伊地知正治(1828~1886)とは、幕末から明治時代初頭にかけて活躍した人物である。
薩摩藩士・伊地知季平の次男。通称龍右衛門。号は一柳。身長が低く、片目が弱視、片足が不自由であったが、生まれつき豪胆であったと伝わる。合伝流軍学を極め、山本勘助の生まれ変わり、薩摩の軍師、などと称された。
もともとは藩校造士館の教官であったが、尊王攘夷派の過激派であり、後に寺田屋騒動で殺害される有馬新七らと1858年に井伊直弼を打倒する計画をたて、1859年には尊王攘夷派組織・誠忠組で活動している。
その後、軍賦役に、さらには島津久光の上洛に伴い1862年に軍奉行に昇進し、薩英戦争、禁門の変、鳥羽・伏見の戦いで活躍していった。戊辰戦争では東山道先鋒総督府参謀として軍を率いる。少数精鋭主義と火力絶対主義で旧幕府軍を圧倒し、近藤勇率いる甲陽鎮撫隊、大鳥圭介率いる旧幕府陸軍を撃破。さらに白河口の戦いでも伏兵による包囲を成功させ、最後には会津若松城を落城させるきっかけをも作った。
しかし維新後は軍人になることを拒み、最初は藩政改革に携わっていた。その後新政府に参画するが、左院大護官、同議長、修史局総裁、宮内省御用掛、宮中顧問官など文官を歴任していき、伯爵を授けられた。
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最終更新:2025/12/16(火) 17:00
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