平田篤胤 単語


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ヒラタアツタネ

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平田篤胤(1779~1843)とは江戸時代後期の学者である。

概要

平田篤胤は1776年に秋田士の四男として生まれた。田舎武士の四男として過酷な幼少期を送った篤胤は20歳で江戸にでて、本居宣長の子を自称し(篤胤と宣長は面識がないが、の中で出会って子にしてもらったと言っている)、29歳で屋という最初の塾を開く。その後、多くの子を取り、武士のみならず民衆からも広く支持されたが、朱子学に批判的な篤胤の思想は幕府から睨まれ、66歳の時に江戸を追放される。1843年、江戸を出て秋田に向かい同年同地で死去。享年68歳。

学とは舶来の儒教仏教に依らない日本独自の個性を研究した学問である。学者といえばまず本居宣長の名前が挙げられ平田篤胤の知名度は低いかもしれない。しかし平田篤胤の思想をんだ平田幕末維新期の尊王攘夷、王政復古運動毀釈、祭政一致などに深くを与え、また戦前には狂信的義に利用され平田篤胤は八紘一宇思想や皇史観の祖として祭り上げられている。現代でも同性婚への反対のイエ義者の思想を遡っていけば儒教と共に平田思想にも行き着くのである。平田篤胤は日本の歴史に深く関わっているのだ。

確かに篤胤の世界観は日本中心義的側面があった。要著作である『(たまのみはしら)』で篤胤は日本が「世界根本」であるとし、「日本の万事万物は万に優れている」「外国人は容姿が奇怪だ」「インド思想は子供騙しだ」「わが天皇が万の大君」などといった極端な文言が出てくる。中国の女媧と犠、キリスト教アダムイブ神話イザナミイザナギ元ネタであるとまで言い切るほどの日本中心義的な世界観である(篤胤は儒教や西洋思想を積極的に取り入れたが、これは「中国思想も西洋思想も日本神話からの生である」という彼の信念に基づいている)。

しかし平田篤胤の思想はそのような狭量な視座に止まらない。近代国家主義平田が捨してしまった平田篤胤の観。すなわち「人のは死んだ後、どこへいくのか」また「この世ならぬものの存在は実在するのか」といった神、妖怪にまつわる形上的な思想。あるいは日本人の祖先と神々への祈りと結びつき。また皇室がその祈りに対して担う役割といった日本の精神性に関する研究こそが平田思想の髄といえよう。

『鬼神新論』

神とは神霊のことである。篤胤が生きた当時、多くの儒者達の間で「神をどう捉えるか」「神は存在するのか」「神の祭はどうあるべきか」というテーマ議論されてきた。篤胤は一門を立ち上げたばかりの時期に『神新論』という著作でこの議論に割って入っていき、それが思想としての第一歩となった。

篤胤の立場は「儒教でいうところの神は日本でいう神であり、間違いなくこの世に実在し、今なお世界を包み込んでいる」とする。篤胤によると儒教のさまざまな神の捉え方で最も間違っているのは、(徳幕府が奨励していた)朱子学であるという。篤胤は、宇宙を動かす自然エネルギー陰陽二気・理という合理性で考えようとする朱子学の賢しらを批判する。篤胤にとって世界とは儒教がいうように、良い事をすればから幸福が与えられ、悪い事をすれば禍が下されるといった「人の行い」と「から与えられる禍福吉」が対応するようなシンプルなものではなく、より複雑なものであった。

神とはだけでなく見の冥界、地上のいたるところに存在し、人の禍福を決めるのはその中でも大禍日神(オオマガツヒノカ)大直毘神(オオナオビノカミ)(ガガ)の所業によるところが大きい。原則としては禍は大禍日神と神が、福は善神の大直毘神によって引き起こされるが、三神のご機嫌によってはその逆になることもある。神様というのは子供のように気分屋で、人の理性で捉えられるものではないのである。

神のご機嫌は人間には計り知れないが、人々は祭を通して神が荒ぶったり機嫌を損ねた時に「慰める」ことができる。祭では人々がしく集まり、歌い、踊り、美味しいものを食べ、いろいろ楽しい事をする。神々は強エネルギーであると同時に非常に素直な存在であり、人々の差し出す歌や舞や神饌に恥じらったりせず喜んでくれる。

祖先教と皇室の役割

篤胤は著作の『毎神拝詞記』や『玉襷』の中で神々に祈る重要性を唱えている。祈りの的は「神の恵み感謝し、寿ぐこと」また「神に己の過ちや穢れを祓い清めてもらうこと」。そうすることで人は日々を安らかに暮らすことができる。では、なぜ神々は人々に恵を与えてくれるのかというと、どれだけ世代が離れていても神々は全て私たちの「オヤ」であるからだ。篤胤はどれだけ血が離れていてもオヤは子供(人民)を大切に思うはずだと説く。

