その戦いに勝てれば、
辞めてもいいというジョッキーがいる。
その戦いに勝ったことで、
燃え尽きてしまった馬もいる。
その戦いは、僕達を、熱く、熱く狂わせる。
勝負と誇りの世界へようこそ。
ダービーへようこそ。
2010年 東京優駿(第77回日本ダービー)
優勝馬:エイシンフラッシュ 騎手:内田博幸
この記事では実際の競馬競走について記述しています。 この競走を元にした『ウマ娘 プリティーダービー』に登場するレースについては 「東京優駿(ウマ娘)」を参照して下さい。 また、大井競馬場で行われる東京ダービーは別の競走です。 |
その年の3歳サラブレッドのチャンピオンを決める日本競馬伝統の競走、それが東京優駿である。
JRAによる重賞競走の格付けはGI。施行条件は3歳牡牝限定、斤量定量、東京競馬場芝2400メートル。
「競馬の祭典」と呼ばれ、これまでに数々の名勝負が繰り広げられ、多くの名馬が誕生した。
概要
イギリスのダービーステークス(エプソムダービー)をモデルとして1932年に創設された、目黒記念と並び日本競馬で最も長い歴史を持つ競走である。『日本ダービー』の別名でも知られており、1950年からは正式に副称として採用されている。
皐月賞、菊花賞と合わせた『クラシック三冠競走』の2走目にあたり、いわゆる『八大競走』の一つにも数えられる。
沿革
日露戦争後の日本は軍馬育成のため馬産を奨励し、その一環として競馬を開催していたが、1908年(明治41年)に馬券発売が禁止され(この辺りの世相については"馬券"の記事も参照されたし)、競走馬の需要が激減。大正時代になるころには馬産地は大不況にあえぐことになった。東京競馬倶楽部会長・安田伊左衛門は、そうした馬産家からの要望を受け、馬産の奨励とするべく、英ダービーを参考に以下の条件を満たす大競走を構想した。
そして1930年に発表・特別登録開始となったこの競走は、今日の東京優駿まで続く「東京優駿大競走」として1932年に第1回が開催された。それまでの最高賞金の約4倍にもなる破格の賞金と丁度やってきた景気回復が絡み合い、馬産需要は回復。安田の狙いは大成功を収めたのであった。
当初は東京競馬場の前身である目黒競馬場にて開催され、1934年の第3回からは現在の東京競馬場に移転し、以後一貫して同地で行われている。数ある他のGI競走とは異なり、東京競馬場の改修工事が被っても開催日程を変更して対応するため、開催コース及び距離が変更されたことはない。
上記条件で「牡馬・牝馬の~」と記されているのは繁殖用馬選抜の意図によるもので、繁殖能力を持たない騸馬を除外するための条件設定である。この意図は今も残っており、現在の出走条件にも「性不問」ではなく騸馬出走不可を意味する「牡牝限定」が明記されている。
ただし出走自体は可能な牝馬についても、牝馬限定戦の優駿牝馬(オークス)が1938年に創設されたため、能力差のある牡馬とも競わねばならない当競走を選択する陣営は少ない。当競走の長い歴史の中でダービー牝馬となったのは、戦前のヒサトモ、クリフジ、戦後のウオッカ、ただ3頭のみである。
なお、中央競馬のクラシックGI競走では出走馬に青地に黄文字のゼッケンが装着されるが、東京優駿では白地に黒文字のゼッケンが装着される。金色の縁取りと「第〇〇回日本ダービー」の記載が入っている所が、一般競争の白ゼッケンとの相違点である。
日本ホースマン達の夢 ~ すべては、この熱き日のために。
世界各国の競馬レースにも、英ダービーを元とした格式高いレースが存在している。しかし日本における「ダービー」は、他国とは一段違う重要度で扱われている。「日本競馬サークルの1年は日本ダービーを制するためにある」といっても過言ではなく、それを象徴する表現として「ダービーが大晦日で、その翌日が元日」という言葉がある。
「日本で最も優秀な繁殖用馬を選定する」という名目で計画されたこのレースによって、日本競馬界は自然と「東京優駿で勝てる馬を生産する」ことを目標とするようになっていった。日本ダービーは「強い馬を生産・育成・調教する選抜サイクル」を日本で初めて明確に示したのである。それこそが「ダービー馬」「ダービージョッキー」「ダービートレーナー」「ダービーオーナー」「ダービーブリーダー」の称号の価値を比類なく高める要因となったのだ。
表彰式でウィナーズサークルに集まった会員さんの顔を見ると、
皆、ダービーオーナーになった感激で泣いている
この方達と、ダービーを勝つ喜びを共有できた、
