武田晴信は、武田信虎の嫡男として甲斐に生まれた。幼名太郎。
信玄とは出家したのちの法名である。
晴信が20歳になる頃、父・信虎は当時交戦していた駿河の今川家と和睦を結んだ。しかし、和睦のために信虎が駿河入りすると、晴信は親晴信派の重臣たちとともに甲斐路を封鎖して信虎を追放し、家督を相続した。
追放の理由は信虎の粗暴な振る舞いが原因とする説や、父が晴信の弟・信繁を寵愛したことが原因とする説など、未だに定説を見ない。しかも追放後も信虎と武田家との交流は続いていた。
武田家当主となった晴信は信虎時代に盟を結んでいた信濃諏訪家へ侵攻し、信濃のほとんどを平定するなど勢力を拡大。すると、その勢いを止めようとする越後の上杉謙信(長尾景虎)が北信濃に出兵し、武田との5度にわたる長合戦を繰り広げる(川中島の戦い)。この川中島の戦いの最中に結んだのが有名な「甲相駿三国同盟」である。
駿河の今川義元が桶狭間において敗死すると、信玄は独立を果たした松平家(徳川家)と共謀して駿河への侵攻を開始。さらに今川家へ増援を送った北条家とも争いはじめるようになる。また、1571年に織田信長が比叡山延暦寺を焼殺した際には激しくこれを非難し、落ち延びた延暦寺の僧を保護し織田家との対決の姿勢を見せるなど、四方への勢力拡大を図った。
そして1572年、征夷大将軍・足利義昭の求めに応じてついに上洛を試みるまでになった。
ところがその途上で持病が悪化し、甲斐へと撤退する最中に死亡。義昭公の求めの翌年のことであった。
武田信玄の残した金言の一つに「人は城 人は石垣 人は堀~」というものがある。よくこの言葉が引用される際もこの部分だけ書かれることが多く、「人は壁?」と誤解されることもある。
実際の句は「人は城 人は石垣 人は堀 情けは味方 仇は敵なり」となる。この前3句は「城と石垣と堀、これら3つと同じくらい人心は大事だ(または、城を堅固にしても人心が離反すれば無意味である)」と言っているのである。
この句からも解るように、信玄は甲斐領民の保護・育成に努めていた。特に、領内の黒川・湯之奥の両金山からの収入著しく、それを元手に「信玄堤」に代表される治水政策を行ったことにより一帯の収入は向上し人心も安定した。
武田信玄やその功臣の事跡を「三国志演義」のように誇張して書き立てた「甲陽軍鑑」などに現れる信玄像をベースにしたキャラ付けがなされることが多い。また後世武田信玄と上杉謙信の争いを題材にした読み物の挿絵をモチーフにして、武田家家宝の鎧「楯無」(兜に鬼の面がついたアレ)を纏った武士として描写されることが多い。
また、鎧を身に纏って現れる関係で偉丈夫に描写されることが多いが、実は武田信玄は病弱だったという説もある。この巨体は「甲陽軍鑑」とそれを基にした説話物、そして誤って信玄像として紹介された肖像画による影響が強い。
「風林火山!」
武力10、統率11、騎馬隊、コスト3.5と総合的な能力は非常に高い。計略は「風林火山」。
武田軍の武力と統率と移動速度が上がり兵力まで回復・・・と豪勢な計略。
しかしそれぞれの上昇量はそこまで高くなく、本人が3.5コストとかなりのスペースを取るためデッキ枚数で劣りやすい。また風林火山の消費士気は9、と全計略でも二番目の重さであり(一位は上杉憲政の関東管領職譲渡の10)、万全の状態で撃てないと士気効率が非常に悪いのもネック。
ちなみに計略発動時ドヤッとかキリッとかいうコメントが流れる事が多い。
Ver1.10で登場した彼は今まさに力尽きようとしている晩年の信玄。
本人は3コストとコストは落ちたが武力8、統率12と太原雪斎と同じく統率トップである。地味に魅力だけじゃなく攻城も手にしている。
「明日は瀬田に旗を立てよ…!」
弱弱しい台詞で発する計略「瀬田に旗を」は、自分が撤退する代わりに武田軍の武力と統率と移動速度を上げる計略。
風林火山と違って士気6なので、さらなる計略コンボも行いやすいが、デッキのメインたる3コストが落ちるのはやや痛い。
「信長の野望」(PC)シリーズにおける武田信玄の能力一覧。総合能力は全シリーズ通してトップクラスである。
| 軍事能力 | 内政能力 | ||||||||||||||
| 戦国群雄伝(S1) | 戦闘 | 99 | 政治 | 96 | 魅力 | 98 | 野望 | 89 | |||||||
| 武将風雲録(S1) | 戦闘 | 96 | 政治 | 92 | 魅力 | 96 | 野望 | 94 | 教養 | 82 | |||||
| 覇王伝 | 采配 | 98 | 戦闘 | 96 | 智謀 | 94 | 政治 | 93 | 野望 | 94 | |||||