従来の神話解釈では、まず神々が土を作りそこに人民が生まれている。しかし篤胤はこれを逆に神々が(人民)が住む場所を作るために土を作ったと解釈した。「ムスビノカミがイザナミイザナギ(人民)のためにを作りなさいと詔した」とする人民中心的な篤胤の神話解釈ではアマテラス太陽神)や皇室ですら人民(おおみたから)のために存在するもので、そこに上下関係はないのである。

皇室とはアマテラスが人民を治めさせるために降した日本の君である。だが人間社会を治めるだけなら別に天皇がやらずとも足利氏でも徳氏でも可である。しかし篤胤の世界観では世の中とは人間だけで構成されていないものである。そこにはには見えない霊妖怪八百万の神々が跋扈している。それは一種の「霊の」である。ゆえに天皇とは神、霊、人民を含み込むを護る、の祭なのである。

瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)以来、皇室はその役割をきちんと果たしていた。だが儒教仏教の伝来により天皇は女々しくなり「御過失」を犯した。その結果、保元の乱以降世の中は乱れて武の世が訪れることになってしまった。しかし儒教国家と違ってには易姓革命く、人民を慮る祭者としての皇室の役割は消失していない。現代(江戸時代)の人々が太事を過ごせているのは徳川家康天皇を尊敬し、朝廷を安定させたからだと篤胤は言う。いずれにせよする神々から信任を受けた皇室も、皇室から大政を委任されている幕府もする心を失ってはならないのである。

だが人民も神々への祈りや先祖崇拝を皇室に任せっきりにしてはいけない。篤胤の死生観では人の霊は死後「冥界」に鎮まり、姿は見えずとも私たちの世界に重なっている。私たちは常にすぐ側にいるの神々や先祖から見守られているのだ。故に彼らに祈りをげる必要がある。皇室が巨視的に神々に祈るとすれば、人民は稲の収穫物など直接的な自然の恩恵に対して神々に感謝する必要がある。これは古代では当たり前に行われていたことであり、当時の庶民は皇室祭り新嘗祭など)を模倣して、日常の中の小さな祭を通じて神々の恵みに呼応していた。

篤胤()は、イエ制度を業経営の継承でなく祖先崇拝の継承と考えた。人はしも先祖を神主であり、跡継ぎは絶えず先祖をり続けるためにこそ必要である。養子をとる際にもそのことを念頭に相応しい者を選ばなければいけない。血統が繋がらずとも祖先崇拝を受け継げるという篤胤の思想は、孔子が「其のに非ずして之を祭るは諂うなり(自分のの先祖でもいのに祭をやるというのは諂いだ)」というように、儒教の祖先崇拝とは対極的なものであった。

まとめ

  • 日本における神とはオヤ(ご先祖様)のことである。
  • 神々(ご先祖)は冥界という場所から私たちを見守ってくださっている。
  • 神々は「人民を慈しむように」と詔し、天皇から降した。
  • 天皇は人民だけでなく妖怪神を含む「霊の」の祭である。
  • 人民もまた天皇の祈りを見習い、日々の中で神々(ご先祖)に祈るべきである。
  • 々はしも神々(ご先祖)を神主であり、祖先崇拝にはイエの存続が肝心である。

『霊能真柱』と幽冥界

(たまのみはしら)』は平田篤胤の生涯を通した代表著作である。そのテーマは2つ。「世界創世記日本の誕生」と「人のは死後にどこにいくか」であった。篤胤は江戸に入ってきた西洋の天文学を参考にしつつ、19世紀初頭に日本への侵出を画策していたロシアを念頭に置いて、本書で日本人アイデンティティ大和心)を確立させようと試みた。

篤胤は世界日本のみが持っている(と彼は考えていた)歴史的資料の断片、すなわち日本神話を精読することで、太陽地球日本世界が誕生していく様子を図示する。それによれば造化三神(之御中(アメノミナカヌシ)高御産巣日(タカミムスヒ)神産巣日(カムムスヒ))の持つ霊力「産霊(ムスヒ)」によって、何もない大きな宇宙クラゲのようなフワフワした物が誕生し、やがてそれは三つに分かれて太陽)、)、地(地球)となった。その後、地球ではイザナミイザナギ子供日本土)を産み、その後、潮のが集まって他の海外が生まれた。

