残した。

2000年の起用法も前年同様であったが、駒田徳広監督権藤トラブルを起こして二軍に降格されたことで、ファーストでの出場機会を得た。114試合にスタメン出場を果たし、打率は.259と振るわなかったものの自身2回の規定打席に到達した。オフ駒田戦力外通告を受け退団したため、背番号10を引き継いだ。

監督森祇晶に交代した2001年は、外国人選手の状態に応じてファーストライトを行ったり来たりするような起用法であった。それでも、自身初の全試合出場(140試合。うち129試合スタメン出場)と規定打席に到達しての打率3割(.302)、セ・リーグの打撃十傑ランクイン(10位)を果たした。

しかし、翌2002年は故障で出場機会が減。

監督山下大輔に交代した2003年は、新外国人スティーブ・コックスが大外れだったため前半戦はスタメン出場の機会もあったが、あまり出場機会には恵まれなかった。

2004年も開幕スタメンを外されるが、鈴木期に離脱するとレフトでのスタメン出場の機会を得て、リーグ3位となる打率.322を残してようやく復活を果たした。

監督牛島和彦に交代した2005年は、タイロン・ウッズ中日ドラゴンズに引き抜かれたこともあり、開幕から4番ファーストを務めることとなった。全146試合に出場し、自身最多の157安打を残した。

2006年も開幕から4番ファーストを務めるが、不振ながら起用され続けたためファンからのヘイトを集める事態となってしまった。

監督大矢が復帰した2007年背番号を26に戻した。鈴木の不振でレフトでの出場機会を得ると徐々にスタメン出場の機会が増加し、規定打席にも到達してリーグ7位となる打率.302を残した。

しかし翌2008年は開幕で躓いてから出場機会が減し、また控えに逆戻りとなった。

2009年も相変わらず冷遇されていたが、5月大矢が辞任して田代富雄監督代行に就任するといきなりスタメンに復帰し、シーズン後半から5番一塁での出場が多くなった。また、同年1500本安打150本塁打を達成した。

横浜ではマシンガン打線メンバーのうち最後の生き残りになっていたが、2010年オフ戦力外通告

中日時代

左の代打要員をめていた中日ドラゴンズへの移籍が決まった。背番号プロ入り初の一桁番号の「7」。

2011年5月20日埼玉西武ライオンズ戦にて、それまで代打で13打数0安打打率.000の中で6番一塁手のスタメンとなった佐伯は、5-0で劣勢の9回表に先頭打者ヒットを打ったかと思いきや、打者一巡の満塁で迎えた状態で逆転の2点タイムリーを打った。試合はそのまま5-6で終了し、その日5打数4安打となった佐伯は当然お立ち台に上がり、「のようです」とった。

2011年12月、前年の横浜に続いて中日から戦力外通告。現役続行をしたがオファーはく、引退かと思われたが浪人して現役続行をすことに。本人FAフリーアルバイター)宣言とのこと。

2012年オフ千葉ロッテマリーンズの入団テストを受けたが不合格となり、トライアウトにも参加したがオファーは来なかった。そして2013年2月3日に現役引退を表明。「結果には後悔ばかりだが、結果を残すためにやってきたことに後悔はい」とコメントを残した。

引退後

2014年からは中日ドラゴンズ二軍監督兼任打撃コーチに就任。

2016年からは一軍打撃コーチを務めていたが、8月9日谷繁元信と共に休養することになった。

現在解説者野球評論家として活動、高いトークと丁寧な技術解説定評がある

プレースタイル・人物・その他

勝負強い打撃と売りとするクラッチヒッターであり、二桁本塁打を8度記録するなど長打も併せ持つ。

メディアからは松井秀喜の「ゴジラ」に対抗し「ハマのメカゴジラ」と呼ばれる事もあった。

2009年には相手の意表を突くホームチールを決めていたり、巨人戦で隠し玉を成功させる(相手は番長こと清原和博であった)など、したたかなプレーも得意としていた。(隠し玉は2軍の試合も含めると3度成功させている。)

その一方で、2006年、同点の9回一死満塁の場面で前進守備を取っていたにもかかわらず、ファーストゴロでバックホームせず先に一塁を踏んでしまったことで三塁走者の生還を許し、実況に「何のための前進守備だ!」と叫ばれたこともある。同年には、広島東洋カープ石原慶幸サヨナラ打撃妨を犯した際の打者でもあった。

また、チームムーメーカーであり、ファンサービスを重視している人物でもあった。

阪神タイガースマスコットトラッキーがはっちゃけていた頃、トラッキージャイアントスイングドロップキックを喰らわすなど仲良くプロレスごっこをしていた。後にブラックホッシーが誕生したのは、解雇されたトラッキー中の人佐伯横浜に連れてきたかららしい。

高校時代は先輩であった伊良部秀輝ルームメイトであった。

応援歌

球団 レス No プレイヤー
横浜 応援歌のピコカキコ一覧#141 8736
8736

通算成績

通算:19年 試合 打席 打数 得点 安打 本塁打 打点 盗塁 犠打 犠飛 四球 死球 三振 併殺打 打率 出塁率
NPB 1895 6425 5772 629 1597 156 795 42 51 37 521 43 1086 119 .227 .339

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最終更新:2024/03/28(木) 18:00

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