汪兆銘政権とは、かつて中国大陸に存在した政権ないし国である。中華民国南京国民政府とも。
時は1937年。通州事件や第二次上海事変をきっかけに、大日本帝國対抗日民族統一戦線の武力衝突が始まった。いわゆる支那事変である。帝國陸海軍は中国沿岸を制圧し、中国国民党の海軍を殲滅。首都だった南京をも占領したが、蒋介石総統は徹底抗戦を掲げて重慶に遷都。勢いづく皇軍は重慶を目指して進撃を続けたが、中国の広大な土地は補給線の維持を困難にした。やがて戦況は膠着状態に陥り、互いに決め手を欠く事態に。予想外に長引いた事変は、臣民の生活を圧迫した。
そこで日本は、国民党内の反蒋介石勢力に工作を仕掛ける。党内の分裂・離反を招き、親日政権を樹立させるためである。この構想は事変勃発から間もない1937年9月末の時点で既に完成しており、いよいよ実行に移された。1938年2月、国民党政府重鎮の高宗式の命を受けた菫道寧が極秘裏に来日。参謀本部第八課長の影佐禎昭と密談を行った。ここで日本側は国民党内に和平を望むグループがいる事を知る。彼らに調略を仕掛け、内部からの切り崩しを図った。その結果、党内のナンバー2こと汪兆銘(おうちょうめい)副総統を離反させる事に成功。1938年12月に重慶から脱出させ、同月29日にハノイで日本との和平を呼びかけた。しかしこれに従う勢力が無かったため、当初の目的である新政府樹立へと舵を切る。1939年4月まで構想を練り、5月末には来日して日本側と意見交換を行った。そして1940年3月30日、かつての首都だった南京に招きいれ、親日の汪兆銘政権が樹立された。
汪兆銘は若かりし頃に日本に留学した事があった。故に思うところがあったのか支那事変が勃発した後も、徹底抗戦を訴える蒋介石に反対して和平を主張していた。加えて党内ナンバー2の地位にいながら反蒋介石グループのリーダーという微妙な立場にいたという。汪は日本政府と密約を交わし、最終的には大陸から撤兵する約束を取り付けた。帝國海軍もまた「蒋介石政権打倒後、親日政権を樹立するため南京を攻略」「陸軍が攻略した拠点を返還すべき」と汪が目指す和平案に同調する動きを見せた。ところが近衛内閣の解散により白紙化。落胆しているところに日本側の工作を受け、南京国民政府の樹立に至った。
日本の支援により、1940年3月30日に南京を首都に定めた汪兆銘政権(中華民国南京国民政府)が樹立された。しかし日本側との交渉や条約で汪兆銘政権は事実上の傀儡国とされ、そのためか中国人からの支持は得られず。和平の意図とは裏腹に戦況は泥沼化していった。
日本政府は汪兆銘政権を正統な国と認め、様々な条約を結んだり、大東亜会議への招聘を行った。また日本と同盟を結んでいたドイツ、イタリア、ハンガリー、ルーマニア、ブルガリア、クロアチア独立国といった枢軸国も国家承認し、スペインやタイ王国など一部の中立国も承認した。一方で連合国は正統な国家と認めておらず、米英は国民党政府のみが正しい政権と否認している。
日本の傀儡国だったが、1941年12月8日に勃発した大東亜戦争の序盤は参加せず。戦力が整った1943年1月9日に米英へ宣戦布告した。これに呼応して同盟国のイタリアとヴィシーフランスは中国々内の租界の返還と治外法権の撤廃を宣言。これにより、かつて中国が結ばされた不平等条約が解消された。汪兆銘政権は軍隊を保有し、日本側から物資供給を受けていたが、皇軍との協力は全くせず、言う事を聞かなかった。そんな汪兆銘の軍隊は何と戦っていたかと言うと、共産系ゲリラである。あろう事か、本来敵であるはずの国民党軍と協力して戦っていた。だが戦況は次第に悪化し、首相の汪兆銘も病気に蝕まれるようになった。治療のため名古屋市内の病院に入院するも、治療の甲斐なく1944年11月10日に病没。政権は求心力を失い、緩やかに瓦解を始めた。
そして1945年8月15日に大日本帝國が降伏。後ろ盾を失った汪兆銘政権は崩壊し、消滅した。現在の中国にとって汪兆銘政権は黒歴史のようで、「偽政府」と断じている。
急上昇ワード改
最終更新:2025/12/13(土) 06:00
最終更新:2025/12/13(土) 06:00
ウォッチリストに追加しました!
すでにウォッチリストに
入っています。
追加に失敗しました。
ほめた!
ほめるを取消しました。
ほめるに失敗しました。
ほめるの取消しに失敗しました。