イザナミイザナギ瓊矛(ぬぼこ)でドロドロの潮をかき混ぜて土を作ったが、矛を引き上げる時に垂れた一滴がオノゴロとなった。二柱はそのに降り立ち、矛を突き立て、これをの御柱として八尋殿を建てた。篤胤はこの柱を世界の中心と考え、人民もまた二柱を見習い、男女でまぐわい大柱を中心にを建てればそれは一つの小さな世界になるとした。は安らかにを営み、心をぐらつかせないように、その柱を心の抑えとするのである。

太陽とはであり、神話の中の天原(タカマガハラ)し、アマテラスをはじめとする八百万の神が住む明るい場所である。逆にイザナミスサノオがいる見のであり、汚く穢れた場所である(本居宣長は人は死後に見のに行くと述べている)。そして地球では天皇世界として人民を治めている。それでは死後の人々のはどこに赴くか。ここで平田篤胤の最も独創的な思想である冥界が出てくる。大国主が治める冥界はこの地上に私たちの世界と重なり合うように存在する。しかし現世とは隔たっていて向こうからこちらは見えても現世から冥界を見ることができない。けれども死者の霊は、冥界から常に々生きた人々を見守ってくれているのである。

冥界自由でのんびりした場所で、篤胤は自分が死んだら、死別した妻と心の師匠である本居宣長と3人で歌を詠んだり四季風景を楽しむ予定だったいう。

『古史伝』

平田学では日本神話を重視するが、篤胤は古事記日本書紀は元々存在した正しい神話の断片であって正確ではないと考えた。そこで、神から人へと口伝されているため正確性の高い『延喜式祝詞(えんぎしきのりと)』を中心に篤胤は「正しい神話(古史)」を自ら選び定めた。それが『古史成文』であり、『古史伝』はそれに底的な註解を加えた著述である。これは『古事記』に注釈を加えた本居宣長の『古事記伝』と同じやり方ではあるものの、実的に古事記研究した宣長に対して篤胤のテキスト読解は恣意的で、彼の主観に強く依存するものであった。そのため近代の文献学の観点からは篤胤の古史研究は見るに堪えないものであると戦後の思想史研究では頗る評判が悪かった。しかし篤胤は人文科学として神話研究していたわけでなく、今実際を生きる世界真実を探していたのである。現代人と篤胤の的意識の差は抑えておきたい。

宣長は『古事記伝』の中で「神とは神話の中に出てくる固有名詞を持った人格神だけをいうのではない。自然や山、木、人間にいたるまで、この世のありとあらゆる不思議なもの全てが神なのである」と述べる。いわゆる八百万の神であるが、篤胤はこの考え方に共鳴する。一方で宣長は「カミ」の語は分からないというが、篤胤は「一つのもの」の中から太陽地球となるべきものが萌え上がるように出てくる。その霊妙なエネルギーが具現化したもの、すなわち「(かび)」がカミの語であるという。カビとは腐ったものに生えてくるあの菌類(かび)である。そして牙の形状はペニス男根)であるという。神話の中で牙は女陰に含まれた形。すなわちセックス男女の交合)状態で出てくる。

篤胤の理論の根底にあるのは男女の性による生命の始まりである。仏教儒教が警した性行為を篤胤は宇宙の基礎と捉えたのである。、地、人、物。そしてにも山にも男女があり、世界男女セックスで成り立っている。そして男女にはそれぞれ役割がある。男神の高御産巣日が外の仕事を、女神の神産巣日が内の仕事を担当したように。また男神のイザナギ尊い左回り、女神イザナミは卑しい右回りで回ったように男女にはそれぞれ分相応の役割が存在するのである。更に篤胤はアマテラス岩戸に引きこもった時にストリップショーで観客を沸かせた事で有名なアメノウズメピックアップし、柔らかく明るく優しい彼女のような「嬌」を女性の徳と考えた。

平田思想の展開

平田篤胤は「本居宣長の後の門人」を自称したものの実的に古典研究した宣長と違い、宗教家としての側面が強い思想であった。恣意的テキストを切りりし、加筆する篤胤の古典読解法は現代の文献学の観点からは非常にまずいもので、同時代の宣長の子達からも邪であると睨まれた。学者肌の宣長に対して、神々や妖怪冥界実在を固く信じ、生涯を通じてその存在を確かめようとした篤胤の宗教性は、彼の思想が広まるにつれて学そのものの宗教化を引き起こした。篤胤本人は秩序維持論者であったが、その思想には過化する要素が胚胎していた。

