「陳震」(ちんしん 1??~235年)とは、後漢末期~三国時代に活躍した蜀漢の政治家・官僚である。
概要
字は孝起。荊州南陽郡の出身。荊州牧となった劉備の下で従事に任じられ、諸郡を管理した。
劉備の入蜀作戦に随行し、蜀平定後は蜀郡北部都尉に任命されて同地を治めた。北部が蜀郡から独立して汶山郡(サンズイ+文)に昇格すると、陳震の職名も変更されて~山太守となり、後に犍為太守(牛+建)に転じた。
西暦225年に尚書に任命され尚書令に昇進、同年に呉へ使者として派遣されている。
229年に呉の孫権が皇帝を称すると、蜀漢は陳震を衛尉に任命した上で呉に派遣し、孫権の皇帝就任を祝った。その際、諸葛亮は兄の諸葛瑾に手紙を送り、陳震の人柄を讃え両国の友好の使者として適任だと述べている。陳震は武昌で孫権と蜀呉同盟を締結し、両国が天下を山分けすると定めた。この功績により陳震は帰国後、城陽亭侯の爵位を賜った。
231年、同僚の李厳が虚偽を上奏したことで失脚。孔明は蒋琬(蒋エン)と董允に手紙を出し、その中で李厳の人柄について陳震が忠告をしていたことを記している。
235年に陳震は亡くなり、息子の陳済が跡を継いだ。
演義では袁紹の配下として登場し、当時袁紹の庇護を受けていた劉備と、曹操の元にいた関羽の連絡役を務める。袁家滅亡後は荊州へ行き劉備に仕えた。
入蜀後の働きはカットされている。
人物
出身地の南陽郡(同郡の範囲は時期により義陽郡も含む)は蜀漢を支えた人物を多数輩出している。
陳震は荊州で従事(人事担当か)を務めその職権が諸郡に及んでいたこと、劉備没後から孔明が南征・北伐を行った期間まで重職の尚書令を務めたこと、益州南部や交州の利権を巡って蜀漢と呉が激しく対立・衝突していた時期に使者を務めているので、早い時期から頭角を現した有能な人物と考えられる。地元名士の重鎮だったのかもしれない。
蜀呉同盟を結ぶ際、陳震は呉領に入ると武昌へ向かうまでの道中で両国の友好と盟約のメリットを言い続けており、孫権や呉の重臣たちの耳に入るよう計算した上での行動だと考えられる。
当時は益州南部の反乱を蜀漢が鎮圧したばかりで、交州の帰属問題で蜀漢と呉が揉めている最中だった。
盟約の成果として呉は益州南部への介入を控えるようになったが、蜀漢は交州から手を引き呉の領有権を認めた。
とはいえ当時の交州は士一族が統治しているので、蜀漢が呉の圧力に負けて譲歩を強いられたとは言えないだろう。
陳震の人柄については孔明が諸葛瑾に宛てた手紙の中で「忠義一途でかつ老いて増々誠実で、両国の友好を結ぶことができる素晴らしい人物です」と賞賛している。
陳震による李厳評
「孝起は前に呉へ使者に行く際、『正方(李厳)は何を考えているのか分からない所があり(※1)、同郷の者でも親しく付き合うことができません』と言っていた。
私(孔明)は腹の底は無闇に探らぬ方がよい、最良を求めることはないと考えていたが(※2)、予想もしない事態が起きてしまった。この事を孝起に知らせなければ」
※1 「腹中有鱗甲」
※2 「不图复有苏」(=不求復有蘇?)
(「苏」の部分はwikiでは「刺」と解釈されている。記事作成者は蘇州の蘇と考えた上で強引な意訳をしたので、正しい記述と訳を知っている方いましたら訂正をお願い致します)
上記は李厳失脚の前後に孔明が長史蒋琬(蒋エン)と侍中董允に送った手紙。(陳震本人へ宛てていないので、この時陳震はすでに引退していたのかもしれない)
陳震も李厳も南陽郡の出身で、孔明も劉備に仕えるまでは南陽郡で暮らしていた。蜀漢には他にも大勢の南陽郡出身者がいたが、李厳は誰とも親しく交流することはなかったようである。
ただし李厳は劉備に仕えた時期や経歴が他の同郷者とは異なる。
李厳の考えが分からないということについては、孔明も李厳に九錫を勧められて困惑したという出来事があった。その後の李厳は平民に落とされたが、復職の望みを捨てず、孔明の死去を知ると絶望して亡くなった。
しかし当時の蜀は厳正な法治主義を敷いており、孔明も賞罰を歪めない人物だった。それでも李厳は孔明が自分を復帰させてくれると信じていたということになる。
記事作成者の憶測だが、上記の手紙の後に孔明と李厳が腹を割って話す機会を陳震が設けたのかもしれない。
関連項目
- 1
- 0pt