| 天翔記 | 戦才 | 192(A) | 智才 | 188(A) | 政才 | 194(A) | 魅力 | 96 | 野望 | 95 | |||||
| 将星録 | 戦闘 | 97 | 智謀 | 94 | 政治 | 96 | |||||||||
| 烈風伝 | 采配 | 99 | 戦闘 | 95 | 智謀 | 94 | 政治 | 95 | |||||||
| 嵐世記 | 采配 | 107 | 智謀 | 87 | 政治 | 85 | 野望 | 100 | |||||||
| 蒼天録 | 統率 | 90 | 知略 | 87 | 政治 | 85 | |||||||||
| 天下創世 | 統率 | 90 | 知略 | 87 | 政治 | 84 | 教養 | 74 | |||||||
| 革新 | 統率 | 110 | 武勇 | 88 | 知略 | 96 | 政治 | 94 | |||||||
| 天道 | 統率 | 110 | 武勇 | 82 | 知略 | 96 | 政治 | 94 | |||||||
掲示板
206 ななしのよっしん
2025/11/24(月) 11:54:05 ID: Otgu+P3XWr
駿河侵攻のずっと前から今川氏真とその周辺で武田への不信感が高まっていた疑いがある。というのも信玄が今川との盟約は必ず守るとわざわざ今川に伝えたことがあった
1560年代中頃には今川氏真が対徳川のための遠江投資で駿河に増税していて、それで一部の駿河衆が武田に何とかしてくれと頼んだ可能性がある
しかし氏真の武田に対する不信は桶狭間の翌年には始まっていて、信玄が義元に送った援軍が禄に戦わなかったのかも
更に遡ると三国同盟は今川が武田北条に救援されるより今川が武田北条を救援したことが多く、これが氏真時代も変わらない傾向だったため、氏真周辺がブチ切れた可能性もあるな
北条は対織田徳川で地理的に共闘不可で仕方ないが、武田はちゃんと援護に来いよという
もっとも信玄は毎年謙信と抗争していて北条からの出兵要請にも応えているから、実際は三河に出兵する余裕など無かったのだろうけど
それでも今川を救援する際の通路になる奥三河や天野家とは音信したので、これが氏真の疑念を招いた疑いもあるな
兵は出さないくせに今川傘下の国衆と連絡を取り合ってる→
(省略しています。全て読むにはこのリンクをクリック!)
207 ななしのよっしん
2025/11/24(月) 12:01:49 ID: Otgu+P3XWr
まあ天竜川の川運や木曽谷の材木を奥三河経由で販売するために奥三河や天野家と仲良くするのは当たり前ではあったが
穴山信嘉が義信事件と同時期に自害したが、もしかしたら彼は義信に加担したのではなく、そのずっと前から始まった今川の武田に対する不信で両家の板挟みになって自害したのかも
三国同盟は結果だけみれば武田だけ勢力拡大、北条は現状維持、今川だけ割を食ったし
208 ななしのよっしん
2025/11/24(月) 12:32:06 ID: Otgu+P3XWr
武田今川の関係では1564年の武田上杉の抗争が影響を与えた疑いもあって、先ずこの抗争全体の規模では北陸から中部地方に及んだ大規模な抗争の割に名前が付けられていないのだが、
結果として武田が勢力拡大した一方、美濃方面では信玄が信長に譲歩した上にこの後から武田織田の同盟交渉を始めていて、氏真と彼の側近から見たら疑念が確信に変わったとしてもおかしくない結果
背景には永禄の変による情勢激変があり、氏真も家康との和睦交渉を始めて締結はしたのだが、おそらく武田が織田に敗北した上織田にすり寄った結果を受けてのことだろう
この抗争で信玄は謙信に勝ち飛騨北陸の上杉勢力を切り崩して取り込む一方、尾張美濃方面では織田信清を見捨てる結果になった上、信長の勢力拡大で武田傘下の遠山家が信長に寝返りかねず(遠山諸家は信長の家と縁戚)、苦しい状況ではあった
どうも信玄は今川にも影響を及ぼす重大事案について、氏真に相談や事前通達することが無かったようだ
相談はしたが書状が後世に残らなかっただけかもしれないが
あるいは氏真に反対や妨害されないようほぼ
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最終更新:2025/12/05(金) 17:00
最終更新:2025/12/05(金) 17:00
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