徳川家定(1824~1858)とは、江戸時代の征夷大将軍である。
第13代征夷大将軍。一般的には病弱で国難に耐え切れず後継者問題を引き起こした人物としてのみ有名。
徳川家慶と側室・おみつの方(本寿院)の間に生まれた、家慶の七男。当初は家祥と名乗っており、次期将軍として着々と育てられた。
しかし天保11年(1840年)に疱瘡を患い、徳川家慶の子息にみられた病弱な体質は彼にも共通していた。『徳川慶喜公伝』によるとこの病気で醜くなり、奇行の多い存在となったようだが、『続徳川実紀』や『浅草寺日記』には鷹狩や御成などを後継者として黙々と繰り返す姿も見られ、別に諸々の儀礼が行えないほどではない、という存在ではあったようだ。
なお、大河ドラマで頻出の一橋派工作を担った天璋院(篤君)が正室としては有名であるが、それ以前に鷹司政通の養女・天親院(有君)、一条忠良の娘である澄心院(寿明君)の2人の正室と死別している。が、側室のお志賀の方も含め、誰とも子をなすことはなかった。
ペリー来航の嘉永6年(1853年)、この処理もできないまま、父・徳川家慶が死んだ。以後、阿部正弘は、3分の2の大名の開国方針に従い、これを着手する。しかし、日米和親条約締結を機に辞意を示した阿部正弘を徳川家定、徳川斉昭等が止め、安政の改革が始まった。徳川家定自身の意志はどの程度あったかはわからないが、徳川家定は阿部正弘が推進した軍制改革の産物である各種施設を訪れている。
かくして、タウンゼント・ハリスと会談を行った徳川家定であったが、既に後継者争いの渦中にあった。鎖国攘夷を進めたがる一橋派の推戴する徳川慶喜、血縁の近さを説く南紀派の推戴する紀州藩主・徳川慶福の2人である。とはいえ、朝廷工作などに長けた一橋派も一枚岩ではなく、徳川慶勝や蜂須賀斉裕といった重職を狙う存在も他にいたのだ。
結局、井伊直弼を大老にして、あっけなく徳川慶福が徳川家茂として後任となった。かくして井伊直弼と連携して国難にあたろうとしたのではあるが、脚気を悪化させて、35歳であえなく亡くなってしまった。
暗君として名高いが、南紀派の資料と一橋派の資料ではかなり見え方が異なっており、実際には自身の意見を重臣に伝えられる賢明な存在だったかもしれない。この辺は、当時の政治状況を踏まえたうえで、引き続き注意が必要な事案ともいえよう。
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最終更新:2025/12/11(木) 00:00
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