新撰組とは、幕末に存在した剣客集団である。
1863年、将軍徳川家茂の上洛の警護のため、清川八郎が参加に身分・年齢を問わない「浪士組」というものを組織する。ここに近藤勇や土方歳三ら試衛館のメンバーや、芹沢鴨などが参加。総勢200名を超える一行は京へ向かう。
京についた清川は浪士組を尊王活動に利用とする(つまり幕府を出し抜いた形になる)も、近藤・芹沢らは反発して清川らと袂を分かつ。帰還命令の出た浪士組は清川とともに江戸へ戻るが、近藤・芹沢らは京に残り会津藩の預かりとなった。彼らは京の壬生村に屯所を構え、総勢24名で「壬生浪士組」を旗揚げした。
ちなみに江戸へ戻った清川は幕府の刺客によって討たれている。
隊員を集めつつ、会津藩から京の市中警備及び不定浪士の取り締まりを命じられる。この頃の彼らは身なりが貧しかったため、「みぼろ」などと揶揄されていた。後に商人に金を出させて隊服や隊旗(誠の旗)などを整備し始める。
八月十八日の政変にて警備を務めたことが評価され、「新撰組」の名を賜る。ここに新撰組、誕生である。
新撰組に名を改めたころ、隊内は局長を務める2人、芹沢と近藤の派閥に分かれていた。芹沢鴨が乱暴狼藉を繰り返したこともあり、近藤派によって芹沢鴨が暗殺され、芹沢派は一掃される。かくして近藤勇ら試衛館メンバーが隊を掌握した。
京に新撰組の名を轟かせたのはなんといってもこの池田屋事件であろう。
御所焼き討ちを謀る攘夷派浪士の会合場所を突き止め、20数名の浪士に対しわずか4人(近藤勇・沖田総司・永倉新八・藤堂平助)で斬り込んだのである。沖田、藤堂が途中で戦線離脱するも土方隊の合流まで持ちこたえ、浪士9名を討ち取り、4名を捕縛した。
さらに八月には禁門の変の鎮圧にも参加する。
池田屋事件で名を上げた新撰組は伊東甲子太郎一派を加え、総勢200名の組織へと拡大していた。これによって壬生村の屯所が手狭になったこともあり、西本願寺へ屯所を移転した。そして1867年6月、ついに新撰組は幕臣に取り立てられた。この間に伊藤一派が御陵衛士を結成して脱退したが、これを襲撃、伊東を暗殺した。
その他にもこの期間中に山南敬助が切腹し、武田観柳斎が刺殺されている。
徳川慶喜による大政奉還後、旧幕府軍として鳥羽伏見の戦いに参加するも新政府軍の前に敗北。軍艦で江戸に帰還する。その後幕府の指示で甲陽鎮撫隊として甲斐に向うも、新政府軍に先に甲府城を奪われ、甲州勝沼で野戦をするも敗北を喫した。その後下総の流山へ移るも、近藤勇が新政府に捕らえられ、処刑される。
沖田総司は病状の悪化によって江戸で死去。原田左之助は彰義隊に加わり上野戦争で討死したとされる。
その後新撰組は宇都宮、会津と転戦。最終的に五稜郭にまで至るものの、函館戦争にて土方が討たれ、降伏。
まもなく五稜郭も陥落、戊辰戦争は終結した。
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最終更新:2025/12/13(土) 07:00
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