アントン・ルビンシテイン 単語

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アントンルビンシテイン

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アントン・ルビンシテインとは、19世紀のピアニスト・作曲ロシアピアニズムに一躍脚を浴びさせるきっかけとなったエポックメイキング的存在である。
なお、のニコライ・ルビンシテインについても、同じくピアニスト・作曲で、ほどのさはないが音楽史的には地味に重要な人物なので、記載する。

ちなみに、ドイツ語ルービンシュタインとも記述されて、もう半世紀後のピアニストとややこしかったりすることもある。

概要

1829年にロシアのヴィフヴァチネツ(現在モルドバのルイヴニツキ)で生まれる。7歳のころからジョン・フィールドの孫子にあたるアレクサンドル・ヴィロインクに学び9歳でデビュー。その後は定期的演奏旅行を行いロシアのピアニストを一躍有名なものとする最初の存在となった。顔がベートーベンに似ていたころからリストにはヴァン二世とも呼ばれていたらしい。なお演奏は重厚的かつ感情移入がしく、演奏プログラムも長大なものだった。1894年にロシアのペテルゴフで亡くなった。

彼はこのように優れたピアニストとして記録に残り、作曲としても活動したが、特筆すべきなのがロシア音楽協会、さらにサンクトペテルブルク音楽院の設立である。彼のもとで多数のピアニストが教えを乞い、特に子のひとりであるフェリックス・ブルーメンフェルトがネイガウス誕生の端緒となるなど、レシェティツキと並んでロシア人ピアニストの流として位置づけられている(まーパプストの門とかまだいろいろいるけど)。

作曲としてはドイツ的で、と違い5人組などとは折り合いが悪かったそうな。

弟・ニコライ

アントンの6歳下の、ニコライ・ルビンシテインはモスクワで生まれている。クラシックファンの中ではチャイコフスキー友で、ピアノ協奏曲第1番のいざこざのエピソードで有名な人だろう。なお年はより1881年である。

アントンと同じくピアノ演奏に長けていたが、どちらかというと社交界で活動していたため彼にべるといまいちパッとしない。ヴィロインクの子なのは同じだが、テオドール・クラックといったチェルニーリスト系譜の人々にも師事を受けており、またニコライの子の一人だったエミール・フォン・ザウアーは後にリストの最晩年の子になっている。演奏と対照的な理知的なものだったらしく、これまたと対照的に5人組と仲が良くバラキレフとはマブダチである。

そんな彼の音楽史上の業績、それはモスクワ音楽院の設立である。こちらもサンクトペテルブルク音楽院と並ぶロシア音楽教育拠点として機し、セルゲイ・タネーエフなどが育っていった。

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