水野忠之(1669~1731)とは、江戸時代中期に活躍した大名である。
岡崎藩主・水野忠春の4男として生まれ、親戚の水野忠近の養子となったとされるが、27歳で徳川綱吉に謁見するまで特に役目はなく、暇を持て余していたとされる。
しかし元禄12年(1699年)に実家の兄・水野忠盈が亡くなると、その跡を継ぎ藩主となる。彼が最初に表舞台に出るのは赤穂事件の時であり、元禄14年(1701年)の家臣団の鎮静化、元禄15年(1702年)の討ち入りに参加した赤穂浪士の預かり、等に関わっている。
その後奏者番、若年寄、京都所司代を経て、享保2年(1717年)に老中となった。京都所司代時代の彼を知る、近衛基熙は「只人にあらず。尤も聡明、比類なし」と評している。このような清廉潔白な人物であり、徳川吉宗が進めた享保の改革前期の能財政再建を主導した。しかし彼の性急な財政再建は庶民の反発を強め、享保15年(1730年)に老中を辞任。これは悪評の責任を取らされた辞任ともいわれている。
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最終更新:2025/12/12(金) 11:00
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