佐々木定綱(1142~1205)とは、鎌倉時代の武将である。
平治の乱で敗れ、近江を逃れ相模の渋谷重国のもとに居候していた父親に従い、家族そろって同地にいた。そこで源頼朝挙兵を知り、初戦で堤信遠、山木兼隆らの攻略に加わった。ただし、石橋山の戦いで敗走したのちは、再度渋谷荘でかくまわれている。
その後、源頼朝が再起すると、佐竹秀義の籠る金砂城攻略に成果があったとのことだが、この戦いも実際はどうだったのかよくわからなくなっているもののひとつなので、触れるだけにしておきたい。
かくして、御家人かつ左衛門少尉となり、本領・佐々木荘の地頭職も与えられた。ところが建久2年(1191年)、年貢のトラブルによって比叡山と争い、襲ってきた日吉社宮司を息子・佐々木定重が殺してしまったため大騒動になってしまったのである。
このけじめとして、佐々木定綱は薩摩、長子・佐々木広綱は隠岐、次子・佐々木定重は対馬、三子・佐々木定高は土佐に流された。しかし、当の本人である佐々木定重は許されず、衆徒に殺されてしまった。
建久4年(1193年)に佐々木定綱は許され、近江だけではなく長門・石見の守護にも任じられた。そして従五位上にも上り詰めたが、後は特に何もなく生涯を終えた。
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最終更新:2025/12/06(土) 05:00
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