武田尚信とは、甲斐源氏武田氏の分家で、奉公衆を務めた京都武田氏の末裔である。
京都にいた奉公衆の武田氏は甲斐武田氏、大井氏、安芸武田氏がそれぞれ分流した武田信武の子息のひとりで、武田公信の子孫にあたる。
その後系図上は武田武明、武田満信、武田持信と武田持明の兄弟、持明の子で武田政明と続いていき、代々在京奉行を務めたとされる。そして武田政明の子が武田尚信である。
彼は子の武田信喬とともに、明応の政変以降の奉公衆の解体に合わせて、所領があった尾張を経由して甲斐に下向したのである。父子ともに冷泉為広と親しく、武田尚信は彼に歌を師事していた。そのことが武田信玄を筆頭に、武田家御一門衆、親類衆の歌道への傾倒へ拍車をかけ、今川氏経由のルートと同様に甲斐歌壇の成立に寄与したとされる。
ただ武田尚信自身はすでに出家して道鑑と号しており、また病気がちであまり武田家の軍事活動には参加しなかったようだ。武田信喬の嫡男である武田彦五郎も1539年に甲斐に来る途中船が転覆して溺死したようで、あまり運のよい人物ではなかったと思われる。
その後京都武田氏は武田信喬の息子、あるいは孫と思われる二代目武田彦五郎が継ぎ、彼は武田勝頼の代には家臣団では上位の親類衆として軍事にも参加していったようだ。 なお、この二代目彦五郎はイケメンで、武田信玄が男色の関係を持とうとし、彦五郎をかばった万福寺教雅との関係が悪化したという逸話が残っている。
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最終更新:2025/12/24(水) 09:00
最終更新:2025/12/24(水) 08:00
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