本当にいい馬を提供できたと思うと、私も自然と涙が止まらなくなりました―吉田善哉(社台レースホース代表・1986年ダイナガリバーで制覇)
自分の今まで積み重ねた勝利全てと引き換えにしてもいいと思うほど、
「ダービージョッキー」の称号が欲しくて欲しくてたまらなかった「ダービーを勝ちたい」なんて軽々しく口に出して言えない
ダービーにはそれだけの価値がある
時は流れ、馬産体制、主流の血統、競走形態など、様々な環境が移り変わってきた現代では、ダービーを勝っても安定した種牡馬入りが確約されるわけではなくなり、必ずしもすべての馬がダービーを目指すとは限らなくなった。賞金額もはるかに後発のジャパンカップ、更には有馬記念にも上回られている。しかしそれでもなお、日本ダービーを制することは日本競馬界における最高の栄誉であり続けている。
競馬関係者の総決算たる「ダービー・デー」は、ファンの夢の舞台である有馬記念と同じく、競馬場が独特の熱気に包まれる。閉幕後は、開催日の最終レースとして日本最古のハンデキャップ重賞・目黒記念(GII)が行われ、ダービー・デーを締めくくるのが定番となっている。ダービーで大敗した馬券師は「この後栄城賞や福永洋一記念もあるし、そもそも21時前の高知ファイナルレースまでダービー・デーは終わってねぇんだ!」と主張して最後の勝負に出るわけである
そしてその翌週から、また来年の日本ダービーを目指す2歳馬たちのデビュー戦が始まるのである。
レース傾向
正面スタンド前から発走し、350mほど直線を走って1コーナーに入る。向こう正面の緩やかなアップダウン・3コーナーの大欅を回って、スタンド前525mの直線・最終コーナーから緩やかな上り坂を登り、ラスト1ハロン強が平坦。ペースは平均~ややスローで流れるレースが多い。2400mを走りきるスタミナだけではなく、上がり勝負に対応できる瞬発力・スピードも求められる、まさに"総合力"を問うコースを走る。そのためか、低人気馬が穴を開けることは少なく、上位人気馬が順当に勝つことが多い。
1991年までは20頭を超える多頭数で開催されることも珍しくなく、大外枠の馬や後方待機勢にとっては苦しいレースであった。「勝利のためには10番手以内につけるべし」という金言は「ダービーポジション」と呼ばれ、今もその名残がある。
92年以降はフルゲート18頭に制限され、枠順の有利不利はある程度落ち着いたものの、2002年の東京競馬場改修以降は「一桁枠番の馬」か「4コーナーを一桁番手で回って来た馬」の勝率が非常に高く、明確に内枠先行有利の傾向になっている。特に仮柵をダービー週から移動するようになった2009年以降では、1枠の馬が11年間で5勝している。
また、2歳GIや皐月賞に至るまでのクラシック戦線を好走してきた馬達と、そうした馬達の後を追ってダービートライアルで出走権を確保してきた馬達とは結果に開きが出ることが多い。皐月賞組は早いうちから重賞戦線で勝ち負けできるだけの実力と経験を備えており、更にベテラン騎手が継続して鞍上を務めていることが多い点が影響しているのだろう。
余談
- 『最も幸運な馬が勝つ』という有名な格言があるが、これは元々英ダービーを指して言われていたもの。日本ダービーでも先述のダービーポジションを巡る駆け引きや、多頭数によるアクシデントを乗り越えるため、勝ち馬には実力だけでなく良い枠を取ったりハプニングを回避・突破したりする運も必要だったことから言われるようになった。多頭数によるカオスが無くなり実力要素が強くなった現在も、未だ枠、レース展開、天候など運の向きも重要である点は変わっていない。
- ただし、先述した通り低人気馬が穴を開けることは少ないレースでもある。現在までの史上最低人気でダービーを制したのは第16回のタチカゼ。23頭立て中19番人気という人気薄で勝利し、八大競争史上の最高単勝配当を出している。ちなみに18頭立てになってから2桁人気で勝ったのは、昨今だと第86回で12番人気だったロジャーバローズ。それまでは第33回のテイトオーから数えること53年間、二桁人気のダービー馬は誕生していなかった。
- 騎手・田原成貴はエッセイ『競馬場の風来坊』にて「『ダービーは運がなければ勝てない』と言われるけど、あれはウソ」と分析している。「ダービーは強い馬に乗れば、勝つ確率は皐月賞より高いと思う。府中の2400mならドンと構えた競馬ができる」とのこと。「あなた結局皐月とダービー勝てなかったですよね」とは言わないでやってくれ
