フェリックス・ブルーメンフェルト / フェリックス・ブルメンフェリト(1863~1931)とは、19世紀から20世紀にかけて活躍したロシア人作曲家・ピアニストである。
名前のカタカナ表記は正確には後者なのだが、日本ではラテン文字転写をドイツ語読みした前者で呼ばれることがほとんどである。
ヘルソン県コヴァレフカ(現在のウクライナ・キロヴォフラード)のフランス語と音楽の教師だった両親の4番目の子として生まれた。彼の兄、スタニスラウス、ジギスマンドもピアニストであり、幼いころから彼の姉の旦那であったグスタフ・ネイガウスに音楽を学ぶ。いったんは工業系の大学に進学するが、サンクトペテルブルク音楽院に入学してフィオドル・シュタインとアントン・ルビンシテインにピアノを、リムスキー=コルサコフに作曲を学んだ。在学中からピアノの腕前の評判は高く、チャイコフスキーやバラキレフ、グラズノフといった同時代の作曲家たちのピアノ曲を多く初演していた。
1885年に卒業したのちは自らも教壇に立ち、シモン・バレルなどを指導した。また恩師であるアントン・ルビンシテインの右腕として活躍し、指導の傍らピアニストとして、類稀なるテクニック、情緒あふれる演奏、そして甘いマスクで大変もてはやされた。しかし中年期に病気による後遺症で右半身まひとなり、ピアニストとしての活動は続けられなくなってしまった。さらに、リムスキー=コルサコフが学生運動を擁護したことで音楽院を辞任させられると、その抗議でグラズノフらとともに辞職することとなる。
そして、ナプラヴニクのもとで研鑽を積み、1911年まではマリインスキー劇場で指揮者を務め、恩師リムスキー=コルサコフのオペラのみならず、ワーグナーの「トリスタンとイゾルデ」のロシア初演や、セルゲイ・ディアギレフの興行でムソルグスキーの「ボリス・ゴドゥノフ」のパリ初演を務めるなど、指揮者としても活躍していったようだ。
1918年からはキエフに移り、1922年までキエフ音楽院の院長を務めた。この間彼に師事を受けたのがかの有名なウラディーミル・ホロヴィッツである。その後はモスクワ音楽院に再度移動し、以来亡くなるまで教育活動に従事した。
ブルーメンフェルトは音楽の才能、オペラと交響曲の豊富な知識、指導力、広い人脈を持った音楽家として知れ渡っており、気難しく頑固で、半身不随であったにもかかわらず、創造性あふれる指導に多くの生徒が集まった。彼は指を平らにした技法を用いて、楽曲を弾く際内声を独自に引き出したようだ。豊かな感性とあまり細かいことにこだわらずモノを見る性格の、指導者として器の大きい人物であった。
弟子としてはホロヴィッツのほかシモン・バレル、アナトール・キタイン、ハインリッヒ・ノイハウス、アレクサンドル・カメンスキー、ウラジーミル・ベロフ、マリヤ・グリンベルクなどがいる
また彼の親類には音楽家が多く前述したグスタフ・ネイガウスのほか、いとこの息子にはカロル・シマノフスキがいる。さらに、グスタフの息子でブルーメンフェルトには甥にあたるゲンリヒ・ネイガウスはゴドフスキーに師事を受けた以外は彼の影響下で独学でピアノを学んだため事実上弟子といってもよい。つまり、19世紀後半のロシアを代表する4人のピアニストの一人でありネイガウス派という一大門派を生み出す存在、のさらに源流でアントン・ルビンシテインと彼をつなぐ人物こそがブルーメンフェルトなのである。
というわけで師匠であるルビンシテインとホロヴィッツやネイガウスをつなぐ重要人物かつピアノ作曲家としても活動した人物なのだが、ニコライ・メトネルやパーヴェル・パプストなど近年ロシアピアニズムがとみに注目されているにもかかわらず今一つ知名度に欠ける。多くのピアニスト関連の書籍で独立した項目すら与えられずにおり、まだまだ知る人ぞ知る存在なのだ。
忘れられた存在、その一言に尽きる。
作曲家としては西欧寄りで、『24のプレリュード』はショパンの手法に則った重要な作品として、当時は話題になった。このように、wikipediaの英語版ではショパンとチャイコフスキーの影響が強いと評されている。さらに言えば難曲が多いのも特徴である。
作品はピアノ曲を中心としており、12の練習曲や、ピアノ協奏曲、ピアノソナタ、アンプロンプチュ、ノクターン、小品など、54作品に及ぶ。
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最終更新:2025/12/05(金) 23:00
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