福地寿樹とは、東京ヤクルトスワローズに所属しているプロ野球選手である。本名「福地和広」。右投げ両打ち。
概要
- 高校時代では4番ショートで、通算で18本ホームランを打っていた。
- 1993年ドラフト3位で広島に入団。
- 二軍では1995年から1998年まで4年連続盗塁王に輝き、1998年には50盗塁を記録した。
- 1999年から登録名を「寿樹」に変更。2000年から代走要員として一軍に定着し始める。しかし当時はその俊足故に叩き付けて内野安打を狙うバッティングを強制されていたことで打率が上がらなかったため、実績のあった木村拓也を抜くことが出来ず、尾形佳紀ら若手の台頭もありレギュラーは獲得できなかった。
- 2003年で初めてホームランを放ったが、ゴロを打つように言われていたので怒られた。
- 2004年は右足首靱帯断裂の大怪我を負ってしまい、一時は選手生命すら危ぶまれれた。
その後シーズン終盤には一軍の試合に出場出来る程度までに回復するも、盗塁は一つも決められず、ヒットも最終戦で放った二塁打一本のみであった(ちなみに、このヒットはその最終戦で吉見祐治がノーヒットノーランを決める寸前に打ったもので、勲章打だったりする) 。
- その後走塁面では復調したものの打撃は良くならず、2006年のシーズン開幕直前に青木勇人とのトレードで西武ライオンズ(現・埼玉西武ライオンズ)に移籍。打撃コーチの指導によりこれまでの叩きつけるバッティングをやめたことが功を奏し1番バッターとしてブレーク、2007年には初めて100試合以上出場し、28盗塁を記録、さらには8年間で前述した一本のみであった本塁打も4本放った。
- 2007年シーズン終了後、FAで西武に移籍した石井一久の人的補償としてヤクルトに移籍。
当時既に準レギュラーの座を掴んでいた福地の放出には両チームのファンから驚きの声が上がった。ちなみに、福地本人もプロテクト外になってるとは全く予想しておらず、通知の電話が来たときは映画館におり、電源は切ってあった。
これはこの年から一軍監督に就任した渡辺久信の方針で若手を中心にプロテクトした結果、30歳を過ぎていた福地がプロテクトから漏れてしまったためと言われている。
- 開幕スタメンこそ逃してしまったものの、当時ヤクルトは青木以外の外野手を固定できていなかったこともあり徐々に出場機会が増え、シーズン中盤には一番バッターとして定着した。
- 2008年は打撃、走塁共にますます調子を上げ、打撃面では初の規定打席到達&シーズン打率3割を記録し、走塁面では42個の盗塁数を記録し、盗塁王に輝いた。
- 2009年も前年と同じ42個で二年連続盗塁王に輝き、俊足が健在であることを見せつけた。一時期青木宣親の代わりにセンターとして出場したこともある。
- その足の速さから、カープファンからは「マッハ44」として親しまれていた。また赤星憲広からも絶賛されていた。
- 2008年7月17日には青木宣親と武内晋一、ウィルソン・バルデスらで一イニング6盗塁のセリーグ新記録を樹立。
- 前述したようにバッティングは上手く、チャンスにも強いことからヤクルトではときたま3番、5番も打つ。
- ヤクルトのマスコット、つば九郎と仲が良く、球場でも福地にからむつば九郎の姿が度々目撃されている。
ただし、福地本人は「ライバル」と語っている。
- 守備位置は高校時代はショート、広島ではセカンド、西武に移籍してから外野手となった。
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関連項目
- プロ野球選手一覧
- 広島東洋カープ
- 埼玉西武ライオンズ
- 東京ヤクルトスワローズ
- つば九郎