鍾毓 単語

ショウイク

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「鍾毓」ショウイク ? ~ 263)とは、三時代の政治家であり鍾会である。

字(あざな)は「稚叔」

三国志演義では「鍾会」の引き立て役に甘んじているが、正史では嫌われ者のとは逆の仁政を心がけて左遷から将軍にまでなった人物である。

正史では

長社の出身で、は鍾繇(鍾ヨウ)。

14歳で散騎郎になった後は、郎そしての死と共にその爵位を継ぎ、さらに散騎常にまで出世した。

諸葛亮山に進出してきた際に自ら戦おうとする曹叡を諌めた。

その後、曹爽に逆侵攻を仕掛けたもののの暑さで苦戦し、増援を要請しようとした曹爽に対して撤兵をするも、曹爽からの信頼を失って左遷されてしまうのだった。

太守となった後は、農民の賦役を軽減し、朝廷には農業の振を上奏して民を事を考えた献策を続け、曹爽司馬懿クーデターで失脚すると、中央に復帰して御史中となった。

毌丘倹カン丘倹)が反乱をおこした際には揚州と州の慰撫を担当し、尚書に昇進した。

続いて諸葛誕が反乱を起こすと、司馬昭に従って討伐軍に加わり、反乱終結後に州刺史となった。

から独立しようと画策した結果殺されてしまった鍾会と異なり、着実に成果をあげて確実に出世のを進んだは、死去した後に将軍を追増された。 

演義では

8歳の時、鍾会と共に曹丕に謁見する役で登場する。

8歳ながらもドSオーラを感じとったのか曹丕を前に満面のをかいていた鍾毓は、曹丕からをかいている理由を尋ねられると、鍾毓は、

「戦戦惶惶、出如漿」

とこういう状況で恐れているのでをかいていると答えた。

対して7歳の鍾会をかいておらず涼しい顔をしていたので、こちらも曹丕からをかいている理由を聞かれると、

「戦戦慄慄、不敢出」

と答えて、名将の凡人的な事を描かれたイベントが存在する。がしかしこイベント鍾会年齢のつじつまや曹丕が亡くなった頃には鍾会がまだ2歳ほどであった事から史実をもとにしないフィクションである。 

その他「鍾毓」の詳細についてはWikipediaの該当記事参照exit

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関連データ

コーエー三國志シリーズにおける鍾毓の力一覧。

統率 政治 身体 運勢
三國志
三國志II
三國志III
三國志IV
三國志V
三國志VI
三國志VII
三國志VIII
三國志IX 26 13 70 74
三國志X 27 11 71 74 70
三國志11 32 12 71 76 72

三國志11での鍾一族の力一覧 。

  統率 政治  特技 戟兵 騎兵 兵器
鍾繇( 70 24 76 91 80 C C B B C C
鍾毓 32 12 71 76 72 祈願 C C B C B C
鍾会 82 51 91 79 66 B B A C A C

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