- そのレースで初めて出走馬に騎乗する、いわゆる"テン乗り"の騎手の勝利が非常に少ない「ダービーにテン乗りV無し」ジンクスも有名。2023年のタスティエーラ&ダミアン・レーンの前はなんと、1954年のゴールデンウエーブ&岩下密政まで69年もの時を遡らねばならない。
- 東京優駿の同日に開催されることが多い競走として「青嵐賞」(2勝クラス、旧1000万下)が存在する。条件戦はカジュアルな競馬ファンには馴染みが薄いものだが、この青嵐賞に限ってはダービーと全く同じコースを同日に先んじて使う競走であるため、ダービー本番の馬場傾向を見極める重要な戦いとして注目される。
- 騎手としての最多勝利記録保持者は武豊(6勝)。同率2位に福永祐一と横山典弘(3勝)が続き、12名が2勝を達成している。この中で2連覇を達成したのは武豊、四位洋文、福永祐一の3名。
- 女性ジョッキーのダービー出走は2023年時点でまだ実現せず。同年は藤田菜七子が惜しい所まで来ていたので、近い将来実現するかもしれない。
- 現在のすぎやまこういち作曲の関東GIファンファーレが初めて当競走で演奏されたのは1988年の第55回である(サクラチヨノオー優勝回)。
- 東京競馬場の入場者レコードをマークしたのもダービーであり、第2次競馬ブーム絶頂期の1990年には19万6517人もの大観衆が詰めかけ、アイネスフウジンで勝利した中野栄治騎手にちなんでのナカノコールが響き渡った。
主な前走・前哨戦
競走名 | 格付 | 施行競馬場 | 施行距離 | 間隔 | 優先出走権 |
---|---|---|---|---|---|
皐月賞 | GI | 中山競馬場 | 芝2000m | 6週 | 5着内 |
青葉賞 | GII | 東京競馬場 | 芝2400m | 4週 | 2着内 |
プリンシパルステークス | L | 東京競馬場 | 芝2000m | 3週 | 1着馬 |
京都新聞杯 | GII | 京都競馬場 | 芝2200m | 3週 | |
NHKマイルカップ | GI | 東京競馬場 | 芝1600m | 3週 |
歴代優勝馬
- 回数についているリンクをクリックすると該当する動画に飛びます。
- 馬齢表記は現行表記に統一。
- 馬場の空欄は良馬場を示す。
- 競走名は第1回から第6回まで「東京優駿大競走」、第7回から第14回まで「東京優駿」、第15回から第16回まで「優駿競走」、第17回から第30回まで「東京優駿競走」(日本ダービーの副題がつく)、第31回以降は「東京優駿(日本ダービー)」。
第13回(1944年)は馬券発売もラジオ放送もなく観客も入れない能力検定競走として施行
第39回(1972年)は馬インフルエンザの影響により7月に延期開催
第87回(2020年)は新型コロナウイルス緊急事態宣言の影響により無観客開催、馬券は電話・ネット投票に限定して発売
関連動画
関連静画
関連コミュニティ
関連項目
八大競走 | |
桜花賞 - 皐月賞 - 優駿牝馬 - 東京優駿 - 菊花賞 - 天皇賞(春) - 天皇賞(秋) - 有馬記念 | |
同格とされた競走 | |
---|---|
ジャパンカップ | |
ジャパンカップ創設後に八大競走に準じるとされた競走 | |
宝塚記念 - エリザベス女王杯 | |
競馬テンプレート |
中央競馬の世代別GI | |
五大クラシック | |
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桜花賞 - 皐月賞 - 優駿牝馬 - 東京優駿 - 菊花賞 | |
その他の世代別GI | |
2歳 | 朝日杯フューチュリティステークス - 阪神ジュベナイルフィリーズ - ホープフルステークス |
3歳 | NHKマイルカップ - 秋華賞 |
廃止・変更された競走 | |
2歳 | 阪神3歳ステークス |
3歳 | ビクトリアカップ - エリザベス女王杯 |
競馬テンプレート |
いよいよ、日本ダービーです。
この特別なレースを観に、
日曜日、ここに18万人の人が集まります。
出走する馬たち。関係者のみなさん。
おめでとうございます。
怪我をしないでください。
2400メーター、気持ちよく走りきってください。
出られなかった馬の分も、頑張ってほしいと思います。
みなさん、応援してください。
では、28日、
東京競馬場で
お会いしましょう!
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兄弟記事
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