平田篤胤の跡は養子の平田(かね)胤が継いだ。銕胤は篤胤が秋田に追放された後も江戸に留まり門人を統率しつつ篤胤の江戸帰還に尽力した。養の死後は平田思想の普及に努め、ペリー来航後は防献策を重ねる。銕胤は養から受け継いだ学塾気吹舎(いぶきのや)天皇を中心とした国家運営を説き、幕末期に尊王運動を擁護する立場をとった。篤胤の孫の平田延胤もと共に気吹舎の運営に携わり、明治維新後は明治天皇講として天皇に直接神道教育する立場にまで上り詰めた。

後継者の努力もあって篤胤の死後の子は1330人にも上り、その力は多大であった。幕末学は平田が席巻し、中でも矢野(やのはるみち)(おかくまお)、大正、六人部是香(むとべよしか)が有名である。彼らを中心とする学系神道の動きを総称して復古神道といい、明治維新の神分離、毀釈に大きな役割を果たした。平田水戸導する毀釈運動では文化的、歴史的価値のある文物や寺社が組織的かつ底的に破壊された。明治三年の大教布によりますます神学の教化が進むと思われたが、政府の高官は平田する祭政一致の政治体制が現実的に不可能だということを覚り平田は徐々に排除されるようになった。以後、仏教界の協力なくしては神道の活動も困難であることも判明し、また西洋列強の圧力でキリスト教の信仰も許され、復古神道民教化は有耶耶になっていった。

また篤胤の思想は近代日本義の成立にも寄与している。三河出身の尾正胤は平田篤胤の後の門人として学を学び、1861年に学者の西洋崇拝を批判する論考として『大帝国論』を上している。『大帝国論』における皇統の成立に基づく天皇の優越性、日本世界の始原に位置づける日本中心義は本居宣長や平田篤胤の学思想を再確認するものであった。また家族を一つの世界とみなす篤胤の家族義も明治以降、家長を大柱としたイエ制度、天皇家長とした日本家族国家観、日本を頂点としたアジア一家思想、すなわち八紘一宇八紘(あめのした)(おお)ひて(いえ)せむ)へと繋がっていく[1]。後に国体論として成立するこのような義は日本大陸に進出する際の侵略イデオロギーとして利用され、日本世界大戦へと突き動かす観念的動力となった。それゆえ戦後の篤胤は皇史観と八紘一宇の祖という汚名を着せられることとなる。

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参考文献

関連項目

脚注

  1. *天子家長として世界家族と見なす考え方自体はアジアに古くからあり、モンゴルクビライ鎌倉幕府に送った書の中にも「四を以てと為す」という文言が見られる。
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掲示板

  • 2 ななしのよっしん

    2023/08/02(水) 02:44:27 ID: /xtJF+9IM5

    できたばかりなんだね。
    小林秀雄さん経由の知識だから間違ってるかもしれないし、研究が進み、見方ができてるかもしれないが、個人的にはの多い人だと思う。
    本居さんの子といってるが思想的つながりはなく、を受けた独自思想者ではないかと思う。
    本居さんの思想は、上田成さんの関係者やさらに傍流が継いだのではないかと勝手に思ってる。どうも継承問題は直系ではなく、傍流遠縁という印
    仏教だって「生まれてくること自体が苦である、悟ることによって生まれてこないことをす」「洞窟森林深く一人で瞑想せよ」「祭葬式はやるな」「行為を正しく実践することが私への最高の供養である」と、シッダッタさん本人は言ってるのに、日本仏教は名義泥棒状態であまりに関係ない。
    かといって日本の人々の生活に根ざした宗教として「日本仏教」を改めて名乗れもしない。
    しかしまた、本居さんも気がついてるけれど「文字の中には古代日本はない」という事実を今の学者追求してくれてるのか疑問。
    古事記の序文自体、偽はあるが、稗田阿礼さんの存在は、視覚文明以前、
    (省略しています。全て読むにはこのリンクをクリック!)

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  • 3 ななしのよっしん

    2023/10/08(日) 09:36:45 ID: pU/+DKfpFV

    >>1
    学という概念自体が、神道原理義と儒教原理義を悪魔合体させたアレな存在だからなぁ……

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  • 4 ななしのよっしん

    2024/09/29(日) 17:58:31 ID: 6ewzeyqsTZ

    文字史料には限界があるわけで、
    学自体は、現代のジェンダー史やアフリカ史の手法を先取りしているような、
    当時としては先進的な学問だとおもうけどね

    行き過ぎると、フェミニズムやWoke思想みたいなヤバイ方向に行くけれど

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