石橋和義(?~?)とは、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて活躍した武将である。
1335年に足利尊氏が建武政権から離反すると、それに従った。九州に敗走した尊氏は山陰・山陽道に何重もの防衛ラインを敷いたが、石橋和義は備前の守りを任された。九州から尊氏が再帰すると山陽の兵をまとめてこれに合流し、各地で転戦して武功を挙げた。
そして室町幕府が成立すると伯耆、備前、若狭の三か国の守護に任じられ、引付頭人、評定衆筆頭に列されるなど幕内で重きをなした。しかしこのころから本家である斯波氏と対立し、斯波高経との争いの末にすべての官職を奪われてしまった。
斯波高経が失脚すると足利義詮の配慮で息子の石橋棟義が奥州総大将に任じられ、父子で奥州に下向する。当時の奥州は吉良氏と斯波氏が争っており、両者の争いを調停するために派遣されたのである。しかし、陸奥守に任じられた棟義とともに一時的に一定の影響力を持ったものの、斯波氏が吉良氏を追い東北で地盤を固めると石橋氏の勢力も衰え、1381年の発給文書を最後に記録上からは消えてしまう。
その後石橋氏は京都で御一家として重んじられた一方、奥州に残った家系は塩松石橋氏となった。
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最終更新:2024/04/26(金) 10:00
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