佐竹義和(1775~1815)とは、江戸時代後期に活躍した大名である。
出羽国秋田藩主で、佐竹義重・佐竹義宣らの衣鉢を継ぐ。寛政期前後に改革を推進した明君の一人。
佐竹義敦の長男として生まれるも、実は側室の子であり、正室の子がいなかったから嫡子になれた人物である。天明5年に父・佐竹義敦が亡くなり、叔父の佐竹義方や疋田斎定常、儒学者の村瀬栲亭、中山青蛾といった人物が佐竹義和を支えていった。
藩校明徳館の開校といったように、仁治政治と文化政策を重んじていった「文化人」としての色彩が強い佐竹義和。このため改革期には人口は激減し、嫡子・佐竹義厚の侍講となる伊藤祐祥といった家臣や、佐藤信淵、平田篤胤といった人々にその門閥尊重といった流儀を批判されている。
しかし佐竹義和も、植林や養蚕の症例、銅山経営の改革、商品流通の統制、勧農政策の推進といったこともやっている。ただ、佐竹義和は改革を主導し始めた段階で亡くなってしまったのであった。
こうした彼の改革は幕末に至る藩体制の起点ともいわれる。しかし細川重賢、上杉治憲と異なり、江戸時代に明君として称賛された記録はなく、この像は、明治42年(1909年)の「天樹公政績一班」の献上を一契機として広まった、近代的なイメージとされる。
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最終更新:2025/12/06(土) 09:00
最終更新:2025/12/06(土) 08:00
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